「じゃあ、行こうか」
冥がそう言って、私の手を握った、その手は驚くほど冷たかった。
「……ねえ、冥」
「何?」
「もし私が向こうで私じゃなくなったら、ちゃんと止めてね」
冥は少しだけ目を細めた。
「止めるよ。何度でもね」
「そっか。なら安心だ」
「でもさ、聖鎖」
「ん?」
「私が止める前に、君が自分から自分を捨てるような真似をしたら……その時は殴るからね」
「それ、さっきも聞いた気がするんだけど」
「何度でも言うよ。君は何度言っても分からない馬鹿だからね」
ひどい言われようだ
でも、否定はできなかった
私は自分の命を軽く考えているつもりはない。死ぬのは怖いし、痛いのも嫌だ。できることなら普通に生きて、普通に年を取って、普通に死にたい
それでも、目の前で誰かが死ぬくらいなら、自分が死んだ方がいいと思ってしまう
前世からずっと、そういうところがあった
だから私は、たぶん最後まで馬鹿なのだろう
「じゃあ、約束ね」
「何を?」
「私が私じゃなくなったら、冥が私を見つけてくれること」
冥は一瞬だけ黙った
それから、いつものように笑った
「もちろん。どこの世界に逃げたって、君を見つけてやるさ」
その言葉を最後に、景色が暗転した
目を開ける
見慣れた教室
子供用の机。割れた窓。薄暗い廊下
そして、窓の外には、八つの目を持つ巨大な猫蜘蛛がいた
「……またここか」
私は思わずため息をついた
懐かしい、とさえ思ってしまう
もちろん、懐かしいなんて思える場所ではない。何度も死んで、何度も記憶を奪われた場所なのだから
けれど、今回だけは違う
私は自分の名前を覚えている
聖華ではない、聖鎖だ
聖華の双子の妹であり、この異界から姉と仲間たちを連れ出すために戻ってきた人間
「よし……」
私は右目を閉じた
開く
世界の輪郭が歪んだ
見えないはずの糸。壁の向こう側に潜む怪異。天井に張り付いた石膏像
そして、それらのさらに奥にある、巨大な何かの影
異界全体を覆い尽くすような、巨大な影だった
――見つけた
あれが、この世界を作っている
あれが、私たちの記憶を奪っている
あれが、私の姉を殺し続けている
「今度こそ、終わりにしよう」
私は教室を飛び出した
姉を見つけたのは、四階の廊下だった
ピンク色の髪。桃色の目
私と同じ顔
けれど、その表情は私の知っている姉とは違っていた
姉は廊下の壁に寄りかかり、血まみれの手を見つめていた。目の前には、倒れた怪異の死骸がある
その手には、見覚えのある鍵が握られていた
「……聖華お姉ちゃん」
呼びかけた瞬間、姉がこちらを向いた
「誰?」
その一言で、胸が痛くなった
分かっていた
姉は私を覚えていない
異界が姉の記憶を改変しているのか、それとも姉自身が何度も死ぬうちに何かを失ってしまったのか
今の私には分からない
「私は……」
聖鎖、と名乗ろうとした
けれど、その瞬間、頭の中に声が響いた
――お前は聖華だ
――お前は聖華だ
――お前は聖華だ
頭が割れそうになる
右目から、熱いものが流れた⋯⋯血だ
それでも私は、言葉を続けた
「私は、聖鎖。あなたの妹だよ」
姉は何も答えなかった
ただ、困惑したように私を見ている
「嘘……私に妹なんていない」
「うん。そうだよね。ここでは、そういうことになってるんだよね」
私は笑った
泣きそうだったけれど、笑った
「でも、私にはお姉ちゃんがいるんだ」
一歩、近づく
姉は後ずさった
「来ないで」
「ごめんね」
もう一歩
「来ないでって言ってるでしょ!」
姉が叫んだ瞬間、廊下の奥から黒い影が伸びてきた
長い腕のような影が姉の足をつかむ
姉が悲鳴を上げた
私は駆け出した
影を右目で捉える
見えないはずのものが見える
その正体は、無数の糸だった
姉の足、腕、首、そして胸にまで、細い黒い糸が巻きついている
糸は廊下の奥へと続き、さらにその向こうへ、世界の中心へと伸びていた
「お姉ちゃん、動かないで!」
私は姉の手をつかんだ
黒い糸が私の腕にも巻きつく
冷たい
痛い
私の記憶を、私の名前を、私の存在を奪おうとしている
――お前は聖華だ
「違う!」
私は叫んだ
「私は聖鎖だ!」
その瞬間、右目の奥で何かが弾けた
黒い糸が一本、切れた
姉の体が自由になる
私はそのまま姉を抱きしめた
「……ごめんね。遅くなって」
姉は震えていた
「あなた……本当に、私の妹なの?」
「うん」
「どうして……私を助けるの?」
そんなこと、決まっている
「お姉ちゃんだからだよ」
姉の目から涙が落ちた
そして、姉は私を抱きしめ返した
「……聖鎖」
その名前を呼ばれた瞬間、私はようやく、本当に姉を助けられたのだと思った
けれど、喜ぶ時間はなかった
廊下全体が、大きく揺れた
天井から、黒い糸が雨のように降り注いだ
そして、聞き覚えのある声が響いた
『――見つけたよ』
神様の声だった
『お前は、私の世界に存在してはならない』
「聖華! こっちだ!」
聞き覚えのある声がした
廊下の向こうから、神凪甲斐が走ってくる
その後ろには、天魁翼、海津沈、地快地華の姿もあった
「甲斐君……!」
姉が驚いた声を上げる
甲斐は私たちの前で立ち止まった
そして、私を見た
「……お前、誰だ?」
ああ。
やっぱり、そうなるよね。
記憶がどこまで引き継がれているか分からない。
今回の甲斐は、私のことを覚えていないらしい。
「ええと……説明している時間はないんだけど」
「聖華じゃないのか?」
「違う。私は聖鎖。聖華の双子の妹」
甲斐は眉をひそめた。
「双子の妹……?」
「そう。お願い、今は信じて」
甲斐は数秒だけ私を見つめた。
それから、姉を見た。
姉は私の手を握ったまま、頷いた。
「……分かった。細かいことは後で聞く」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
やっぱり主人公君だ。
こんな状況でも、必要なことを優先してくれる。
「それで、どうすればいい?」
甲斐が尋ねる。
私は右目を開いた。
世界の奥にある巨大な影が、こちらを見ていた。
「神様のところに行く」
「……正気か?」
「正気じゃないかも。でも、あれをどうにかしないと、みんなは現実に帰れない」
翼先輩が、静かに口を開いた。
「なるほど……そういうことだったのね」
「翼、分かったのか?」
「ええ……聖鎖さん。あなたは巫女の子孫なのね」
私は頷いた。
「ただし、力は右目だけです」
「それでも十分よ。あなたは、私たちには見えないものを見ている」
翼先輩は微笑んだ。
いつもと変わらない、好奇心に満ちた笑みだった。
「なら、見せてもらいましょう。私たちが知らなかった、この世界の真実を」
「翼先輩……」
「ただし、あなたが一人で犠牲になるような結末は認めないわ」
私は言葉に詰まった。
どうして。
どうして、みんなそんなことを言うのだろう。
私は、姉を助けられればそれでいいのに。
「……分かりました」
私は嘘をついた。
その嘘が、最後までみんなにばれないことを祈りながら。
神社は、校舎の地下にあった。
いや、正確には、校舎の地下に神社があるように見せられていたのだろう。
階段を降りるたび、壁が古びた木造建築へと変わっていく。
蛍光灯が消え、提灯が灯る。
床には、無数の小さな足跡があった。
子供の足跡だ。
それらはすべて、神社の奥へと向かっていた。
「……嫌な場所ですね」
沈が小さく呟いた。
「ですです。何だか、誰かに見られてる気がするです」
「実際に見られているよ〜」
地華先輩が天井を見上げた。
「この世界そのものが、私たちを見ていみたいだね〜」
その通りだった。
壁の節穴。床板の隙間。提灯の中。
至る所に、赤い目が蠢いていた。
そして、そのすべてが私たちを見ていた。
神社の最奥にたどり着くと、そこには小さな祠があった。
祠の前に、少女が立っていた。
黒い髪。
小さな体。
見覚えのある顔。
「……冥」
「やあ、聖鎖ちゃん」
冥は笑った。
「無事にお姉ちゃんと合流できたんだね」
「うん」
「よかった。じゃあ、あとは神様をどうにかするだけだ」
甲斐が冥を見た。
「お前は誰だ?」
「私は冥。まあ、ここの神様の残りカスみたいなものかな」
「残りカス?」
「説明は後。今は時間がないよ」
冥は祠を指差した。
「この中に、神様の本体がある」
私は右目を開いた。
見えた。
祠の中には、何もなかった。
ただ、空洞があるだけ。
けれど、その空洞から、無数の黒い糸が伸びていた。
糸は壁を這い、床を這い、天井を這い、世界の隅々まで広がっている。
その中心にあるもの。
それは、心臓だった。
巨大な、黒い心臓。
無数の子供たちの声が、その鼓動に合わせて響いていた。
『離れたくない』
『一緒にいたい』
『ずっと一緒にいよう』
その願いが、呪いになっている。
「……これが、神様?」
私の問いに、冥は頷いた。
「そう。昔、誰かが願ったんだよ。大切な人と離れたくないって」
「それで、こんなことを?」
「最初は違ったのかもしれないね。でも、願いを叶えるために誰かを取り込んで、取り込んだ誰かの願いを叶えるために、また誰かを取り込んで……」
冥は目を伏せた。
「気づいた時には、もう止まれなくなっていたんだろうね」
甲斐が拳を握った。
「だったら、止める」
「うん。でもね、甲斐君」
冥は、私を見た。
「神様を完全に止めるには、中心にあるものを壊さなきゃいけない」
「壊せばいいんだろ?」
「簡単に言うね。でも、あれはただの心臓じゃない。取り込まれた魂が全部つながっている、縁そのものなんだ」
冥の声が低くなる。
「壊せば、取り込まれた魂は解放される。でも、つながりを維持している魂も一緒に消える」
私は、意味を理解した。
「……つまり」
「うん。中心にある縁を断ち切るには、代わりになるものが必要なんだ」
冥は私の右目を見た。
「巫女の力を持つ魂。神様を見つけられる目を持った魂。神様の代わりに、みんなの縁を引き受けられる魂・・・本当は嫌なんだけど止まらないんだよねきっと」
「冥ごめんね」
姉が私の手を強く握った。
「駄目!」
その声は、震えていた。
「聖鎖、駄目だよ。そんなの、絶対に駄目!」
私は姉を見た。
姉は、私が何を考えているのか分かっていた。
「あなたまで失ったら、私は……」
「お姉ちゃん」
私は笑った。
「大丈夫だよ」
嘘だった。
大丈夫なわけがない。
怖い。
死にたくない。
本当は、もっと生きたい。
姉と一緒に暮らしたい。
くだらない話をして、喧嘩して、仲直りして。
いつか二人で大人になって、昔のことを笑い話にしたかった。
でも。
それでも。
「だって私は、お姉ちゃんを助けに来たんだよ」
「待て」
甲斐が私の前に立った。
「お前を犠牲にする方法以外を考える」
「甲斐君……」
「まだ時間はある。全員で考えれば、何か方法があるはずだ」
翼先輩も頷いた。
「そうね。犠牲が必要だというのなら、その仕組みを解明すればいい」
「でも……」
「聖鎖ちゃん」
冥が私を見た。
「君が一人で決めることじゃないよ」
その言葉に、胸が締めつけられた。
みんな、私を助けようとしてくれている。
それが嬉しかった。
同時に、申し訳なかった。
私は、最初から決めていたのだから。
ここに来る前から。
何度も死んで、何度も失敗して、それでも姉を救うことだけを考えてきた。
最後の一回で、全員を現実に帰す。
そのためなら、私は――。
「やっぱり……ごめんね」
私は右目を開いた。
神様の中心にある心臓。
その周囲を覆う、無数の黒い糸。
その中に、一本だけ違う糸があった。
淡い桃色の糸。
私の右目から伸びている糸だった。
そして、その糸は、私の魂と神様の心臓を直接つないでいた。
私は理解した。
私がここに来た時点で、神様は私を見つけていたのだ。
私の右目は、ただ見えざるものを見るだけではない。
巫女の力を持つ者として、神様の本体とつながってしまっていた。
だから、私が自分の正体を思い出すたび、神様は私を侵食した。
だから、私が自分の遺体を見た時、死が始まった。
私は、この世界の仕組みの一部にされていたのだ。
「……そっか」
私は小さく呟いた。
「私が、最初から鍵だったんだ」
「聖鎖?」
姉が私を見る。
私は振り返った。
「お姉ちゃん。ごめんね」
そして、私は姉の手を離した。
「聖鎖!」
甲斐が叫ぶ。
私は祠へ向かって走った。
冥が何かを叫んでいる。
翼先輩が私を追いかける。
沈が手を伸ばす。
地華先輩が、悲しそうに私の名前を呼ぶ。
それでも、私は止まらなかった。
祠の前に立つ。
右目が焼けるように痛い。
視界が赤く染まる。
神様の声が響いた。
『お前は、私の一部になる』
「ううん」
私は笑った。
「私は、誰の一部にもならない」
私は心臓に手を伸ばした。
「私は、聖鎖だ」
その瞬間、世界が崩れ始めた。
黒い糸が、私の体に巻きついた。
手首。
足首。
首。
胸。
魂そのものを引き裂かれるような痛みが走った。
私は叫んだ。
けれど、手を離さなかった。
神様の心臓が、目の前に現れる。
巨大な黒い塊。
その表面には、無数の顔が浮かんでいた。
泣いている子供。
笑っている子供。
誰かの手を握ろうとしている子供。
みんな、誰かと一緒にいたかっただけなのだろう。
その願い自体は、きっと悪いものではなかった。
「……もう、終わりにしよう」
私は右目を閉じた。
見えざるものを見る力。
手繰り寄せる力。
身を隠す力。
悪しき者を鎮める力。
巫女の四つの力。
私はそのうちの一つしか持っていない。
だから、残りの三つは、私のものではない。
それでも。
私は、みんなを信じた。
「甲斐君!」
私が叫ぶと、甲斐が顔を上げた。
「みんなを連れて、ここから出て!」
「馬鹿を言うな! お前も一緒に――」
「お願い!」
私は初めて、心の底から叫んだ。
「私のことは、もういいから!」
甲斐は動かなかった。
その目には、怒りと悲しみが浮かんでいた。
「……聖鎖」
「私ね、ハッピーエンドが好きなんだ」
涙が流れた。
「誰かが死んで終わる物語なんて、嫌なんだよ。誰かが犠牲にならなきゃいけない物語なんて、本当は大嫌いなんだ」
私は笑った。
「でも、誰も犠牲にならない結末がないなら……せめて、みんなが生きて帰れる結末を選びたい」
「それが、お前のハッピーエンドなのか?」
「うん」
私は頷いた。
「お姉ちゃんが生きて、みんなが生きて、現実に帰れる。それなら、私は――」
声が途切れた。
もう、体の感覚がなかった。
「……それなら、きっと」
私は最後の力を振り絞り、神様の心臓に触れた。
「ハッピーエンドだよ」
右目が、光った。
黒い糸が、一斉に切れた。
世界を覆っていた影が崩れていく。
学校が消える。
神社が消える。
異界が、崩れていく。
その中心で、私は最後に姉を見た。
「お姉ちゃん」
姉が泣きながら、私に手を伸ばしている。
「聖鎖! いや! お願い、こっちに来て!」
ごめんね。
本当は、もっと一緒にいたかった。
一緒に帰りたかった。
一緒に笑いたかった。
でも、これが私にできる最後のことだから。
「大好きだよ」
私は、そう言った。
そして。
私の体は、光の中に溶けていった。
目を覚ますと、そこは現実の世界だった。
オカルト研究部の部室。
窓の外には、夕焼けが広がっている。
甲斐は床に座り込んでいた。
沈は泣いていた。
地華は顔を覆っていた。
翼は、いつもの笑みを浮かべようとして、失敗していた。
そして、聖華は。
姉は、私の名前を呼び続けていた。
「聖鎖……聖鎖……」
けれど、私はもういなかった。
神様は消えた。
異界も消えた。
みんなは、現実に帰ってきた。
それなのに。
誰も、笑わなかった。
それから、数日が過ぎた。
聖華は学校に通い続けた。
甲斐たちも、オカルト研究部としての日々を続けた。
もう、異界に引きずり込まれることはない。
夕方になっても、世界は夕方のままだ。
影が勝手に動くこともない。
見えない少女が、背後から笑いかけてくることもない。
すべてが終わった。
誰もが望んでいた、平穏な日常が戻ってきた。
それでも、聖華は時々、立ち止まる。
帰り道。
教室。
食卓。
ふとした瞬間に、隣に誰かがいるような気がするのだ。
「……聖鎖?」
呼びかけても、返事はない。
聖華には、妹がいた。
確かに、妹がいたはずだった。
一緒に過ごした記憶がある⋯⋯思い出した。
笑い合った記憶がある。
喧嘩した記憶もある。
けれど、その顔だけが、どうしても思い出せない、靄にかかったように消えていく。
写真を探しても、妹の姿はどこにもなかった。
戸籍にも、記録にも、名前がない。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
それでも、聖華だけは覚えていた。
聖鎖という名前を。
自分の妹が、最後に何を言ったのかを。
「大好きだよ」
その声だけは、忘れられなかった。
ある日の放課後。
聖華は、誰もいない神社の跡地を訪れた。
そこにはもう、社も祠もない。
ただの空き地だった。
夕焼けが、地面を赤く染めている。
聖華はその場にしゃがみ込み、小さな花を置いた。
「……ねえ、聖鎖」
返事はない。
「私ね、今でも分からないんだ」
涙が頬を伝った。
「あなたがいなくなって、本当にこれがハッピーエンドだったのかな」
風が吹いた。
花びらが一枚、空へ舞い上がる。
「あなたは、私たちが生きていれば、それでよかったの?」
聖華は、しばらく黙っていた。
そして、涙を拭った。
「……でもね、私は聖鎖と一緒にいたかったな」
顔を上げる。
夕焼けの向こうに、誰かが笑っているような気がした。
「私、生きるよ」
声が震えた。
「あなたが助けてくれた命だから。あなたが望んでくれた未来だから」
聖華は立ち上がった。
「だから、ちゃんと生きる。あなたの分までなんて言わない。あなたの分は、あなたのものだから」
一歩、歩き出す。
「いつか、あなたに会えた時に、胸を張って話せるように」
夕焼けが、ゆっくりと薄れていく。
「私、幸せだったよって。あなたのおかげで、幸せになれたよって」
聖華は最後に一度だけ、振り返った。
そこには誰もいなかった。
それでも彼女は、微笑んだ。
「ありがとう、聖鎖」
その夜。
誰もいないはずの空き地で、小さな声が響いた。
「……うん」
風の音に紛れるほど、小さな声だった。
「それなら、よかった」
誰にも聞こえない。
誰にも届かない。
その声の主は、もうこの世界のどこにもいない。
魂は擦り切れ、記憶も、存在の痕跡も失われた。
それでも最後の瞬間まで、彼女は願っていた。
姉が生きること。
仲間たちが生きること。
みんなが、明日を迎えられること。
彼女自身がいなくなった世界で、みんなが笑えること。
それが、聖鎖の望んだ結末だった。
ハッピーエンドと呼ぶには、あまりにも悲しい。
バッドエンドと呼ぶには、あまりにも多くの命が救われた。
これは、誰かのハッピーエンドを願い続けた少女の物語
そして、最後まで、自分だけをその幸せに含められなかった少女の物語。
全ては『夕暮れ時に』に溶けていく
無理やり完結にしてしまった