階段を音を立てて駆け下りる、夕飯の準備をしていたら遅くなってしまった。
駆け下りた先からぐるりと表に周り、通りに面した一階の引き戸を開ける。
「すみません、遅れました」
「そんな急がなくたって十分だよ。こんな早い時間から入る客なんていないんだから。それより、ほら、息ととのえな」
コトリとおかれたコップに注がれた水を飲む。
今日はお登勢さんのところのお手伝い。家賃を滞納している身としては断りづらく、人手が足りない時はこうして借り出される。
「何もアンタが来なくともよかったんだよ。たまには銀時にもさせな」
その言葉に愛想笑いを浮かべる。あの銀さんを動かすぐらいなら、自分でやったほうが遥かに楽だ。精神的疲労という意味で。肉体的疲労は、今の私には無縁なのだから、結局自分でやった方がいいのだろう。
それにお登勢さんはそういうが、銀さんを接客につけても、客と一緒に飲むだけで手伝いになるかどうか怪しいもんだ。
ありがとうと言いながら、飲み干したコップをお登勢さんに返す。
「それにしてもアンタ、たまには着物でも着けてみるかい?」
返されたコップを手に、私の姿を頭の天辺から足の爪先まで眺めて、呆れた様に紫煙を吐く。
流石に接客もするとあって、いつもの洋服から、こういう時用の少しだけオシャレな洋服に着替えてるのだけれど……。
「んー。この格好じゃ不味いですかね、やっぱり」
「そうじゃないけどさ。あ、はい、いらっしゃい」
カラカラという引き戸と共に入ってきたお客さんにより、この話は中断されそれ以降も途切れる事なく入ってくるお客さんにその話は続けられることはなかった。
「疲れたー」
パタンと机の上に手を伸ばしながら、体の疲労を机に移すように力を抜く。
「おつかれさん」
そう言ってお登勢さんがいつもの様に封筒に入ったお金をくれる。お世話になってるからと遠慮したこともあったが、腹空かしてる子がいるんだろ、という言葉に甘えることにした。家賃の支払いに充てろと言われないことが、万事屋の経済状況を色々悟ってる様で、申し訳ない気になる。
いつもはその封筒と、残り物の煮物やお番菜なんかがあれば、それを貰って帰る。だからちょいと待ちなよという言葉はいつものソレだと思っていた。
「ほら、これ昔私が使ってたものだよ。銀時の所なんかいたら着物一着買うのも一苦労だろう、持ってお帰り」
そういって渡されたのは、細長い紙に包まれた……着物。
紙をパラリとめくって見えたのは、藤色の布地に白い花の絵が描かれた、少し落ち着いた色合いの柄。
「お登勢さん……」
『やらしーことしてんじゃねーの』『手篭めにしてる』
女であることを強調した物なんて着たら、そういう声が大きくなるんじゃないかと怯える私は、それに容易に手を伸ばす事ができないでいる。
「あんたが何を気にしてるか知らないがね、ここで働く分には構やしないだろ。仕事着なんだからさァ」
言い淀んだ私の声をピシリと打つ言葉。
着物からはミョウバンの匂いなんてしなくて、生地も新しくて、きっと私の為に準備されたもの。
そういって渡された優しさを私はつき返せなくて。ありがとうと頭を下げる。
静かに階段をあがり、寝付いてるだろう神楽ちゃんを起こさないようにそっと扉を開ける。
「ただいまー」と小声で声を掛けると、私の努力を無視するような声で「おかえり」と返ってくる。
いつもの事なので別にいいんだけど、どうせ神楽ちゃん起きないし。そう思っていてもやるせないものは胸を通り過ぎる。
居間に入ると深夜番組を見ながらソファーに寝転がる銀さん。
「銀さん、これ仕舞いたいんだけど空いてる箪笥ってあったっけ?」
声を掛けると、少し考えた後、箪笥の上に置いておけという回答が返ってきた。
後で箪笥整理する許可を貰わないとな……。
「どうしたんだそれ」
「お登勢さんがくれた。仕事中はこれ着ろってわざわざ準備してくれたみたい。本当感謝だよね」
少し恥ずかしくなって、視線を外しながら箪笥の上に丁寧に置く。
「お前……帯とか持ってたっけ?」
その言葉にハタリと止まる。着物ってこれだけじゃそりゃ着られないよな。
ってか何が必要なんだろう……。貰ったからには着けて行かないといけないだろうし。しまったなぁ……。着流しは洋服の上から羽織って適当に帯締めてるだけだったからいいけど、これはそうもいかないだろうし。
動きの止まった私に何を思ったのか、銀さんはソファーから立ち上がると、デスクを漁って茶封筒を取り出すとポンと投げる。
「それで小物揃えてこいよ」
中身をみるとそれなりの金額が入っていた。この前の依頼料か? いや、違うそーじゃない。
ってか金あるんだったら家賃払っとけよ。どうせパチ代か飲み代に消えるんだろコレも!
「銀さん、これは返しておく。お金はあるから」
そっとデスクの上にそれを戻す。
「え? あんの? じゃあパチ代貸して」
「銀さんに貸すお金は無いよ!」
見境ないなこのマダオ。
「チッ……。金じゃないとしたら何に悩んでんだ」
舌打ちしたし。なんと説明したらいいのか……。
「銀さん。着物って着るのに何が必要なの? ってか着物の着方すら良く分かってないんだけど、どうしたらいいかな?」
悩んだ末、開き直ってみる。
だが、銀さんのぽかんとした顔を見るからに、それはミスコミュニケーションだった事を悟る。
「お前がどうやって暮らしてたのかなんて今更聞かないけどよ。着れないって人としてどうなの」
「銀さんに人とはって説教されるとは思わなかった」
「俺もしたくねぇよ!」
でも、きっとそれぐらい当たり前なのだろうここでは。
「お妙に連絡入れとくから、一緒に買いに行くついでに習ってこい」
「はーい」
そう言うからには、きっと銀さんが上手いこといいくるめてくれるに違いない。
失敗したな。隕石降って来ればいいのに。