衝撃波を纏った王牙の拳を受けて、怪人は瓦礫の山の上に倒れた。
これで終わりだ。
王牙の手の中にははっきりと彼の頭蓋を砕いた感触が残っていた。ただでさえ瓦礫に潰されて深手を負っていたところに『王牙会心撃』をくらったのだ。これ以上は動くことはできないだろう。
その予想通り、怪人は生きてはいるようだが立ちあがろうとすることはなかった。そんな惨状を見てヒカリが彼に駆け寄る。
「『キリエ・エレイソン』。君の苗字から連想して、私が最初に教えた歌だったね……。素晴らしかったよ……」
「先生っ!」
「ヒカリ……。よくその顔を見せておくれ……。君の歌声のおかげで、少しだが正気を取り戻せたんだ……」
「正気? どういうことだ?」
「……そいつは幻魔よ。だから彼の心は狂気が大半を占めていた。それが聖歌によって一時的に中和されて、冷静さを取り戻したのかもしれないわね」
「幻魔!? 幻魔ってことは……!」
「ええそうよ。銀座の怪人。その正体は小説『オペラ座の怪人』の登場人物を元に、幻想召喚によって生み出された架空の存在よ」
その衝撃の事実に、王牙は怪人の方へ顔を向けた。彼の顔は王牙の拳によって元々醜かったものがさらに歪んでしまっている。そこから流れる血にもなんの違和感もない。どう理屈で言われようが、王牙は彼が架空の存在だとは微塵も思なかった。
「教えてくれないかしら。どうやってあなたは彼を召喚したの?」
夜美が一番気になっていたのはそこだ。説明するまでもなく、幻想召喚は長年にわたって禁術とされてきた。普通なら他組織の術師どころか一般人にはその術式が流れることはないのだ。……そう、普通ならば。
ヒカリは当時のことを思い出し、召喚に至るまでの過程を語り出す。
「……別に、私に魔法の知識があったわけじゃないの。知っての通り、私って昔は貧乏でね。歌のレッスンを受けたくても受けられない状況だったんだ。その代わり、お母さんからもらった『オペラ座の怪人』を読んで、理想の音楽の先生を妄想していたりしてたの」
その小説はおそらく前に彼女の母が誕生日にあげたものなのだろう。王牙たちは事前に知っていた情報からそう察する。
「それでも常にそうしてるわけじゃなくて、ある日、少しでも安い本を探しに古本屋さんに行ったの。その時に偶然見つけたのが不思議なおまじないの本。その中には理想の人を呼ぶ儀式ってのが書かれていて……」
「……それを実践した結果、そこの銀座の怪人が生まれたってわけね?」
「うん……」
ヒカリに静かにそれを肯定した。夜美はそれだけで全てを理解したらしく、痛そうに頭を押さえた。
一方の王牙は前に異界の天龍寺で見た儀式陣を思い浮かべ、驚きの表情を浮かべる。
「いやいや。儀式って……子どもがあんなバカでかい鳥居を建てたりできんのかよ!?」
「あれは呼び出す対象のジェネシス本体が強大過ぎるから、正式な儀式陣が必要だったというだけよ。そこの男みたいに近代のただの人間を呼び出すくらいなら、安い代用品による略式でもできるわ」
小説内では様々な怪事件を引き起こしているが、オペラ座の怪人の正体は実はなんでもない人間だ。彼は歌の他に建築の知識を持っており、それを駆使してオペラ座の中で暗躍していたというのが物語のオチである。
ゆえに銀座の怪人の戦闘能力は召喚後に身につけたものなのだろうと夜美は推測する。
「略式?」
「ええ。腹立たしいことに明治政府が陰陽寮を解体したせいでね、その時代にいろんな術や占いが民間に流れたの。だいたいは意味もないデタラメなものだったけれど。たまに本物が混じっていたりもしたわ。もちろん陰陽師院によってそういった本物の秘伝書なんかは回収されたのだけれど……おそらくその古本屋にあったのは、回収しきれなかった一冊だったのでしょうね」
陰陽寮。飛鳥時代に天武天皇によって作られた機関だ。その歴史は長く、約千年もの間日本における神秘を管理してきたのだが、時代の流れによって神秘が信じられなくなったことで十九世紀に解体されてしまった。陰陽師院はその後釜的な組織と言えよう。
「うん。私がやった時はチョークで五芒星を描いて、真ん中におもちゃ屋で買った仮面を置いただけだったよ。それで本に書かれてた呪文を唱えたら、先生が現れたの」
「そ、そんな簡単なのか……」
「学のない一般人でもできるように簡略に簡略を重ねたのね。だから略式って呼ばれてるの」
「……でもよ。でもよ! そんでも、空想の人間一人をそんな簡単に生み出せるもんなのかよ!?」
略式が一般人向けに作られている規模の小さいものだということはわかった。しかしそれでも王牙には信じられなかったのだ。銀座の怪人は間違いなく意思を持っており、生きていた。そんな存在がこうも簡単に作れてしまうとは到底思なかった。
そしてそれは正しいようで、夜美はその通りと頷いた。
「もちろんできないわ。たとえどれだけ召喚する者の格が低くても命を呼び出す以上、幻想召喚する際には一般人では到底足りないほどの霊力が必要になる。だから基本、一般社会に幻想召喚の秘伝書が流れても、それが効力を発揮することは滅多にないわ」
「霊力って……あっ」
「そう。前にも言ったけど、ヒカリには一流の陰陽師になれるくらいの十分な霊力があるの。だから幻想召喚は成立してしまったのでしょうね」
そういえば、夜美はヒカリを陰陽師へ誘ったこともあった。あの時は冗談だと思っていたが、今思えばヒカリにはそれだけ才能があったということなのだろう。でなければ一般人を巻き込むことを基本良しとしない夜美がそのようなことを口にするはずがない。
「付け加えるのなら、彼女はその時子どもだった。子どもというのは不思議なものでね。『七つまでは神の子』なんて言われる通り、子どもには大人にはない不思議な力が備わっていたとされているの。その一つが想像力ね。子どもの想像力は大人の数百倍はあるわ。それが結果的に幻想召喚を成功させる要因の一つになったのでしょうね」
たしかに、子どもというのは時々思いもつかないような行動や発想をすることがある。それは大人が無意識のうちに囚われてしまっている常識や現実を、彼らがまだ知らないからなのだろう。限界を知らないからこそ、どこまでも夢を広げることができる。子どもの想像力が大人より優れているというのには納得がいった。
夜美はそこまで話したところで、視線を銀座の怪人へ向ける。
「それにしても不思議ね。素人が幻想召喚なんかしたら殺されるのが常なのに、この男はきっちりヒカリを育てている……」
「そう不思議なことではないさ。負の感情に囚われた幻魔は、抑圧されていた欲望を行動原理とする。初めは私も同じだった。クリスティーヌの面影を見て、彼女を自身の伴侶にしようと決めた。それが私の中に渦巻く欲望の形だったからだ。だから私は彼女を歌姫として育て上げることにした……」
怪人はそう静かに語り出した。その言葉には力はない。彼の命の鼓動が尽きかけていることがわかった。
「だが……幼い彼女を教えていくうちに、私の中に別の感情が芽生えていくのを感じた」
「別の感情?」
ヒカリが彼に聞き返す。
「――愛だよ。それも恋人に向けるような情欲的なものではない。それは親愛と呼べるものだった。私は気がつけば君を恋人ではなく娘として見るようになっていた」
銀座の怪人は目をゆっくりと閉じて、その感情が芽吹き始めた時のことを思い出す。
そうだ。あれは彼女に歌を教えて一年が経ったころ。普段は己の醜さを隠すためにつけている仮面を外すところを彼女に見られてしまったのだ。
しかし彼女は少し驚いたと思ったら、嫌悪一つ見せず優しく微笑みかけてくれた。それは彼にとっては天使の如き笑みに見えた。
怪人は問うた。なぜそのような顔ができるのか? と。
彼女は答えた。
『すごく驚いたけど……先生言ってたもん。音楽は心を映し出す鏡だって。先生の歌声はとても綺麗だから、きっと心も綺麗だって私は知ってるの。だから私、怖くないよ』
ヒカリはそう言って動揺する怪人を抱き締めてくれた。その時初めて、怪人は涙を流した。
彼は愛というものを知らなかった。親にすらそれを与えられたことがなく、友と呼べる存在もいない。だから彼は愛に飢えており、それを得るためにクリスティーヌを夫婦という鎖で結びつけようとした。その考えは幻魔として生まれてからも変わることはなかった。
しかしそこで彼は知った。愛とはそのような契約の結びつきなどなくとも、互いを思い合うことで生まれるのだということに。
それを知った時、彼の中でヒカリという存在が『将来の妻』から『娘のように大切な人』に変わっていった。夫婦関係になどこだわらなくてもいい。愛というのは、誰かを思っていれば自然と生まれてくるのだから。
「だから、私は全てを教えたあと、彼女の元から去ることを決めた。彼女の近くに男がいれば不利な面が出てくるという点もある。しかし一番は私が幻魔だったからだ。私は不安定な存在だ。ヒカリに与えられた愛のおかげで欲望が満たされ、狂気は緩和したが……逆が起こり得ることもある。ゆえに彼女の前から姿を消し、影からその夢を応援することにした。それだけで私はよかったのだ……」
そこで彼は嫌なことを思い出したのか、拳を握りしめた。その声色もそれまでは穏やかだったものが怒りが込められているものに変わる。
「だが、一部の芸術家もどきどもが彼女を穢そうとしていると知った時、私は初めて誰かのために怒りを感じた。それは私の幻魔としての性質を呼び戻し、私の理性は暗い暗い狂気に囚われ……」
「――そして暴走し、今回の事件を引き起こしたってわけね」
事件の全ての全容が明らかになった。
王牙は苦々しく自身の拳を見つめた。
最後に繰り出したあの一撃。怪人の命はあれによって既に尽きようとしている。殺されかけただの、ガムシャラだったのだの仕方がない理屈はいくらでも並べられる。だがそれでも怪人の過去を知った時、王牙は彼にとどめを刺したことはわずかにだが後悔していた。
「『音楽は心を映し出す鏡』、か……。ふっ、その通りだ。私の最後のあの歌は実に醜いものだっただろう? 外見ばかりを言い訳にしてきたが、結局私は内面すらも醜い、本物の怪人だったのだな……」
「……そんなこと、ないです」
怪人は顔を手で覆い隠し、自嘲する。しかしヒカリは搾り出したような声でそれを否定した。その瞳は涙で震えている。
「先生がその前に歌った『
『銀座の怪人』。
パイプオルガンの重厚な音と共に始まるあの歌は、聞く者全てに大地が揺らいだような不安を与える歌だった。しかしそれは彼がヒカリが追い詰められていた時に感じた感情そのものだったのかもしれない。
狂気に堕ちてしまうほど、彼はヒカリを大切に思っていた。だからあの歌は負の感情が感じられながらも、人の心を魅了するほど美しかったのだ。
「……そうか……そうだと、いいな……」
怪人の声が徐々に小さくなっていく。いよいよ限界が近づいてきたようだ。その体はゆっくり、ゆっくりとだが光の粒子へと変換されていき、空へ溶けていった。
体が霊素に変換され始めたということは、死期が近い証拠。ヒカリはそのことを知らないはずだが、徐々に消えてゆく体を見てそれを悟ったのだろう。彼の体に顔を埋め、嗚咽を漏らした。
「……
「……そうかよ。だったら少しはマシな気持ちになれそうだ」
これだけで王牙の心の中のしこりが取れたわけではない。それでもそう言ってもらえて、彼は少し楽な気持ちになった。
怪人はもう下半身が消えてしまっている。彼は最期の時を悟り、祈るように目を閉じる。
「先、生……っ!」
「嗚呼……嗚呼……ヒカリ……我が愛しき娘。私の人生の光よ。ありがとう。君の歌はたしかに私の心を照らしてくれた。願わくは、その輝きが永遠にあらんことを……空の彼方で願って、いるよ……」
そう言葉を遺して、銀座の怪人は消えてしまった。
後に残ったのは空中を舞う光の粒子のみ。
ヒカリはそれをかき集めようと必死に手を伸ばすも、それは空を切り虚空を掴むだけだった。
「先生ぇぇぇぇぇぇっ!!」
少女の泣き声が瓦礫の山の上で響き渡る。
王牙たちは黙りこみ、彼女が全てを吐き出すまで一言も喋ることはなかった。