ハリエット・ポッターの不思議な冒険 作:新参なめ子
アラディアは恐ろしい本性を内に秘めているとは思えぬ爽やかな笑顔で「じゃあまたね、小鹿ちゃん」と嫌な言葉を残し、颯爽と去っていった。ハティはアラディア・ロウルに対して、どこかスリザリンで育ったマリーン・ダーハムの様な印象を抱いていたがアラディアはマリーンよりもよほど男勝りな女性なのではないか。とぼんやりと考えていると、マリーンは一旦ガラドリエルを庭園の外に下がらせてひどく憤慨した様子でハティの隣に座った。
「まったく相変わらず悪趣味な女ですこと。わざわざオベロンの仮装で私のパーティに参加するなんて、度し難いわ」
マリーンは苛々とした様子だったが、先ほどの予言についての動揺を隠しきれずに爪を噛んで暫く思索にふけった。そしてややあって、我に返ったように真剣な顔でハティを見やった。
「ハティ、あなたアラディアの予言を信じていないでしょうね?」
「予言自体は本物なのかもしれないと思いました。だけど、内容は誰を指しているか分からないものでしたし……必ずしもわたしのことを指しているとは思えません。ダヌの息子も光の娘も誰だってあてはまるではありませんか」
「そうね、予言の中にはあんな風に対象を絞り込めない内容も多い。だから、大抵は魔法省の神秘部で保管され誰のことについての予言か精査するのよ。予言は、未来を左右する道しるべですものね。それをあの女は自分の中だけにとどめて居るのだから、とんでもない不届きものだわ」
マリーンは珍しく荒々しい口調で吐き捨てた。
彼女が心底アラディア・ロウルという魔女を嫌っているのがみてとれて、ハティは困り果てた。
「でも、アラディアはわたしに酷いことはしませんでしたよ。もっと高飛車な人を想像していたんですが、意外と親しみやすい人でした」
「それがあの女の魅力であり警戒すべき点なのですよ、ハティ」
「え?」
「私たち魔女は卒業すると社交界の住人を相手にチェスゲームに興じることになります。だけど、そのゲームは既にホグワーツで始まっているのよ。人脈形成や勢力争いという名目でね。いかに自身の魅力で仲間を作ることができるか……所謂、魅惑のゲームよ。あの女は、こと人を誘惑することにかけては負けなしなの。あなたが今感じたように、自分に好意を抱かせるのが上手なのよ」
心なしかマリーンの口調は口惜し気であった。
マリーンは確かに美人であるが、アラディアにはマリーンにない人を惹きつける魔性と人心掌握術、そして他者をコントロールする天性の能力がある。彼女の言う通り、魅惑のゲームに関してはアラディアに軍配があがるとハティは思った。
「じゃあ、あの予言もわたしをいい気にさせて好意を抱かせるための嘘なんでしょうか」
「正直なところ、わからないわ。私がアラディアの立場ならば、あの予言がハティ・ポッターを指しているとわかっていて、あなたに予言を開示したりしないもの。そんなことをすれば、あなたが余程分別のある子どもでない限り高慢な子どもに育ってしまうものね」
「高慢な子ども……」
確かに普通の子どもであれば”生き残った女の子”という称号に加え、予言を得たことによって権威主義的な子どもに育っても仕方がない。しかし、そこで思い上がるほどハティは自己肯定感が高くはなかった。
「逆にアラディアの狙いはそこにあるかもしれないわね。貴方を自尊心の肥大した子どもに育て上げて、万能感だけが高い無能な魔女に仕立てるの。そうすれば、”生き残った女の子”を崇める魔法使いたちはあなたに失望し、例のあの人を滅ぼしたことさえじきに忘れていくでしょう」
「何のためにそんなことを?」
「勿論、闇の勢力が息を吹き返すためよ。言わばあなたは平和な時代の象徴で、やり方さえ理解すればグリンデルヴァルドのように群衆操作の天才になれるかもしれない。あなたはアドバンテージを持っているし、その素質もあるんですもの。自分でもそう思わない? あなたは研磨すれば、光り輝く宝石のように、さなぎから蝶に生まれ変わったように、あふれる魅力の持ち主になれるわ。アラディアに負けないくらい」
ハティは困惑顔になった。
「アラディアほど美しくはなれないと思いますが」
「当たり前でしょう? 今のあなたはまだ幼いんですもの。ともかく、アラディアに惑わされることはありませんよ。あの女は人を操作するためならば、どんな嘘もつきますから」
マリーンは確信の籠った口調で言い放ち、ベンチを立った。
その時には彼女からは予言を聞いた時の様な動揺は消え去っていて、彼女は普段通りの嫋やかな笑みを浮かべていた。もしかして、ハティと話をすることで彼女自身、思考を整理したかったのかもしれない。とハティは思った。
「劇が始まるわ。そろそろ、私は戻るわね」
そういうと、マリーンは早々とイングリッシュガーデンを出て行った。入れ替わるようにして「なにがなんだかわからない」という迷子のような顔をしたガラドリエルが戻ってきた。「ハティ、マリーンは何の話をしていたの」
「アラディアを信用したら駄目って話かしらね」
ハティは肩を竦めた。
ガラドリエルを連れてイングリッシュガーデンから出たハティは、ドラゴンの巣穴から生還したような気分だった。ほんの短い時間だったものの、酷く疲弊しきっていてガラドリエルに指摘されるまでハティは気付かなかった。
「ハティ、イヤリングが一つないよ」
「え? 嘘でしょう」
「右のイヤリングがなくなってる」
彼女の言う通り右耳に手をあてたハティは悲鳴をあげた。イヤリングがない。
「ど、ど、どうしよう! フィルからの借り物なの!」
「慌てないで、ハティ! この前にハティが失せ物ボールを貸してくれたでしょ、それでね、私もパパに送ってもらって持ち歩いてるの! よく物をなくすから」
ガラドリエルは気恥ずかしそうにポケットの中から失せ物ボールを取り出して、小さく笑った。
「リエル、借りてもいいかな?」
「うん、それに一緒に探してあげるね」
「ありがとう」
ハティは安堵の溜息をついた。「一応、フィルとプリスにイヤリングを探すって言ってこないと。プリスに黙って外に出てきたの」
テントの入口に向かって二人は、ちょうど城からテントに向かって歩いてくる人影を発見した。ガラドリエルは急いでいたのでいつもの人見知りな自分を忘れたのか、物怖じしない様子で「すみません」とその人物に声をかけた。こちらに歩み寄ってきたその人物が松明に照らされているのを見て、ハティは「あっ」と声をあげそうになった。仮装したダフネ・グリーングラスだったからである。
ダフネはハティに気付くと小声で「ハリエット・ポッター……」と呟き、ブルーの瞳を眇めて「なに?」とつっけんどんに答えた。これにはガラドリエルは怯えた様子でびくりと肩を震わせ、まごつき始めたので、ハティはしびれを切らして代わりに口を開いた。
「テントの中にフィルとプリスがいるの。多分、今頃はエーダインへの求婚でも見てるんじゃないかな? ちょっとイヤリングをなくしちゃってそれを探しにいくから暫く合流できそうにないって二人に伝えてくれない?」
ダフネはハティの爪先から頭上まで値踏みするようにじっくりと眺めた。そして得心が行ったように「そのイヤリングって、フィルが持ってたモルガナイトのやつよね?」と小首を傾げた。
「うん、そうだけど」
「それだったら、多分この会場にないと思うわよ」
「どうしてわかるの」
ハティは目を丸く舌。
ダフネは少し顔を顰めて答えた。
「これはそうね、女の勘ってやつよ。これ以上は質問しないでちょうだい。不愉快で口にもしたくないの」
「ああ、そう。これ以上は聞かない」
降参したように両手をあげると、ダフネは相変わらず不満そうな顔をしていたが、ややってせせら笑った。
「感謝の言葉はいらないわよ。貴方には借りがあるから。こういうの、弱みになるから早々に手放してしまいたいのよね」
「何のことだか分からないけど、ご希望通りありがとうは言わないわ。ミス・グリーングラス」
ダフネはつんと顎をあげると澄ました様子でテントの中へと入っていった。
スリザリンの生徒もハニーバジャークラブのハロウィーンパーティに参加していることを意外に思いながら、ハティは「行こう、リエル」ち未だに震えているガラドリエルの手を握った。彼女はおずおずと〈失せ物ボール〉を地面に放ると「ハティのモルガナイトのイヤリング!」と大きな声が唱えた。たちまち失せ物ボールは地面の上を転がり、城の方へとぴょんぴょんと跳ねていった。
「ダフネの言う通りだ! 城の方にあるみたい」
「だけどそれっておかしくない? わたしはアラディアに連れ出されるまではずっとテントの中にいたし、テントの外に出てからもずっとイングリッシュガーデンにいたのに。アラディアが盗んだってこと?」
「わ、わかんない。ごめんね、お庭で話している時にハティの耳にイヤリングがあったか覚えてない」
ガラドリエルは泣きそうな顔で頭を激しく振った。ハティは「気にしないで、失くしたわたしが悪いんだから!」と彼女の手を握ってボールを追いかけた。失せ物ボールはダフネの言う通り城の中に入るとどんどんと廊下や階段を突き進み、やがて地下へと続く階段の前に辿り着いた。
ハティは怪訝に眉宇を顰めた。
「どうしてこんなところに?」
「ボールがおかしくなっちゃったのかな?」
「でもこの前にリエルと一緒にゴブストーンを探していた時は、全部正確な場所をボールが見つけてくれた。誰かがイヤリングを持ってここまで来たってこと?」
嫌な予感に声が震える。もしも、失せ物ボールが正確にイヤリングの位置をさしているのならば悪意ある誰かにモルガナイトのイヤリングが盗まれたということに他ならない。そして地下を使うような生徒は、スリザリン生とハッフルパフ生くらいであった。
「リエル、フィルやプリスにわたしは地下に探しに行ったって伝えてくれる? きっと今頃、長い間わたしが戻ってこないから心配してると思うの。それに、フィルのことも心配なの。アラディアに酷いことをされてないといいけど」
「アラディアならきっと大丈夫だよ。ハティのことを気に入ってたから、ハティの友達を傷つけたりしない」
「そんなに単純な人ならいいんだけど。わたしのことが気に入ったって話も嘘かもしれないし」
ハティは表情を曇らせた。
そもそもアラディアがハティに聞こえの良い言葉を吹き込んでハティを利用しようとしていてもおかしくないし、マリーンの言う通り彼女が見せた予言も信憑性に欠ける。スリザリンの監督生を務めるほどの人物が容易くハティやフィルを許すとは思えない。
「わ、わかった。私、フィルとプリスに伝えてくれるね」
「ありがとう、リエル。ボールも貸してくれて、感謝してる。イヤリングを探してすぐにパーティに戻るから」
「う、うん!」
踵を返して去っていくガラドリエルの背中を見送り、ハティは石造りの狭い階段を降りて行った。ボールは階段の下で飛び跳ねていたがハティが近づくと、ごろごろと薄暗い回廊を転がっていく。角をいくつか曲がると壁には緑色を基調とした壁紙やタペストリーがつるされていて、廊下の奥には部屋のような空間があった。一番奥には大理石の壁があり、まるで古代ローマの寝殿のように見上げるほど大きな入口がある。中に入るとそこは薄暗くがらんとした女子トイレであった。
「豪華なトイレ」
地下にあるにしては広く、壮麗なトイレである。床にはモザイク模様のタイルが張られ、中央には円形の手洗い場がある。両側にはずらりとトイレが並んでいて、天井も高い。これほど大人数のトイレが並んでいるのは、ハッフルパフかスリザリンの寮が近いのかもしれない。
ボールはごろごろとタイルの上を転がって、やがて一つの個室の中へと入った。そこには洋式トイレがあって、失せ物ボールはまるで水遊びでもするかのように水の張られていないタンクの上でぴょんぴょんと飛び跳ねた。覗き込んでみるが、そこには何もない。
「やっぱりこのボール壊れてるのかしら?」
ハティの言葉に憤るようにボールがまたも激しくタンクの上で跳ねる。陶器のタンクに叩きつけられる音に、ハティは段々と焦ってきた。このままだとタンクが割れる。「ちょっと、大人しくしてよ!」一喝して、慌ててタンクを開けたハティは唖然とした。
タンクの中にある部品に器用にイヤリングがひっかけられていたからである。
「イヤリングだ! お前、壊れてたわけじゃなかったのね!」
そうだ、と言わんばかりにボールが跳ねる。ハティは慌ててイヤリングを部品から取り外しハンカチで包んで大事にバッグの中に入れると、〈失せ物ボール〉をそっと両手で包み込んでそれもバッグの中に入れた。
イヤリングが見つかったことでハティは安堵したが、暫くすると何故イヤリングがトイレのタンクにあったのか。という疑問がむくむくと湧いてきた。パーティの間、イヤリングをハティから奪う機会がある人間がいるとすればアラディアであるが、彼女が果たしてこのように卑小な行為をするだろうか。とハティは腑に落ちなかった。
「どうしてこんなところに……何のために誰が?」
そう呟いた時、どこか遠くから獣とも人ともつかない低い唸り声が聞こえてきた。それと同時に廊下を何か重たいもので引きずるような音もした。ハティははっとして個室から出るとトイレの大きな入口へ恐々と近寄った。そして、ハティは思わず声にならない悲鳴をあげた。
廊下の窓からぬっと四メートルもの高さのある怪物が出てくるのが見えたからである。肌は鈍い灰色、ずんぐりとした図体に反して手足は長く、床を引きずる様にして巨大な鉄の棍棒を手にしている。怪物が近づくにつれて洗濯していない靴下と公衆トイレの匂いをない交ぜにしたような強烈な悪臭が鼻をついた。
「な、なんなの。あれ」
慄然と呟いていると、怪物は岩の様な巨体に載った禿げ頭を傾げて、きょろりと廊下を見渡した。そして。
「あ……っ」
目が合った。そう思った瞬間、ハティは反射的に悲鳴を上げて踵を返していた。背後から怪物の雄たけびが廊下、トイレに響き渡る。退路はトイレの個室しかなかった。慌てて一番奥のトイレの個室に駆け込んでいる間にも、廊下を巨体がひた走る振動と足音が聞こえた。
トイレの個室に身を隠したハティは「杖……杖は……」と呟き、焦燥感と恐怖でバックの中をひっかきまわした。そして杖をバッグの中に入れていなかったことに気付いた時、つーっとこめかみから頬を冷や汗が伝った。
終わりだ。そう思った瞬間、足音がとまった。怪物が歓喜の声をあげてびゅんっと棍棒を振り上げる音が響く。咄嗟に蹲ったハティの頭上を、棍棒が大きくないで行く。個室の木製扉がへし折られる音が、鼓膜を震わせた。
ハティは啜り泣きながら頭を抱えてうずくまり、どうしてこうなったのか。と考えた。今日がハロウィーンだから悪い妖精が冥界から戻ってきたのだろうか? そもそもあれは妖精? どうしてあんな怪物が学校に中にいるのか。と疑問は尽きなかったが、その間にも破片が頭上から降ってきた。
巨大な棍棒はそのままトイレの壁を叩き壊し、獲物を逃した怪物は怒りの咆哮をあげて中央の洗面台に棍棒を叩きつけた。水飛沫がトイレに降り注ぎ、ハティは一瞬でずぶ濡れになった。
「誰か、誰か助けて……」
自分の口から首を絞められたような音が聞こえる。ハティは必死に拳を口元に押し込んで、目尻から流れる涙をそのままにタンクの下に身を押し込んだ。棍棒を引きずった怪物が自らが破壊したトイレの扉からぬっと顔を出してこちらを覗き込む。その大きな口がハティを見つけてにいっと笑った。
ハティは目の前が真っ暗になった。終わりだ、ここで死ぬんだ。何が光の娘だ、アラディアの嘘つき!
せめて痛みを感じることなく死にたい。と覚悟して目を瞑ったその時だった。
「こっちだ! このデカブツ!」
廊下から誰かが叫び、怪物の頭に何かがぶつかって乾いた音を立てて床に転がった。反射的に目を開けたハティはトロールの足元で跳ねる黄金の槍を見て、瞠目した。妖精の騎兵が持っていた槍である。
ハティの眼前まで迫っていた怪物が痛みを感じた様子もなく、何か虫が頭にとまったかのような様子でゆっくりと振り返る。怪物の視線の先にいたのは息を切らしたロニー、ヒュー、そしてハーミスであった。
ロニーは燃える様な青い目で怪物を睨みつけると、足元に転がっていた金属パイプを拾い上げ大きく振りかぶり怪物に投げた。彼女の投げた金属パイプが顔面にヒットする。
「あたった!」
ロニーが喜色満面に声をあげて、彼女の隣でハーミスが青白い顔をしながら「君はそれでも魔女か!?」と鋭い声をあげた。
「あんな金属パイプなんかでトロールを倒せるわけないじゃないか!」
「何もしないよりマシでしょ!」
ゆっくりとトイレの出入口へと歩き始めるトロールに杖を向けながら、冷や汗をかいたヒューが刺々しい声をあげた。
「お前ら、夫婦喧嘩してる場合か!? どうでもいいから、トロールを引き付けとけ! ウィーズリー! グレンジャーはどうにか魔法で俺とウィーズリーを援護。俺はイオラを助ける!」
「ヒュー・フィールディング、あんただって王子様気取ってる場合じゃないでしょ!」
文句を言いながらもロニーは「ウスノロ! こっちだ!」と叫びながら手あたり次第に近くに落ちている破片を拾い集めてトロールに投げ始める。ロニーに注意が向いたその隙に、ヒューはトロールの視界に入らない位置を駆け抜け、するりと個室に飛び込んできた。
「立てるか、ハティ!」
「腰抜けた……杖もない……」
わあわあと堰を切ったようにハティが泣き始めると、ヒューは「いいから動いてくれよ!」と舌打ちをして腕を引っ張った。引きずられるようにしてトロールから距離をとる。破片を投げつけてトロールを引き付けていたロニーが、ついには半泣きになって音をあげた。
「フィールディング、もう無理! ごめん、ハティ! 早く逃げて! ハーミス、何かいい呪文はないの!?」
「トロールを倒す強力な呪文なんて、クィレルの授業で習ってないよ! あいつらは肌がぶ厚いから大抵の呪文は通じないんだ!」
「じゃあ、どうしろっていうわけ!?」
ロニーの悲鳴交じりの叫び声をききながら、ハティはブキャナンに死ぬほど教え込まれた呪文を反芻していた。攻撃呪文と防御呪文が駆け巡るが、こちらに迫りくるトロールを前にすると言葉が出ない。
「危ない!」
ハーミスが叫んだと同時に、ヒューのすれすれの位置に棍棒がめり込む。咄嗟に飛びのいたヒューがこちらに倒れこむがハティはヒューを支えきれずに二人は地面に転がった。ヒューが手にしていた杖が地面を転がり、ハティの指先に触れる。
「ヒュー!」
「大丈夫、あたってないから」
一撃を食らえば魔法族の子どもの頭なんてトマトのように潰れてしまうだろう。ハティの全身を怖気が走った。
「あいつらは動きが鈍い。どうにかして、出入口を目指して逃げるぞ」
ヒューはハティの腕を掴み、ゆっくりと起き上がった。ハティも咄嗟にヒューの杖を拾って、じりじりとトロールと距離をとりながら後退する。しかし出入口にいるロニーやハーミスと違い、二人には逃げ場はなかった。背後は壁で、まさに袋の鼠状態であった。
トロールも獲物をハティとヒューに定めるのが効率的だと理解したのか、小さな目がぎょろりと二人を捉えながら棍棒を引きずり近づいてくる。ハティはトロールの棍棒を睨みつけながら、思った。
この棍棒さえなければ――。
そう考えた瞬間、全てがスローモーションのようになってハティの視界に映った。トロールが棍棒を振り上げる。その背後からロニーが走ってきて地面に転がる黄金の槍を拾い上げた。彼女は両手で槍を構え、トロールの頭めがけてそれを突き刺した。しかし、槍がトロールの後頭部を貫通することなく、トロールが長い手でロニーを振り払う。衝撃で飛んだロニーは中央の洗面所にぶつかり、倒れこんだ。
「ロニー!」
青白い顔でハーミスが悲鳴をあげる。ヒューが舌打ちをすると「俺が時間稼ぎするからどうにかしてくれよ!」と蒼白な顔で呆然と座り込んでいるハティを一瞥して、トロールに飛び掛かった。
「ヒュー!」
「ハティ、俺の杖を使え! それから、ウィーズリーとハーミスは何とかしろ!」
「何とかって、どうしたらいいんだよ!?」
狼狽しきったハーミスは半泣きになりながら頭を掻きまわした。
「まずはトロールの武器を奪うんだよ! ハーミス、お前はグリフィンドールの秀才じゃなかったのかよ!」
「ただのがり勉だよ! ああ、あの棍棒を僕たちが武器にできたらなあ! でもこんな時に限って呪文が思い浮かばないんだよ!」
まるで羽虫を追い払うように振り落とそうとしているトロールの首に足を巻きつけ、必死にしがみ付いているヒューが切羽詰まった様子で「はやく!」と叫ぶ。トロールは棍棒を振り上げ、自分の頭ごとヒューに強烈な一撃を食らわせようとしていた。ハーミスはそれをみてぐっと唇をかみしめると、意を決したように駆け出して棍棒が握られたトロールの腕へと飛びついた。
「ハーミス!」
ハティは血の気のひいた紫色の唇を戦慄かせて、悲鳴交じりの声でハーミスの名を叫んだ。
「ハティ、ロニーどっちでもいい。武器を奪って、その後に浮遊魔法で棍棒をトロールの頭に叩きつけるんだ!」
トロールの腕がびゅんっと空気をさく音とともにしなる。振り回されたハーミスは苦悶の表情を浮かべながら、声をあげた。ハティがはっとヒューの杖を見下ろすと「早くしてくれ、俺もハーミスももたない」と焦ったようなヒューの叫び声が降り注いだ。
ハティはその声を聞くや否や、意を決して泣きじゃくりながらも杖を振り上げて叫んだ。「エクスペリアームズ!」
ハティの呪文を受けて、トロールが手にしていた棍棒が宙を舞う。視界の隅でロニーが震える腕で杖を振り上げ、棍棒を仰ぎ呪文を唱えるのが見えた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ!」
棍棒が時をとめたように宙でふわふわと浮かび上がる。
「そのままトロールの頭の上に落とすんだ!」
ハーミスの言葉に従うようにして、ロニーは小刻みに震える腕で杖を操作した。宙高く舞い上がった棍棒がロニーの杖の動きに合わせてトロールの頭上に浮かぶ。ロニーは苦痛に顔を歪めながらも、震える腕で杖を振り下ろした。刹那、トロールの脳天に棍棒は落下した。
ごつっと鈍い音をたてて直撃した棍棒に、トロールは一拍遅れてまばたきをした。断末魔には程遠い、呻き声をあげてトロールはそのままうつ伏せに倒れた。
「おっと」
放り出されたヒューが器用にジャンプして着地する。反対に、ハーミスが潰れたトマトのようにぐしゃりと床に崩れ落ちた。トロールがタイルに倒れる鈍い音が響きわたるのを聞きながら、ハティは虚脱する思いでその場に座り込んだ。
「い、生きてる……わたし、死ぬかと思った……」
「ハティ……」
よろよろと立ち上がったロニーがぎこちない笑みを浮かべて、おぼつかない足取りで歩み寄ってくる。ロニーはそのままハティの前に脱力するように座り込んだ。青い目に涙を浮かべながら、ロニーはハティの両手を握ると囁いた。「ごめんね」
「あたし、嫉妬したの。プリスやフィルやハティに。あたしは三人みたいに華やかじゃないしお金もないから、パーティを楽しめない。本当はすごく羨ましいのに、羨ましくないフリをして、勝手に不満をためこんで、三人に八つ当たりしちゃったの。あたし、酷いこと言っちゃったよね。あとでエロイーズにハティの家のこと、あんな風に言うべきじゃなかったって言われたの。エロイーズに言われて気付くなんて、遅いよね」
「ううん……」
ハティは啜り泣きながら、頭を振った。
「エロイーズが予備の衣装貸してくれたんだ。それでパーティでハティ達に会って謝ろうって思ったんだけど、ガラドリエルって子にハティが地下に向かったって聞いて、あたし、フィールディングと一緒に急いでここに来たの。トロールが地下に出たって、クィレルが言うもんだから、助けなきゃって思って。ハティの悲鳴を聞いた時、生きた心地しなかったよ。よかった……生きてて……あのね、こんなことしかできないあたしだけど、まだ友達でいてくれる?」
ロニーは不安げにハティの顔を覗き込んだ。
ハティはロニーが危険を承知でここに来てくれたことに、感謝と喜びの念でいっぱいだった。仲直りできたこと、そして命が助かった安堵感でぼろぼろと涙が零れ落ちる。
「勿論よ。本当は怖がりなくせに、ロニーがわたしを助けにきてくれたことが嬉しい」
ロニーは安心したように「よかったあ……」と胸を撫でおろし、そしてハティを強く抱きしめた。視界の隅では、トロールの傍らでヒューとハーミスが無言のままひしっとかたく抱き合うのが見えた。彼等もまた、ハティの知らぬところで友情が芽生えたようであった。
しばらくして、余韻を引きずる間もなく慌ただしい足音が聞こえてきた。すぐに出入口で響いた悲鳴に四人は抱き合ったままそろって顔をあげた。
「なんてことです!」
マクゴナガル教授が口元に手をあて、蒼白な顔で立ち尽くしていた。後から駆け付けたスネイプと、少し遅れてクィレルが入ってきた。
スネイプは素早くトイレ内の惨状に視線を走らせると、四人を睨みつけ、トロールのそばにしゃがみこんだ。トロールの状態を確認しているスネイプの背後で、クィレルが「ヒイッ」と悲鳴をあげて腰を抜かしたようにその場にへたり込んだ。
「これは一体どういうことですか!」
マクゴナガル教授の怒鳴り声が響き渡った。教授は血の気の引いた唇をわななかせ、鋭い眼光で四人を睨みつけた。ロニーがクィレルのように「ヒイッ」と悲鳴を上げるのを聞きながら、ハティは口を開いた。
「あの、これは……」
「怪我は!?」
「ありません。でも……」
ハティの言葉にマクゴナガル教授は少しだけ表情を和らげたが、続く言葉は辛辣であった。
「怪我がないのは奇跡です。殺されなかったのは、幸運の賜物でしょう。寮にいるべきあなた方がどうしてここにいるのですか?」
トロールから顔をあげたスネイプが鋭い視線をハティに投げかけた。ハティは下唇を噛んで俯き、一連の状況について正直に話してしまおうと立ち上がった。しかし、足がもつれて尻もちをついてしまった。
「イオラ!?」
ヒューが慌てたように駆け寄ってきて隣に跪く。「やっぱり怪我してたのかよ」
「違う、腰が抜けただけ……あのマクゴナガル教授、わたし」
ハティが口を開きかけたその時、ロニーが立ち上がった。
「ハティが地下のトイレに行ったって聞いて、探しにきたんです。ハティはトロールの襲撃を知らなかったから、急いで避難させなきゃって思って」
「何故監督生にそれを言わなかったのです、ミス・ウィーズリー。貴方の兄ならば、わたくしたちに早急に報告し、正しく対処したでしょうに」
「そこまで頭がまわりませんでした。とにかく必死で……」
「必死で槍を持ちだして救出に向かったと?」
マクゴナガル教授は床に転がった黄金の槍を一瞥して、そう訊ねた。ロニーが観念して「ハイ……」と萎れた花のように俯きながら正直に打ち明けるとマクゴナガル教授は怒りたいような、笑いたいような顔で暫く黙り込んだ。
「まったく向こう見ずもいいところです。あなた方が、ミス・ポッターの救出に必死になるあまり思考を投げたことは理解できました」
マクゴナガル教授はため息交じりに言った。
ハティは震える手を床につきながら、立ち上がろうとした。けれど足に力を込めた瞬間やはりバランスを崩して、再び尻もちをついてしまう。
「イオラ、大丈夫か?」
「こし……こしが抜けて」
狼狽するヒューを押しのけて、マクゴナガル教授はハティのそばに跪いた。そっとハティの足を持ち上げて、疼痛や足が動くか確かめる。
「裂傷が出来ているわね。マダム・ポンフリーの世話になった方が良さそうだわ。医務室にいきます、いいですね」
ハティは弱弱しく頷いた。虚脱したように全身に力が入らない。視界の隅にあるトロールを目にすると、恐怖がまた込み上げてきそうだった。
「こ、こわかった」
「そうでしょうとも。一年生が対処するような問題ではありませんからね。恐怖で腰が抜けたのでしょう、無理もありません」
マクゴナガル教授はいたわる様にハティの肩をそっと抱いた。
「セヴルス、医務室へこの子を連れて行きます」
「その方がよいでしょうな」
スネイプは眉宇を顰めながらも頷いた。クィレルを一瞥すると、こちらに歩み寄り少しぎこちない動作でハティを荷物のように軽々と抱き上げた。
「!?」
マクゴナガル教授を含むその場にいた殆どの人間がぎょっとスネイプを見た。
「スネイプ教授!? ハティをどうするつもりですか!」
慌てたロニーが咄嗟に声をあげると、スネイプはじろりとロニーを見下ろして冷ややかに言った。
「どう、とは? 私がこの娘を巨釜で煮るとでも思っているのかね? 医務室に連れていくだけだ」
「ああ……はい」
ロニーは動揺のあまり、ひっくり返った声をあげた。
「な、なんでスネイプ教授が!?」
今度はヒューがひっくり返った声をあげる。
「ミネルヴァでは腰を壊しかねないのでね。重い物を持つのは、男の役目であろう」
「お、男の役目ぇ!?」
ヒューはスネイプの口から出た言葉が信じられない、という顔でスネイプを凝視した。「つーか、それなら俺が……」
「貴様のような貧弱な腕で医務室まで運べるとは思えないが? ミスター・フィールディング」
鼻で笑われたヒューは屈辱と怒りで顔を真っ赤にしながらぶるぶると震えた。
「他に何か言いたいことは?」
「……ねーよ」
「ありません、だ。フィールディング」
「はあ、そうですか」
スネイプは不快そうにヒューを一睨みすると、それ以上は何も言わずにさっさとハティを抱えてトイレを出た。
「ねえ、そもそも魔法で持ち上げたら僕やヒューでもいけたんじゃないかな?」
というハーミスの呟きが聞こえた気がした。