ファンタズム・ファンタジア   作:日差丸

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第43話 銀座の怪人

 ――花の都と呼ばれたある都市に、一人の男が住んでいた。

 男には天から与えられたとしか思えないほど凄まじい音楽家としての才能があった。しかし天は二物を与えることはない。男はその才能の代償ゆえか、一つの欠点を生まれ持っていた。それが容姿である。

 彼の顔は生まれつき肉がまったくなく、骨に皮が張り付いているように見えるほど醜いものだった。それはまるで髑髏のようであった。彼はその容姿のせいで音楽家としての才能を公の場に発揮できず、また誰からも疎まれて一人孤独な生活を送っていた。

 そんなある日、彼はオペラ座で新人の歌姫であるクリスティーヌと出会った。彼女はまだ未熟だったが才があり、何より天使のように美しかった。男は彼女に一目惚れした。その容姿にも、歌の才能にも。

 彼はどうしても自身の手でクリスティーヌを教えてみたくなった。

 ――そうしてあの美しい少女が才能を開花させた時に、仮面を外して自らの正体を明かすのだ! 歌は心を映す鏡。どれだけ自身の顔が醜くとも、教育の過程で彼の歌声を聞いてきた彼女なら、きっと自らを受け入れてくれるだろうと……。

 男はそんな淡い希望を持って、人に知られないように姿を隠しながらクリスティーヌを教えることにした。その甲斐あって彼女はみるみると上達していき、ついにはオペラ座一の歌姫にまで成り上がった。

 そこで仮面の男は当初の予定通り彼女に素顔を晒し、婚約を申し込んだ。

 ――しかし返ってきた答えは恩を忘れたかのような絶叫と拒絶だった。

 彼女は今まで『音楽の天使』と崇めてきた教師を散々罵り、逃げ出そうとした。ただの拒絶ならまだしも、その裏切りにも等しい態度は彼を絶望のどん底へ追い落とすには十分だった。発狂した彼はクリスティーヌを自らの隠れ家であるオペラ座の地下に連れ去り、そこに監禁しようとした。

 しかしそこである男が怪人の前に現れる。彼はクリスティーヌの婚約者で、彼女を助けに不気味な隠れ家までやってきたのだ。再会した二人の男女の抱擁と接吻、そして固く繋がれた愛を見て、怪人はさらに絶望した。しかしもうすでに二人を殺す気力もなくなり、彼は二人を見逃すことにした。

 その後、暗く寂しい地下の隠れ家の中で、怪人は自らの命を断ち、そうして物語は幕を閉じた。

 ――恐るべき怪人の死と、真実の愛の不滅さという結末を残して。

 

 

「――これが『オペラ座の怪人』の内容だよ」

「……だいぶ怪人に感情移入した語りだったわね」

「うっ……まあ一番好きなキャラは怪人だったし。だってあまりにも報われないんだもん」

 

 銀座ドームの廊下を走りながら『オペラ座の怪人』を読んだことがない夜美のために、ヒカリはおおまかな概要を語っていた。

 それは夜美が彼女に頼み込んだことだった。

 夜美は職業柄世界中の神話や民話などに詳しく、『オペラ座の怪人』についても名前自体は知っていた。しかし実際に読んだことはなかったので、ここでヒカリに詳しい内容を教えてもらうことにしたのだ。そして怪人を好意的に見ているような口ぶりのヒカリの話から全てを察した。

 

「……あなたが彼を召喚したのね?」

「……うん」

 

 夜美はそれ以上追求することはなかった。

 そうやって沈黙が続くこと十分。ようやく二人は放送室にたどり着いた。

 

「ここね。……っ、あのバカ、本当にサンドバッグになってるじゃない……!」

「王牙……!」

 

 放送室は劇場を見下ろせる構造になっていた。

 ガラスで隔てられた視界の先には、劇場で血まみれになって転がり続ける王牙の姿が。

 どうやら『フォルテシモ』の雨を全方位から浴びているようだった。幻は数百体いるが、本体は一人。ゆえに攻撃も単発しか来ないのだが、反響材が含まれたドームの壁が『フォルテシモ』を乱反射させ、それが四方八方からの攻撃を可能にしてしまっている。

 抵抗のつもりで攻撃の合間に『王牙会心撃』を闇雲に撃ってはいるが、当たっている気配はない。このままではいずれ耐え切れなくなって死んでしまうことだろう。

 

「早く放送を切らないと! ヒカリ、頼んだわよ!」

「ええと……たぶんこれだ! これで電源を切れば……!」

 

 機械に疎い夜美に代わって、ヒカリが放送室の装置をいじくる。その中に『電源ON/OFF』と書かれたスイッチを発見した。隣に警告文もあることからこれが重要なものであることは間違いない。ヒカリは急いだスイッチをOFFに切り替えた。

 

「これで……!」

「……おかしいわね。たしかに音量は半分以下になってるけど、まだ音楽が聞こえてくるわ」

「そんな……! まさか、スピーカーと繋がってるのは放送室だけじゃないってこと!?」

「……道理で追っ手も何もないわけね。やられたわ。敵の狙いは私たちを分離することだった……!」

 

 思わず夜美は感情のあまり機械を叩いてしまった。しかし戦場で選択を後悔することに意味はない。すぐさま彼女は目の前のガラスに向かって術を放つ。

 

「“振りゆく粉雪、弾と散れ“。――水行始式『雪飛礫』!」

 

 珍しく詠唱を加え、夜美はツララの弾丸を窓へと放つ。しかしそれらは着弾すると、傷を与えるどころか逆に砕け散ってしまった。

 

「結界……そりゃそうよね。用心深くスピーカーの操作場所を複数に分けてるとはいえ、ここが生命線なのは事実だもの。窓ガラスも対術仕様にするわよね。だったら……!」

 

 今度の夜美は護符を取り出すと、それを光の粒子に変えて消費する。そして言霊を紡いだ。

 

「“三界を貫く土公の塔 社を繋ぐ金橋

釘打つ衝動 大地に轟く“!

――金行順式『鉄柱棍』!」

 

 護符を使用した完全詠唱。

 夜美が床に触れると、その周囲から鉄でできた巨大な柱が数本、斜めに伸びてきて窓ガラスに殺到した。

 しかしそれらは部屋を揺るがすほどの衝撃を与えるも、窓ガラスはビクともしていない。

 

「っ……これでもダメ!? いくらなんでも固すぎ! どれだけリソース注ぎ込んでるのよ!?」

 

 こうなったら終式の術を使いたくなったが、こんな狭い部屋で放てば夜美たちもただでは済まないだろう。おそらくこの窓の結界は敵が高威力の術を放てば術者も巻き込まれることを計算して設置されている。

 悔しいが、これは力技で壊すには時間がかかりすぎる。そう判断した夜美は破壊することを潔く諦め、元来た道を戻ることにした。

 

 ♦︎

 

 場面は変わって、劇場のステージへ。

 そこでは一人の男が片膝をついて荒い呼吸をしていた。彼の周辺には流星群でも落ちてきたかのようにクレーターがいくつもあり、彼自身の肌も何度も衝撃を受けた影響で全身が青く腫れ上がっていた。

 

「『王牙会心撃』!」

 

 せめてもの抵抗のためにか、王牙は最後に衝撃を受けた方向めがけて拳を振るう。

 しかし当たった手応えはない。桃紫色の衝撃波は何人かの幻を巻き込んだが彼らが消えることはなく、劇場の壁を撃ち抜くだけで終わった。

 

「ハァッ……ハァッ……くそっ、けっこうキツいじゃねえか……!」

『これだけの大技を数十回。連続で撃ってもまだ立っていられるとは、恐るべき霊力だな。技量はともかく、量だけなら一級にも匹敵するやもしれん』

「そーかい……褒めてんのかけなしてんのかわからねえよ……!」

 

 銀座の怪人の言葉によると、どうやら王牙は霊力の量が予想以上に多いらしい。そんなことを言われても平均を知らないので、王牙はなんとも実感が湧かなかった。

 

『まったく……あの巫女と言い、お前と言い、よっぽど他人の作品に口を出すのが好きのようだな。お前たちも所詮はあの俗物どもと同じ、芸術を理解できない者ということか……』

「ヒカリがお前の作品……? どういうことだよ!?」

『言ってなかったか? ヒカリに歌を教えたのは私だ。私が彼女を音楽の天使に仕立て上げた。だからこそ許せない! あの至高の天使が、我が最愛の天使が俗物どもに汚されようとしていたとはな!』

「……それが連続殺人事件を起こし、ヒカリをさらった理由か?」

『そうだ。そして彼女の友人を自称するのなら、このまま大人しく失せたまえ。それが彼女のためだ。お前も彼女をあんな汚れに満ちた場所に置きたくはないだろう?』

「……そいつは侮辱だぜ。あいつと、あいつのファンへのな」

 

 王牙は全ての事情を聞いたうえで、怪人の言い分をばっさり切り捨てた。

 たしかに芸能界で彼女が深く傷ついたのは事実だ。しかし彼女はそれでもそこに残ることを決めた。その決断を奪う権利など、たとえ彼女の師匠だとしてもあるわけがない。

 王牙は改めて目の前の敵とは和解する余地がないと理解し、拳を強く握りしめる。

 そのまま次の攻撃に備えていると、急に劇場に流れる歌の音量が小さくなった。おそらく劇場内に設置されていたスピーカーの半分ほどが停止したのだろう。

 しかし、逆に言えばもう半分は無事だということ。怪人の姿は依然として透明のままだった。

 

「なんだと……どうして放送が全部止まらねえ!?」

『切り札に保険はかけておくべきだろう? 私がこの劇場内に設置したスピーカーの数は1480。そのうちの半分を放送室の機械と、もう半分をこの建物内部に隠した音楽プレイヤーと繋げてある。両方の機械を、あるいは全てのスピーカーを壊さない限り、私の歌が止むことはないというわけだ』

「隠した音楽プレイヤーだと……? ざけんな! 銀座ドームがどれだけ広いと思ってやがる! 砂漠で砂金探すようなもんじゃねーか! クソゲーかよ!」

『現実はゲームとは違う。正攻法などない場合もあるということだ。勉強になっただろう?』

 

 無理だ。

 この『銀座の怪人(ファントム・オブ・ザ・シルバー)』という歌唱魔術を止めるにはこの建物中を探し回らなければならない。しかし攻撃を避けながらそんなことができるはずがない。

 完全な詰み。怪人からすればそう見えたことだろう。

 夜美たちが駆けつけてくるまで早くて五分、遅くて十分。それだけの時間を稼ぐ力がもう王牙に残っていないことは明らかだった。

 

「……しゃーねえな。あいつらに怒られそうだし、俺もいてえからやりたくなかったけど……最終手段といくか」

 

 ――だから目の前の男が軽くそう言ったことに、怪人は目を皿のように丸くした。

 

『……ほう。それはまるでこの状況をひっくり返せるというようにも聞こえるが……』

「ここの建物、スゲー頑丈だよな。正直言って『王牙会心撃』を十回以上撃って壊れねえのはビックリしたぜ。……でもな、柱片っ端からぶっ壊してけばいつかは危ないだろ?」

『……しまった!』

 

 銀座の怪人は慌てて周囲を見渡した。そして劇場を支える柱という柱が打ち砕かれているのを目撃する。そして王牙の言う最終手段の正体に気づいた。

 

『貴様……! 闇雲に大技を繰り返していたのはこのためか……!』

「ヒカリがいるからやるのは躊躇うが、あっちは夜美がいるしなんとかなんだろ。さっきお前は歌を止めるには手元の音楽プレイヤーかスピーカー全部をぶっ壊すしかないって言ったな? じゃあお望み通り全部壊してやるよ。現実に正攻法がねえのなら、こっちも番外戦術でひっくり返すまでだ」

 

 王牙は凶悪な笑みを浮かべながら、先ほど同様手首を捻り、右拳に霊力を集中させた。怪人たちはそれを止めようと『フォルテシモ』を放とうとする。

 しかし衝撃波が彼を吹き飛ばすより前に、王牙の拳が床に突き刺さった。

 

「――『王牙会心撃』」

 

 ポツリと、静かにそう唱える。

 次の瞬間、王牙の一撃を全て吸収した地面が、そのあまりの威力ゆえに自身のように揺れ出した。それは劇場全体を大きく揺さぶることとなる。そしてほとんどの柱を壊された劇場に、それを耐える力はなかった。

 

「埋葬だ。劇場に埋められるのなら本望だろ?」

『……私の劇場が……! 私の歌が消え……!』

 

 怪人たちがその言葉を言い終えることはできなかった。

 壁中にヒビが入ったかと思うと、天井が決壊する。

 二人の姿は瓦礫の山に埋もれていき、次第に見えなくなっていった。

 

 ♦︎

 

「……ぷはぁっ! 死ぬかと思った……!」

 

 数分後、瓦礫の山の中から王牙の顔が飛び出してきた。その顔は酸欠に陥っていたせいでかなり青ざめている。実際彼は先ほどまで死にかけていた。

 あのドームサイズの劇場全部が崩れ落ちて、その下敷きになったのだ。王牙が背負った質量は数十トンはくだらないだろう。これしか方法が思いつかなかったからやったとはいえ、二度とやらないことを心の中で誓った。

 彼が新鮮な空気を吸い込んでいると、別の場所で瓦礫が吹き飛んだ。そしてその中から小さな六角形の結界が連結してできた球状の結界に覆われた夜美とヒカリが出てくる。

 

「――護法終式『玄武宝珠』」

「なに今のなに今の!? ねえ生きてる!? 私今生きてる!?」

 

 ヒカリは突然崩落に巻き込まれたせいでかなりパニックになっているようだ。

 反対に夜美は冷静だった。冷静にゴミを見るような凍てつく眼差しで王牙を睨みつけていた。

 

「言い残すことは?」

「……許してヒヤシンス」

「処刑ね」

「い、いやマジであれしか方法が思いつかなかったんだって! 申し訳ないとは思ってるけどあれはしゃーなかったって!」

「……はぁ。まあいいわ。どうせあのままなにもしなかったらもう一つの放送源も見つけられず、スピーカーも壊せなかっただろうし」

「そうだ、スピーカーだ! これだけ全面派手にぶっ壊したんだからもうあの幻術は使えねえよな!?」

「そもそもこの崩落で相手が生きてるとは限らないけどね」

 

 王牙は崩落した銀座ドームを見渡す。

 一面瓦礫だらけだ。敷地内は駐車場以外のほぼ全面が瓦礫で埋まっていた。これを回避することはできなかっただろう。仮に生きているとしても、怪人の身体能力じゃ瓦礫を持ち上げるなんてことは不可能だということは王牙が一番よくわかっていた。頼みの『フォルテシモ』も数十トンの瓦礫を動かす力はない。そもそも瓦礫の下は酸素不足で歌えない可能性が高い。ヒカリはそれに気づいて顔を青ざめていたが、やっていなければ死んでいたので王牙に後悔はなかった。

 

「この有り様。これは勝ったわね」

「おいバカ! なにベタなフラグ立ててんだコラ!」

 

 どことなくドヤ顔を浮かべている夜美に頭を叩く。だが悪い予感というのは当たるものらしい。

 次の瞬間、一部の瓦礫が吹き飛ぶ音がした。

 

「ハァッ……ハァッ……!」

「おいマジで生きてやがったよ……!」

「吹き飛んだ瓦礫の量から考えると、ずいぶん浅い場所に埋まってたみたいね。運のいい人」

「けっ。俺なんざほぼ一番下だったのによ……!」

 

 瓦礫の山から荒い呼吸を繰り返しながら、銀座の怪人が這い出てくる。

 彼が生きているのは奇跡に近かっただろう。しかしその代償は決して安くはなかったようで、彼の体はボロボロになっていた。目立つタキシードは肌がところどころ露出するほど破けており、その下からは決して少なくない量の血が流れている。

 何より、彼の象徴たるペストマスクは修復不可能なまでに砕け散っていた。

 そしてその下からは息を呑むほど醜い素顔が露わになっている。

 

「見たな……! この私のこの呪われた顔をッ! 見たなァァァッ!?」

「うおっ!?」

 

 怪人はその事実を認めると、発狂したかのように叫んだ。髑髏のように肉がなく骨に皮が張り付いたような顔が奇声をあげている様はまるでホラー映画のワンシーンか何かのように思える。

 

「『嗚呼、死よ(ラ・モルト)』ッ!!」

「「「なっ……!?」」」

 

 唐突だった。

 怪人は今までの優美なオペラ調の歌を捨て去り、聴いているだけで耳が痛くなるような歌を歌い始めた。

 否、これはもはや歌でも芸術でもない。聞く者全てを不快にさせるただの呪詛だ。だが銀座の怪人が発するその音は歌唱魔術としては絶大な効果を発揮した。

 

「がぁっ!? あああああああっ!?」

「これは……即死の歌唱魔術!?」

 

 その呪詛を聞いた途端、王牙は耳を塞いでその場にうずくまった。耳の奥が腐っていくような感覚が走る。なぜか呼吸ができない。苦しい。様々な症状が王牙に現れ、彼は形容しようのない苦しみに苛まれる。

 幸いなことに、その音を聞いても夜美とヒカリは無事だった。おそらくあの呪詛はある程度範囲を絞れるのだろう。夜美が無事なのはおそらくヒカリの側にいたからだった。

 

「まずいわね……! この感じ、間違いなく特級を即死させられるレベルの呪詛だわ……! バカみたいな精神力のおかげで死なずに済んでるけど、これじゃあもって数分よ……!」

「先生……そこまで堕ちてしまわれたのですか……!?」

「……ヒカリ?」

 

 夜美は横から聞こえてきた強い声に戸惑い、顔を向ける。そこには今まで見たことないほど怒りを露わにしたヒカリがいた。

 彼女が怒る姿を見るのは事務所の社長が死んだ時以来だ。その時も歌を殺人の道具に利用されたことに、彼女は怒っていた。

 ……だが今見せている怒りは、その時のものを遥かに凌駕するものだった。そして同時に悲しみも夜美には感じられた。

 

「私がなんとかするよ」

「ヒカリ?」

「歌が相手なら……私が歌で王牙を救ってみせる!」

 

 彼女は深く深呼吸をすると、目を閉じる。

 考えるのは王牙の救済と、堕ちた先生への慈悲。

 憎しみは抱いてはならない。歌は心の映し鏡。あの呪詛に対抗するには、負ではなく正の感情をぶつけなければ。ヒカリはそのことを無意識に理解していた。

 両手を重ね合わせ、祈るように歌い出す。

 そして、異界中に天使の歌声が響き渡った。

 

「これは……グレゴリオ聖歌『キリエ・エレイソン』……!?」

 

 ――Κύριε ἐλέησον(主よ、哀れみたまえ)

 ――Χριστὲ ἐλέησον(キリストよ、哀れみたまえ)

 ――Κύριε ἐλέησον(主よ、哀れみたまえ)

 

 それはミサに使われる祈りの歌。救われぬ人のために神に慈悲を請うための聖歌。

 天上の歌声を持つヒカリがそれを歌ったことで、その奇跡が歌唱魔術として具現化する。

 

「な、なんだ……急に体が軽く……!?」

「お、おお! おおぉっ!! これは……!」

 

 銀座の怪人から発せられる呪詛が浄化されていく。いや、呪詛だけでない。聖歌はそれを聞いている者の心までをも洗い流し、気がつけば怪人の目からは涙が流れていた。

 

「嗚呼……ヒカリ……! 君は、こんな私にもっ、祈りを捧げてくれるのか……!」

 

 怪人は感動のあまり、立ち尽くしていた。そして気がつけば歌うことを放棄していた。それだけこの歌は素晴らしいものだったのだ。音楽を極めた怪人であっても、これ以のものを想像することができなかった。

 彼女の歌は今この瞬間、はっきりと怪人の歌を超えていた。

 

「たしかに、芸能界じゃ俺なんか想像もつかねえ闇があるのかもしれねえ! でもヒカリはその中でも泳ぎ続けて、輝こうとしてるじゃねえか!」

 

 その隙を、王牙は見逃さなかった。彼は思いの丈を叫びながら手首を捻り、残った霊力を集中させ、拳を突き出す。

 

「子どもの幸せを願うんだったら、ちょっとは子どものこと、信じてみろよ!?」

 

 ――『王牙会心撃』。

 怪人はそれを眺めてはいたが、避けようとすることはなかった。むしろ彼はそれを受け入れるように手を広げ、笑みを浮かべていた。それは先ほどまでは考えられないほど清々しいものだった。

 

「ああ……私は、満足だ……」

 

 ――そして怪人の顔に、桃紫色の衝撃波を纏った拳が突き刺さった。

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