『月姫』に繋がる者
ひとつ、話をしよう。
これは、小さな山奥で起きた、小さなお話。
ある家が、みんなまとめて死んでしまうお話だ。
───こうして、紅赤主は、俺の身体を打ち砕いた。
何度も短刀を振るい、何度も相手の攻撃を防いだ。だが、俺は、相手には敵わなかった。軋間は鬼の血を濃く持つ、軋間最高傑作とも呼ばれる程の混血。俺はかつて、彼と一度対峙して、右目を奪ってはいた。だが、俺の想像は甘かった。ヤツと対峙するのは今回で二度目か。ヤツと俺は1対1で、真剣勝負だった。実力はほぼ互角だった。だが、最後の一線を踏み誤り、俺は、鬼に、見事に敗北を期した。
「が…………ァヅ……………」
志貴は………無事なのだろうか。そんな、馬鹿な淡い希望などあるまい。志貴が助かる訳がないか。家に残っていれば襲われて死ぬだろう。外に出れば襲われて死ぬだろう。八方塞がりとはこの事か。
七夜は、此処で終わり………か。
全く持って、【あの時】の自分を後悔する。こうなった経緯は、俺が遠野を襲撃したことによる報復だろう。俺は遠野を襲撃した。それは間違っていない。だが、それ自体、間違っていた。七夜黄理は、あの日、遠野一門を襲撃した時点で、こうなる運命だったのだ。
空を覆う天蓋、星の合間を縫う閑静。その真ん中に、一人きりの月がある。地面は紅く、森は昏く。その中に、独り浮かぶ月は、まるで────
どすん、と、遠くで音がした。これは、俺がやられた音ではない。遠くで、俺ではない誰かが刺された音だ。
あぁ……これなら、もう、未練などない。志貴が無事かどうか、不安だったが、今の音で、その心配はかき消された。これで、正真正銘、七夜は壊滅した。
しかし、負けた感覚はない。勝った感慨もない。俺は、七夜を、最期まで守り抜いた。だから、俺は、最後まで生き残った勝ち組だ。
─────はぁ……息子も今、同じ事を思っているだろうか。今夜は、こんなにも月が綺麗だったことに────
その日、遠野一門による、七夜の里襲撃計画が、当時の遠野財閥当主、槇久によって実行された。一門は七夜の人間を虐殺していき、そして七夜当主の黄理は遠野軍の軋間紅摩との戦闘の末、戦死した。
時を同じくして、黄理の息子、志貴もまた、遠野槇久に胸を刺されるが、槇久が何を血迷ったか、気まぐれを起こし、養子として、遠野家に招き入れた。
このときに、正真正銘、七夜志貴は、完全に消滅し、代わりに、遠野志貴が誕生した。
その後、遠野志貴は、遠野槇久の実子、遠野四季に殺害され、次に目覚めたときには、その視界に映るものは全く、普通のモノと異なっていた。普通の者なら、見えざるモノを見据え、視る眼。
死を視る眼を持ったまま育った彼は、ある日、一人の少女とすれ違い、そして─────
───────2014年9月某日 総耶町。
夏が終わり、秋が訪れる。
季節の代わり目に吹き込む1年ぶりの寒冷前線に人々は身を凍えさせて早足で帰路につく。
時間はすでに午後9時を過ぎていた。
車の通りも静かになってくる頃合い。JRの本数も次第に減ってくる。
その時だった。
ビシュン、とビルの谷間を光が抜けていった。
人々はあまりにも速すぎる隼のような影に気づくまでもなくただ寒さだけを考えていた。
その真上を翔ぶ一つの影は鳥ではなかった。
1人の人影だった。
人影は寝静まった夜の街を矢の如く突き抜け、
静観とした無人の公園に飛び込んでいった。
影の先には、また1人の影が走っていた。
しかし、その走行速度は飛翔する黒い影と比べて全く遅い。
あっという間に距離を詰められ、空を飛んでいた影はついに地上へと飛び込んできた。
バゴォォォン、と激突と爆発が起こる。
煙の中から現れた影はやはり黒かった。
─────黒い長いワンピースのような法衣。
晴れ渡る空のような瑠璃色の髪。
指先から幾本かの針のような刃を生やした女が煙の中から現れる。
対して女の向かう先にいるのは、赤い髪の男。
手には赤色の刀身を持つ一本の刀が握られていた。
「──────────」
女は指から生えていた3本の針を投げつけた。
棒手裏剣のような扱いをするその不思議な武器は2014年の非戦主義を主張する先進国にはあまりにも似つかわしくない西洋剣だった。
まるでレイピアのような形状をしているように見えて、その刃を携える赤色の柄はまるで十字架のようにも見えた。
その3本の剣は空気を切り裂いて男の元へ殺到する。
男は年齢にして30後半はくだらないだろうか?
やけに若々しい見た目の美男だがそれがどうした事か。
10代半ばの華奢な肉体の少女の投擲は容赦のない暴力を炸裂させた。
──────しかし。
男はその一刀のもとに、飛来してきた3本の死を瞬く間に弾き落としてしまった。
プロ野球選手の速球でもここまでのスピードは出ない。視認することも難しいほどの神速の一撃、それを三つ。
男の一閃はさながらスラッガーが逆転の一打のようだった。
カランカラン、と情けなく地に落ちる3本の武器。
しかし、少女はその投擲と同時にもう駆け出していた。
その手にはたった今投げたものと同じ武器が握られていた。
この一瞬にして新たに取り出したのだろうか。
対魔を目的としたその「黒鍵」と呼ばれる武器を法服の若いシスターは男の首元に刺し出さんとした。
「はッ!!!」
「ふッ!!!」
恋人どうしなら互いに抱きしめ合えただろう距離で武器と武器が衝突する撃鉄音が鳴った。
火花と共に突き出された3本の銀刃と一刀の赤刃が互いの一撃で弾かれあった。
そのまま至近距離に立った2名は互いに目にも留まらない速度で武器を振り回し、相手の振り回してきた武器を弾き合い始めた。
相手の隙を狙った一撃はすぐさま弾かれ、相手側は弾いた隙を突いたと思ったらその一撃を一周まわって咎められる。
一撃でも受ければ致命傷か最悪即死に持ち込まれるほどの強烈な一撃の応酬。
しかしその2人はなかなかそれを食らおうとせず勝負は長続きする。
「てやっ!!!」
先に動いたのは少女のほうだった。
男の袈裟斬りをバク転でかわし、その長い脚で剣を弾き返した。
予想外の方向から飛んできた一撃は刀を遠くへ蹴り飛ばし、男の武装は完全に解除された。
「─────────」
対してこちらは両手に3本ずつの黒鍵を持つ。
これらを一斉に突き出せば勝利。
その一瞬のうちに戦いは終わりを告げようとしていた。
少女が公園に飛び込んで20秒の揉み合いの結果が今まさに訪れようとしていたその時だった。
「たぁぁぁっ!!!」
少女は六本の爪を伸ばして突撃する。
相手の身体に六の風穴を開けるつもりで。
しかし、相手はその止めの一撃よりもさらに速かった。
背中を反らしてミリ単位の距離で黒鍵を躱す。
そして彼は地面を左脚で踏みしめ、その脚首を右に曲げて己が身体の芯をを連れ去る。
その一瞬にして世界を一周させるような一回転から鮮やか、そして高速な右の踵を振り切った回し蹴りが女の右脇腹を一蹴した。
その回転は凄まじい速度だったが彼は黒鍵に触れることはなかった。
むしろ、その一撃などとうに見切っていた。
相手の動きと武器の構造、そして「直感」を以てすれば造作もない。
「ぐ………………!!!」
攻撃していた側だったはずの少女は逆に飛ばされることになった。
公園を転がるがすぐさま体勢を立て直す。
さっきとは違うジグザグの動きで男につきまとう。
「──────フッ、」
男は空の右手を広げる。
すると飛ばされた赤い刀が自動的に彼の手元へ戻ってきた。
今度は彼の方から女に走り寄る。
「────────お、」
男は何かを察知して上空を見上げる。
空から幾本もの矢の雨が落下してきた。
走り出す前に黒鍵を上空へ投げていたのだが勘付かれてしまった。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!!」
「ふっ!!!」
近寄ってきた少女の一撃は再び男の一閃で弾き返される。
しかし今度は違う。
少女は前もって黒鍵を手放し、弾かれた反動を減らしていたのだ。
そのまま彼の懐に飛び込み、猛烈な飛び蹴りを食らわせた。
ドスン、と重たい音がした。
「────────ふっ、」
「なっ…………!」
しかし。それすらも防がれていた。
彼の左手は彼女の突き出した足首を完全に捉えていた。
「せっ!!!」
しかししかし。
少女は左脚を掴むその手を右脚で蹴り飛ばし、拘束を解いた。
再び空に舞う姿。
───────それを、男は逃さなかった。
「うらッ!!!」
空に舞う影に喰らいつく上段の蹴り。
メキッ、と音を立てて少女の胴を捉えた。
「うグッ、」
「おぉら!!!!!」
そのまま自分の頭より高い位置を蹴り抜いた脚を振り抜き、バットに打ち返されたボールのように少女の細身をはじき飛ばした。
ズドォォォン、と土埃が舞う。
少女はバウンドしながら地面を転がり、街灯に背中を打ち付けて倒れた。
「くっ……………」
しかし少女も小柄ながらかなりのタフネスで立ち上がる。
(立て直さなければ………反撃のチャンスを………!)
そんなことを考えていたが間に合わなかった。
起き上がりにはとっくに男が近寄っていた。
法衣の胸ぐらを掴まれ、
「そらッ!!!」
強烈な横蹴りによって蹴り飛ばされた。
5メートル以上離れていたあずま屋の柱に叩きつけられて、少女は地面に尻もちをつく。
「ぐっ………………ううっ………………」
(なんという判断力と瞬発力…………この相手、まさか聖典がなければ太刀打ちが出来ないと言うんですか…………!)
ザッ、ザッ、と男はゆっくり女に近寄る。
まるで疲れも焦りも見えない。この程度は戦いのうちにも入らないらしい。
「────よぉ、いきなり通行人に武器投げるのは感心しねぇぜ、お嬢さん」
そこで男は初めて口を開いた。
歩きながら、嘲るつもりでもなく、蔑む意味もなく、淡々とそう言った。
男の手からあの赤い謎の刀は消えていた。
男は少女の目の前でかがみ込み、弾き返した黒鍵を優しく返してやった。
「うっ………………」
「な、ここは一つ見逃しちゃくれねぇか?本気出したアンタとやったら死にそうだし、だいいち俺、誰かさんに殺される理由も思い当たらないしなぁ」
男の一言で女は言い返せず固まってしまった。
「……………あんた、【蛇】を追ってこの街に来たんだろう?だったら、いい場所を教えてやる。奴は若い肉体を好む。肉体が健康で衰えを知らねぇぶん、魔術回路の回転も早いからな。それだったら総耶高校を当たれば、一人ぐらいその才能がある奴が混じってるだろうな。教会のエースなんだ、暗示くらいお手の物だろ?」
「……………………………………………………」
不思議な男であった。
赤毛と紅の瞳。彼による容赦のない一方的な暴力はいつの間にか終わりを告げていた。
「貴方は…………いったい…………」
「──────あばよ。素敵なお嬢さん、」
男は背を向け、脱いだハットを振りかざして別れを告げた。
少女はその姿が立ち去る様子を黙って見ていただけだった。
────これは、死を視る少年と人ならざる少女の出会いが起こる、19年前の物語。
────それは、遠野志貴という、一人の少年の、誰かの為に誰かを殺す物語とは違う。
夜空に輝くひとりきりの月。月世界に舞う月の姫。
輝きは今、零時のお告げを指し示す。
この先は、月の姫の物語の零刻。死を視る少年が、遠野志貴が生まれる前の時代。
此処から先が────────月の零刻。
此よりは、月の裏。光を帯びることのなく、忘れ去られる、鮮やかに光を放つ一つの物語の、麗しい、思い出の断片。その記憶の一端が、時を越えて、思い出される。
さぁ、むかし話をしよう。
──────頃は1995年。
遠野志貴が運命に出逢うより19年前の事だった。
総耶町の付近に位置する都市。
街に出ればコンクリートの森、やかましい車の走行音と歓楽街の喧騒。
そこを少し外れた先に太い川が見える。
苑持寺は中央を通る川によって左右に隔てられた2つの土地を持つ。
───わかりやすく言うなら平安京だ。中央の道を川に見立てて左右に2つの都市が広がる。
街を北へ向かっていくと丘が広がり、最終的には川の上流にある、川を隔てた左右の街を結ぶ巨大な白煉瓦の橋にたどり着く。
平安京ということは平安宮があるわけだ。
街の北端に位置する白煉瓦の橋…………その中央に位置する巨大な邸宅が街を分かつ川とその左右に広がる2つの街を見下ろしていた。
─────ある日の夜。
夜の川面は暗く鈍く。街灯の明かりを反射して黒いペンキのような暗い光を放つ。
そして、その向かい側に見える屋敷は、横に無数の四角の光を並べていた。
それらの四角のすべては部屋や廊下の窓。
そこから漏れた電気の光だ。
橋の端から端までをまるごと繋ぐフェンスの向こうに生い茂る森林。橋のど真ん中に広がる門とそこから玄関口まで一気に突きつける庭園から邸宅の荘厳さが顔を覗かせている。
何人もの人々が住み得るのかと思うほどの大きさは都会の喧騒に対してやけに静観としていた。
高貴なるものが住まうこの屋敷。
今ではさてさて穏やかな夜のお茶会がエレガントな紳士淑女によって開かれていることでしょう、
「
「なんだ!!!」
エレガントな………………
「お嬢様どうか落ち着いてください!お皿を投げないで!」
「ギャァァァァー!!!またお皿が割れちゃうよぉぉぉ!!!」
「坊ちゃま、いい加減お嬢様を怒らせないでください」
「お、おおおおおお俺が悪いのか!?」
「私に口答えなんてどういうつもりなのよ!」
「うぉぉぉぁぁぁぁぁっ!?だから皿投げるなって!?ていうか、悪いのは姉さんだろうが!」
「坊ちゃまナイスキャッチです」
エレガントな………………
「姉さん、頼むから座って話をしよう。な?」
「そうですよお嬢様。せっかくのお美しいお姿も、優しい姉の肩書も、当主の権威も、先代様のご名誉のこれでは示しがつかないというものです」
「うっ…………それは…………そう、」
「いやなんでもいいからとにかくその両手に逆手に持ってるフォークを置いてくれ」
エレガントな紳士淑女…………ではなかった。
「姉さん。俺は何もしていない」
「ヴゾオ゙ッジャイ゙!!!!!」
右手のフォークを手放した黒髪の少女が平たい小さな皿を手に持ちチャクラムのように投擲した。
「ぐぉっ!?」
慌てて向かい側に立っていた赤毛の少年がそれを右手で掴む。
「ふん!!!」
「げぇぇぇぇ!?」
次々と投擲される純白の円盤を少年は1枚も割ることなくパシパシと捉えていく。瞬く間に投げつけられた皿で両手が一杯になる。
最後に1本のフォークと2本のステーキナイフが投げられる。
両手が塞がる彼は最後の手段。
口で3本の食器をまとめてくわえ込んで防いだ。
なお持ち手を咥えたのでケガはない。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!坊ちゃまに食器がぁぁぁぁ!!!大丈夫ですか坊ちゃまー!!!」
「おー…………流石です、坊ちゃま」
「白夜、反射神経、良い、いつも」
「お嬢様の投擲も素晴らしかったですよ〜」
少年と少女のアクション映画のワンシーンのような器用な謎勝負を目の当たりにしていた、メイド服に身を包んだそっくりな顔の女たち5人が一斉に拍手をする。
「姉さん…………頼むって。勘弁してくれ」
「…………………笑止────!!!」
「うわぁぁぁぁぁぁ駄目だこりゃ」
今度は椅子から飛び降りた少女がまだ食器を抱えたままの少年に全力で走り寄る。
そんな事が出来るのはこの屋敷の広すぎる居間だけだろう。
「ちょっ!悪ぃ、
少年はこの様子を見ていたメイドの中から一人呼び、持っていた食器等々をまとめて放り投げた。
「ただいま承知いたしました。坊ちゃま」
すぐさま毛布を敷いたダイニングワゴンを押してメロンのような薄い黄緑色の髪と瞳のメイドが現れたかと思うと彼女は素早い手つきで投げられた数十枚の食器をすべてワゴンの中に回収した。
なんと一枚も割れていない。
「はぁっ!!!」
さてさてそんな所はお構いなしに、居間の真ん中では椅子から降りた少女が真紅のロングスカートをひらめせながら猛烈なキックを炸裂させていた。
あまりの一撃の力強さで突風が巻き起こり、部屋の隅に生けてあった花が揺れた。
こんなものが命中してしまえば脆い人間という生物ではひとたまりもない。
なぜならこれはそういうキックだからだ。
なんのために10年もの間テコンドーとムエタイを嗜んだか。
そこに革靴の強烈な打撃が乗算されればそれはまさに人間ハンマー。
少年の側頭部を破壊する勢いで放たれたその脚は、
「…………っと!あっぶねぇ!」
少年の頭をへし折ろうとして、彼の腕によってブロックされた。
ズドォォォン、と身体と身体がぶつかる音とは思えない音が響き渡る。
10年もの間、野球に入魂してきたその肉体の強靭さは細身の乙女とは比ぶべくもない。
加えてカンフーと空手もやってきた彼にとって今さらこの程度のキックは冗談も良いところ。
カンフーは幼い頃に見た映画への憧憬で、多少かじった程度だが、空手に関しては段位持ちだ。
反射的に身体が動いて横薙ぎの人間ハンマーを軽く受け止めてしまった。
しかし女の猛攻は止まることを知らない。
防がれた脚をすぐさま切り返し、右から炸裂させていた右脚を反転させて今度は身体を一回転。
右の踵を左から横に叩きつけた。
バッチン、と手応えのある音がした。
しかし咄嗟の一撃では少年を怯ませるには至らず、右腕と脇腹で挟み込まれて自慢の右脚を取られてしまう。
「くっ!」
「ちぃ!」
睨み合う若者同士。
「このっ…………!!!」
「チィっ…………っ、野郎ォッ!!!」
両者ともに実力伯仲、見た目と性格はまるで別人だが、その様子は姉弟喧嘩のように思えた。
「────そこまで!!!」
頃合いを見た橙色の髪のメイドが本物の戦闘になる直前に静止した。
「うっ………」
「くっ………」
これはストリートの喧嘩ではない。
武術を嗜んできた者たちによる『仕合い』だ。
やめさせるには審判による静止が一番効果的だ。
実際に弟のほうは素直に脚を離し、姉は脚を直して気まずそうに一歩後退した。
「もーう!お二人とも、もう少しだけ大人しくしてください。この前だってお嬢様のキックがお部屋の扉を壊して大変だったんですから。おイタはメッ、ですよ!」
いま試合を静止した橙のメイドが2人を叱る。
それは怒りというより、母がイタズラをした赤子をたしなめるような優しいものであった。
「あ゙ーもう!姉貴には困ったよホントに………」
全く…………姉貴の野郎…………絶対に許さんからな。
「坊ちゃまはお嬢様の扱いがあまりにも下手なんです。怒らせないように発言に気をつけるなんて、そんな簡単な事もできないんですね」
くっ、この生意気メイドもホッントに…………
「あーあ。
「残念。坊ちゃまがどう言われましても、私どもへの最終的な命令権は当主であるお嬢様にあるんで」
彼女はこの屋敷の清掃を担当しているメイドだ。
うちの屋敷はだだっ広いが実際の住人は7人のみ。俺と姉貴と5人のメイド。
ちなみにこのメイドたちは五つ子の姉妹だ。
そこの林檎は4番目。
性格は…………この通りのダウナーだ。
俺の専属でもあり、世話係ということになっているが…………
やれやれ…………俺だって男だ。
「お帰りなさいませご主人さま♡ 夕食の準備はできていますよ。どうぞ、めしあがれ〜」
なんていう萌えたメイドに幻想を抱かないわけもない。
なのに、幼い頃から半分その夢が叶っているだけあって余計にたちがわるい。
他の男の思うメイドと、俺の知るメイドというのは、女が金的の痛みを分かることができないほどに、そして男が出産の痛みを理解できないほどに、程遠く認識の乖離している事柄であるだろう。
「ったく、これじゃ不公平ってもんじゃねぇか。長男は俺だろうがよ、なんで姉貴に全部の決定権があんだ、」
「先代様のご意向です。もうお忘れで?坊ちゃまは10年前の事故の後遺症で、後天性の起立性調節障害を患ったんですから。生まれついて特に障害もなく、大きな事故もなく健康体であるお嬢様が当主となるのは自然な流れです」
林檎は俺の横をちっこい背丈と短い脚でステステ歩きながら事実を述べてきた。
クソが、マジレスすんなって。
俺は今から10年前、8歳の頃に事故に遭っている。
なんでも、過失運転で歩道に乗り上げた車に轢かれたらしい。
俺は事故の後遺症で、首元に深い傷が残り、起立性調節障害という慢性的な病気を患った。
起立性調節障害は交感神経と副交感神経をはじめとする自律神経の乱れによって脳血圧が極端に低下し、体調の不調をきたす障害。
人間は起きた直後は自律神経が整っていないことのほうが多い。
なぜならば眠っている間は副交感神経が活性化し、起きたときはそれから交感神経への切り替えが起こるからだ。貧血がちな体質や血圧の低い、立ちくらみなどを起こしやすい体質の人間か朝に弱い理由はコレだ。
だから俺は昼間には体調が悪くなり、逆に夜の間は不調なく活動できるという体質がある。
この体質ではマトモに執務も務まらないということで次期当主の座は長男である俺から、姉貴に移った。
俺と違って姉貴は真面目だから、幼い頃から良家のお嬢様としての自覚はあり、礼儀作法を学び、勉学や武道にも励んではいた。
だが、当然の事故のせいで姉貴はある日当然、「次の当主はお前だからしっかりやれ」と言われることになったのだ。
そこに関してはある一定の責任は感じている。
むろん、俺のせいで起きた事故ではないのだが、姉貴を縛り付け、押さえつけてしまったのは俺に原因がある。
そりゃまぁ……………あんな性格にもなるよな。
昔の姉貴は、もうちょい俺の前では明るくて、他所様には人見知りだったと思うんだけどな…………
「そもそも、街に出かけられては毎度他校の生徒とケンカに明け暮れている不良が当主では、【中村家】の名折れです」
「そういう事を訊いてるんじゃねぇ。なんでお前が姉貴の肩ばっかり持つんだって訊いてんだ俺は」
「私は坊ちゃまの太鼓持ちじゃないので。坊ちゃまが好き勝手した責任をお嬢様から問いつめられるのが誰なのか、たまには考えたらどうですか。私だって好きで問題児の面倒見ていないんです。嫌な思いさせられてるのは坊ちゃまだけではありません」
「………………………………………」
「………………………………………」
……………頼むから専属を代えてくれ。
基本的にこの家での俺のヒエラルキー一番下にいるけどそれでも俺に優しい人はいなくはないからマジで頼む。
正直一番林檎が気ぃ合わねぇと思うんだよ俺。
地獄のようなムードの中、向こうから誰かやってきた。
「坊ちゃま。どうかされましたのでしょうか………毎度の事とはいえ今日は一触即発でした………
「あっ………舐瓜さん。お疲れ様です」
「あっ、もしかして。楽しみにしていた6時半から始まるアニメ、お嬢様にテレビ独占されていたのですか?」
「げっ…………なぜそれを…………!」
緑髪に緑のメイド服は舐瓜さん。
メイド5つ子姉妹の長女で、理知的で包容力のある優しい人だ。
それこそ俺の理想的なタイプの女性だが、残念ながら専属は姉貴の方であり、姉貴の執務を手伝うこともある優秀な従者だ。
この屋敷では庭園の管理を任されているんだが、この大学のキャンパス並みに広い敷地を一人で管理している。
「ふふ、どうやら当たりのようですね。月曜日の坊ちゃまはいつもお帰りの際、上機嫌ですから。確かに、あれはお嬢様はお気に召しませんでしょう…………ロボット?というより、パワードスーツ、というものでしょうかあれは………こういったものに興味はなさそうですから、お嬢様は」
「見たことあるの舐瓜さん………」
「いいえ。ですが巷の噂では聞いておりますよ。今どきの流行を把握しておくのも一流のメイドの仕事というものです」
な、なるほど? よくわからん。
すると、舐瓜さんはエプロンの中からビデオテープを取り出して差し出してきた。
「ところで坊ちゃま。差し出がましい事なのですが、私が代わりに自室に設置してある古いテレビでテープに焼いておきましたが、あとでご覧になりますか?居間の新型さんはディスクデッキであるので大画面で見ることはできませんが…………」
…………いや、マジかよ。
行動力の鬼だろこの人もう。
「マジかよ………予想外で言葉が出ないわ…………ありがとう、舐瓜さん。絶対にこの借りは返す」
「ふふ。構いませんよ、私はメイドですもの。ご主人様の望むことをするのが務めでございます。それに………」
メイド姉妹長女の舐瓜は俺に一歩迫ってきた。
「…………私は坊ちゃまのこともお嬢様のことも大事なんですから。私はふたりの味方ですよ」
「あぁ………ありがとう舐瓜さん」
俺はキッ、と林檎をいじらしく睨む。
姉さんの専属である舐瓜はどーして中立を取ってくれるのに俺の専属である林檎は姉さんの味方しかしないんだろーな。
「坊ちゃま。なにか私の顔についていますか?」
「いーや、ぜんぜん。なぁんもついてないね。ほんと、なーんにも」
「…………………………………………」
俺を睨み返してくる林檎に背を向けて俺はそのまま玄関に向かう。
「あら、坊ちゃま。こんな夜中にお散歩ですか?」
「あぁ、まぁな。すぐに戻るよ」
「お一人で大丈夫ですか?私がお供いたしましょうか?」
「いいよ、忙しいだろ。あ、そうそう。食器皿は残しとくよう蜜柑さんに伝言しといてくれないか。あとで俺が洗うから」
俺はバイトとかしていないんで、メイドに全任せして自分がニート三昧するのが気に食わない。
せめて家事の一つや二つ手伝わないと気が気でないんだよ。
「かしこまりました。蜜柑ちゃんにはそう言い伝えておきます。妹へのお心遣いに感謝いたします」
「いいっていいって。舐瓜さんもいつもありがとな」
「ふふ………」
「────はあ。夜はいいぜ………人もいなくて静かだし、具合良く外を歩けるからな」
昼間は体調が悪くなるんで、散歩なんてできねぇからな。うちは白レンガの橋の上にある。
家の門を出りゃそこはもう橋。橋の上から川面と街を見下ろせる。
この場の標高が高いおかげで周囲に山もない広い空が見れるっ、つーわけだ。
昔からこうして過ごすのが俺の楽しみだった。
─────今の苑持寺町は絶賛オカルト流行り中だ。
この町の若者たちのあいだで、いくつもの都市伝説が流行り始めている。
俺の学校でも、同級生や先輩が話しているのをよく聞く。
…………いつでもそんな空気なわけじゃない。
なんでも、そのオカルト話は今まさにこの時期に生まれたものだそうだ。いっときの迷信とかとはわけが違うらしい。
夜に西側の町に行った人間が行方不明になって今もなお見つかってない………とか。
丘を降りたところにある歓楽街の女性が失踪し、必ずピッタリ2日後に死体となって発見されたり………とか。
夜になると人間が空を飛ぶ様子が街中で見られる………とか。
ビルの壁面を抉るほどの怪力を持つ女の姿をした妖怪………とか。
次から次へと噂が出ては消えていく、そんな状態だ。
全く、この町はどうなっちまってんだか。
……………明日も学校か。やっべ、宿題やってねーわ………
「……………………月、」
空にはただ、ひとりきりの月がある。
手に取れそうな、今にも落ちていそうな、蒼い、硝子のような月。
空を覆う天蓋、川面を照らす白貌。
幽玄麗らかに落下する星…………なんてな。
「さて……………宿題やるかね。
俺はポケットのテープを手に自宅の門へと戻る。
川面に映る水月、夜空の月を背に。
ズバッ、と。
俺の影を何かがかすめた。
「ん?」
俺は背後を振り向いたが、そこにあるのは月だけだった。
今、月光に照らされる俺の背後を、何かの影が通り過ぎた。
月の目の前を、何かが横切ったらしい。
「……………………………」
気のせいかどうか。
なんだか、嫌な予感がする。
自分の直感が告げる。
自分の直感はよく当たる。
不気味なくらいに鮮やかで静かな月。
一周回り巡る不吉な予感。
「──────おやすみ、」
俺の夜は─────まだ、終わらない。
そしてこの町は、まだ眠らない。
今日この日が、この広い街と、俺の運命をかける、数々の事件の始発駅である。
巡る意志の中、
傍にいて白き人よ。
彼女が──────
月姫 零刻
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
旧き鬼の血を引く高校生
中村 白夜(なかむら はくや)
性別 男性 年齢 17歳
属性 秩序・中庸 クラス 中村家長男
誕生日 4月26日 血液型 AB型
身長 175cm 体重 59kg
好きな物 ジャズバンド、ロボ系のアニメ
嫌いな物 日光、他人を見下す人
主武装 血刀、鬼種の波動、喧嘩殺法
イメージCV:木村良平さん
遠野志貴の戦いが始まる前の物語における主人公。
総耶町隣にある苑持寺町の財閥、中村の長男。
鬼と人間の混血であり、幼少期の事故の後遺症で起立性調節障害という病気を患っている。
その影響で現在の当主としての地位は姉に移っているが、それが姉の青春を縛り付けてしまったことに対して責任を感じている。
10年続けた野球を辞めたばかりの高校2年生であり、ぶっきらぼうな口調と横暴な振る舞いをする。朱い瞳と髪が特徴も相まって一見して不良のような雰囲気を漂わせる(じっさい不良)。
【とある一件】を原因に苑持寺を取り巻く多くの事件に巻き込まれることになり、その全てはいずれ、『月姫』の物語へと続いていく────
マジカル赤褐色と申します。
『あらすじ』の説明の通り、本作は私の処女作である『月姫 零刻』の内容を1から再編した内容となっております。
私も数々と二次創作を書き続けてもう4、5年ほどになるのですが、やはり当時の作品を見直すと拙さというか、雑さが目立ちます。
ですが世界観そのものは無駄にしたくないと考え、1からすべて読み直し、綿密にシナリオ構成やキャラ設定、登場人物を見直し、リメイク版として蘇らせることに成功しました。
旧作をご覧になった方上でこれを読みに来た方なんてゼロだとは思います。それでも私の頑張りの集大成たるこの一作に、皆さんの知らない新たなる『月姫』をお送りできたらなと考えております。
私の作る作品の強みとしては、原作をかなり理解している所にあると思います。原作の世界観に矛盾しない、極力原作の世界観を汚さない、原作に忠実なシームレスな世界を作ることを第一に考えています。
それを以て保証できます、この一作は私を彩る作品のなかでも、最大の出来栄えになるでしょう。
それが、小説好きである皆さんの楽しみの一つとして数えられたらたいへん幸いでございます。
それでは、長い連載の旅になるでしょうが、ぜひとも私マジカル赤褐色の存在ともども、最後までお付き合いくださいませ。
──────あーあ……、読み開いちまったか………。