時間は少し巻き戻る。
王牙は異界の門を抜け、地面に降り立った。そこで見たものに目を丸くする。
「ここは……銀座ドーム?」
銀座ドームから離れた先は、銀座ドームであった。
何を言っているのかわからないと思うが、王牙もわかってはいない。
ただここが異界であることを思い出して、すぐにここでは常識に囚われてはいけないことを悟った。
周囲を見渡すと、この異界は銀座ドームの敷地内しか再現していないことに気づいた。本来道路がある場所は黒い空間に消えている。その光景に王牙は一ヶ月前のジェネシスが作り出した異界を思い出す。
ひとまず王牙は『駆動心音《マキシマムハート》』を解除して先に進むことに決めた。
体中に電撃が走ったような痛みがする。三倍強化は相変わらず体への負担が大きい。一ヶ月前と比べると体が慣れてきたのか多少はマシになった気がするが、数分も使用すればきっとまた動けなくなるほどの筋肉痛に襲われることだろう。
そうしてドームの中に入ったところで、ふと王牙は思い直して足を止めた。
「……正面から突っ込むのは、さすがにまずいよな」
ここはいわば敵の陣地だ。そんなところになんの罠も仕掛けられていないとはさすがの王牙も考えられなかった。
となれば通るべきなのは敵が想定していない侵入ルートだ。そして王牙はつい最近中を見学したことで常人では通ることのできない、かつ簡単に中に入れるルートを知っていた。
「ドームなんだし、上からだったら簡単に入れるだろ」
王牙は軽やかに壁のくぼみなど手や足を引っかけ、ぐんぐんとドームの壁を登っていった。しかしここで厄介なことに気づく。
「なんだこりゃ? いつのまにか石造りの屋根なんかできてやがんぞ? 中途半端に改造しやがって。クソが!」
そう、王牙の予想に反してドームの屋根は石造りのものに変化していた。ドーム自体あまりに巨大すぎるので、下から上を見上げるだけでは気づくことができなかった。
しかし文句を言っても仕方がないと割り切り、とりあえず一番上にまで登り切ってみると、頂上の屋根部分がステンドグラスでできていることがわかった。
「くそ、ガラスっつってもこれじゃ中がなんも見えねえぞ」
王牙は額が当たるまでステンドグラスに近づき、目を凝らす。しかし透明度の低いステンドグラスでは中の様子を覗くことは不可能だった。それでも諦めきれないと、王牙は今度は耳をそこにつけた。すると微かにだが男女の声が聞こえてきた。
「これは……ヒカリだ! 間違いねえ! そして近くにいるのがP・Sってやつか」
そこまで理解したところで、王牙の耳に男が怒鳴っている音が響いてきた。
まずい。なぜだかわからないが相手は興奮しているようだ。おそらくヒカリとの会話が何か彼の感情を揺さぶったのだろう。
手遅れになってはまずいと王牙は拳を振り上げ――見事なステンドグラスをぶち壊し、中に突入した。
そして今に至る。
正直言って、あれだけヒカリに夢中になっていたのだから、隠れて不意打ちでも決めればよかったと今さらながら後悔した。
ヒカリがオペラ会場の隅に移動していくのを見届けると、突如両陣営の間を遮っていた土壁が吹き飛んだ。そしてその奥から怒りの炎を仮面の奥の瞳に宿したP・Sが歩いてくる。
「テメェが殺人ストーカー野郎のP・Sだな。せこい手段で誘拐なんてしやがって! ヒカリは今日この時のために真剣に練習に取り組んできたんだぞ! 自分の歌でファンたちや両親を喜ばせるために! それをテメェは……!」
「……俗界にこれ以上いては彼女の歌が汚れる。だから攫った。お前こそなんだ? たった数週間共に過ごしただけでもう彼女の英雄気分か? 笑わせてくれる」
「なんとでも言えよ。俺は俺の信念を貫くだけだ。そのためにお前の信念、食わせてもらうぞ!」
言うが否や王牙は強化された拳を思いっきり振り抜いた。明らかに素手で出してはいけない風切り音を聞いて危機を感じたのか、彼はそれを受け止めるのではなく受け流す。しかし王牙の猛攻は止まらない。彼はひたすら前に進みながらその両の拳を連続で振るい続ける。
ステージ上にキュッキュッという二人のステップ音が鳴り響く。靴は床との摩擦で熱を帯び、今にも発火しそうだ。それほど両者は小刻みに激しく動きながら格闘戦に興じていた。
(ちっ……! 当たらねえな。ずいぶんすばしっこいじゃねえか……!)
(この青年の拳は性格と同じように実に素直だ。だが恐ろしく速く、硬い。目で見てからの回避は不可能。肩の予備動作で判断しなければ……。だがこのままでは攻勢に回れないな)
両者は思い通りにいかない戦況に歯噛みする。
そして最初にその戦況を動かしたのは……王牙だった。
「らぁぁ!!」
王牙の拳が相変わらず空を切る。P・Sは踊るようにその攻撃を避けようとした。しかし彼がステップを踏んで飛び退こうとした直後、王牙は待っていたと言わんばかりに足元の瓦礫を蹴り、射出した。
「ガッ!?」
相手は拳ゆえに攻撃範囲は狭い。そう思い込んでいたP・Sは完全に不意を突かれ、その顎に瓦礫の一撃を受けた。それは大したダメージを彼に与えなかったが、その衝撃のせいで体がのけ反り、一瞬硬直してしまった。
その隙を王牙は見逃さない。
「ぶっ飛べクソが!」
助走をつけた両足でのドロップキック。それが炸裂した。P・Sはなんとか胴体と蹴りの間に両腕を挟むことには成功したものの、蹴りというのは拳の三倍の威力を持つ。それが二つ、さらに全体重を乗せたドロップキックときたものだ。当然耐えきれるはずもなく、彼の体はステージ場外まで弾き飛ばされ、会場の壁に激突した。
王牙は蹴りを決めた後、体を捻って鮮やかに着地する。
今の攻防で確信するものがあった。それは身体能力の差だ。どうやらP・Sは肉体的な能力においては王牙に大きく劣っているようだ。術師といっても忠則のように近接もバンバンこなせるタイプばかりではないのだと知って少し安堵する。しかしその安心は瞬く間にかき消えていった。
「――『フォルテシモ』」
「ガハッ!?」
そんな声が聞こえたかと思ったら、突如王牙の体に衝撃が走った。予想外の出来事で受け身も取れず、彼は先ほどのP・Sのように壁に体を打ち付けられる。
「王牙、大丈夫っ!?」
「なんだ今のは……見えない攻撃だと……!?」
「たしかに私の歌唱魔術は直接的にダメージを与えるのは不得意だ。しかしそれはできないという意味ではない。歌唱魔術にはこういう術もある」
「っ!」
悪寒がしてとっさに彼は身を捻った。すると一瞬遅れて先ほどまで彼がいた場所の地面が砕け散る。原理のわからない術に困惑していると、近くにいたヒカリが心当たりを呟いた。
「もしかしてこれって……超音波?」
「な、なんだそりゃ?」
「わ、私もそこまで詳しくはないんだけど、音によって物体を振動させると、それを壊すことができるんだって。前にワイングラスをそれで壊してる動画を見たことあるよ」
「……五十点といったところだな。私の『フォルテシモ』は魔力を乗せた超音波を空気に伝えることによって衝撃波を発生させ、目標を破壊する。目視することは不可能。貴様ごときでは避け切ることもできまい」
「解説ありがとよ。死ねっ」
魔力とは霊力のことだ。P・Sは明らかに外国人なので、外国式であるその名称を使ったのだろう。
再び衝撃波が王牙を襲った。王牙は立ち止まっていてはいい的だと本能的に理解していたのか、勘で横に跳んでそれを回避すると、観客席の森に身を隠すように駆け出した。
『フォルテシモ』の連発。不可視の衝撃波が連続で襲いかかる。王牙は走りながら観客席を盾にすることでなんとか被弾を防いでいく。
「クソッタレ! モーション見えねえ透明弾連発してくんじゃねえよ! 格ゲーだったら訴えられてんぞ!?」
歌唱魔術ということはおそらく『フォルテシモ』も歌によるものなのだろう。先ほどの解説を噛み砕けば、要するに発声の時の空気の振動を弾丸に変えて放ってきているというわけだ。
しかしここで問題がある。それはP・Sが仮面をしているせいで彼の口元が隠されている点だ。これのせいでいつ発声したのかがわからない。先ほどから耳を頼りにしているが、どういうわけか彼の声が聞こえることはなかった。それは超音波というものが本来人間が聞き取れる音域にないせいであるのだが、そんなこと王牙は知るよしもないのであった。
「頼りの椅子も無限にあるというわけではない。いつまで耐え忍ぶことができるかな?」
『フォルテシモ』の連射は止まらない。次々と観客席を吹き飛ばしていき、着実に王牙の隠れ場所を奪っていく。まるでチェスで一手ずつ追い詰められているような圧迫感と焦燥を彼は感じた。
だがこれだけ連発されれば少しはわかってくることもある。観客席は一回ごとに消し飛ぶも、その背後にいた王牙に衝撃が貫通してくることはなかった。このことから『フォルテシモ』一発の威力はそう高いものではないということが推測できた。
――このままではジリ貧だ。なら、一か八か……!
王牙は決断し、両腕を交差しながら盾のように構え、ステージ上のP・Sめがけて突撃した。
「〜っ!!」
衝撃波の連射が絶え間なく叩きつけられてくる。巨大なハンマーを何度も体に打ち付けられているかのようだ。それでも王牙は歯を食いしばって両腕をガッチリと固定し、除雪列車の如く前に突き進んでいく。
「むっ……これは……!」
「ガァァアアアアア!!」
「なるほど。人間とは考えられないほどの防御力だ。……だが甘い」
「――ガァッ!?」
吠えながら走っていたところ、突如彼の後頭部に衝撃がはしった。
――前方からではない。後方からだ。
「知らなかったか? 壁は音を反射する」
体育館で大きな音を立てた時、その音がよく反響するのを聞いたことがあるだろう。あれと同じだ。音は空気以外に接触すると反射される性質がある。ましてやここはP・Sが作り上げた建築物だ。その内部の壁は彼の歌唱魔術が百二十パーセントの力を発揮できるように、音を反射しやすい素材でできていた。
連射の中に混じっていた特殊な軌道の『フォルテシモ』が王牙の真横をすり抜けた後、奥の壁によって反射され、王牙の背後を襲った。
これが後ろから来る衝撃波の正体だった。
「……っ!?」
吹き飛ばされないよう前のめりに走っていたところに、突然後ろから衝撃波が襲ってきたのなら、当然彼の体幹のバランスは崩れる。王牙は前方に倒れるように転びかけた。
当然その隙をP・Sは見逃さなかった。王牙の体が前のめりに倒れるのに合わせて、その顔面に跳び膝蹴りを叩き込む。
倒れる勢いとその反対に蹴られる勢い。
二つの勢いがカウンターを成立させ、王牙は数十メートル吹き飛び、観客席の中に頭から落ちた。
「まだだ! まだ寝るには早いぞ
だが、まだP・Sの攻撃は終わらない。
彼はどこからともなく絞首刑に使うような輪っかが作られた縄を取り出すと、それを王牙の首に引っかけた。そして彼の体を引きずり回す。
「王牙っ!」
ものすごい力で引っ張られ続け、王牙は次々と今まで頼りにしていた観客席と激突していく。まるで頭をヤスリで擦られ続けているかのようだ。ただの縄だと思って両手で必死に引きちぎろうとするも、それは見た目以上に固くてどうにもならない。
「その『パンジャブの縄』は特注品の呪具だ。ちょっとやそっとじゃ壊れんよ!」
その声とともに縄が引っ張られ、王牙の体が天井近くにまで浮かび上がる。だがその浮遊感も一瞬のこと。P・Sは即座に縄を振り下ろし、王牙の頭を凄まじい勢いで床に叩きつけた。
「ゴッ……ガッ……!」
「私は今大変機嫌が悪い! それをさらに悪化させた貴様には死をもって償ってもらおうか!」
何度も、何度も。空中に浮かばされては床もしくは観客席に叩きつけられ、赤いシミを作っていく。
さすがの王牙もここまで攻撃を頭に受け続ければただでは済まなかった。顔中は血に塗れ、脳震盪を起こして意識が揺れている。
そしてようやく縄による連続フリーフォールがやんだ時、彼は自らが作り出した血の池に沈んで起き上がることはなかった。
「あ、ああ……そんな……王牙ぁ……!」
「ふん。他愛もない。いくら能力者であろうと、素人に負けるほど私も弱いつもりはないぞ。さて、あとはあの暗月の巫女が来る前に……」
「……ようやく油断、したな?」
「――っ!?」
突如、エンジン音が鳴り響く。
その音を聞いてP・Sが意識を向けようとした途端、突如彼の体は浮かび上がり、観客席に向かって引っ張られた。
何事かと彼は目を前に向けると、そこには獣のような闘争心溢れた笑みを浮かべながらパンジャブの縄を引っ張る王牙がいた。その顔は血に濡れているせいか、より凶悪で悪魔のような残虐さを醸し出している。
まずいと判断し、咄嗟に歌唱魔術を使おうとしたが、遅かった。
王牙は残った右拳に桃紫色の光を纏い、それを殺意とともに振り抜く。
「――『王牙会心撃』」
――そして、会心の一撃が放たれた。