慌ただしく転校生が来たものの、どうにか学校は放課後を迎え、多くの学生が外へ解き放たれた。まだ部活動で残る人間もいるが、香霊第一高校は部活動を強制する校則はない。よってかなりの人数がこの後何をするかで胸を膨らませながら校門を通り過ぎていく。
王牙もそんな一人だった。今日はお気に入りの漫画雑誌の新刊が出る日なのだ。だから放課後に王牙は近場の本屋へと向かっていた。
……その背後に夜美を引き連れながら。
「で、なんでわざわざ学校になんか通い出したんだ?」
「安全上の問題よ。私たちはお互いが陰陽師院に狙われている身。できる限り固まっている方が効率的だと思わない?」
「本当かぁ?」
「……ええ、本当よ」
「いやなんで目ぇ露骨に逸らしてんだよ! 怪し過ぎるわ!」
彼女はいつもの冷たい表情を装っていたが、その目だけは泳いでいた。つまりは他に理由があるというわけだ。
「もうゲロっちまえよ。別に怒りはしねえからさ」
「いやよ、そんなの。恥ずかし……屈辱的だわ」
「なんで俺に本当のこと言うのが屈辱的なんだよ!?」
夜美の心がまるでわからない。もともとバカな王牙に陰陽師院ではあれこれ政治にも関わってたらしい彼女の考えが理解できるとは思っていないが、今日はいつに増してもそれが顕著だった。
とはいえ、言わないということはそれなりの理由があるのだろう。なので王牙はあえて放っておくことにした。
「つーか費用とか転入試験とかはどうしたんだよ?」
「転入試験は先月に済ませたわ」
「済ませたって……うちは別に進学校ってわけじゃねえけど、平均値ぐらいは偏差値あるんだぞ? どこに勉強する時間があったんだよ?」
「私はもともと国、数、英、社は完璧だったもの。あとは科学の教科書を丸暗記すればそれでおしまいよ」
夜美は名家のお嬢様であり、その教養は高い。高校までの国語や社会程度だったらすでに履修済みだ。数学に関しても、陰陽術の発動には必須なのでなんの問題もない。極式レベルの陰陽術が使える彼女にとってはお遊びにもならなかった。英語も同様だ。海外の主要な術師組織との交渉のために二十ヶ国以上の言語をマスターしている彼女にとっては、高校受験程度のレベルはなんの障害にもならなかった。唯一知識がなかったのが科学だったが、それは真面目に勉強した。そして30分で教科書を丸暗記することで解決した。
当然試験結果は全教科満点であり、これには教員たちも度肝を抜いたのだとか。相変わらずデタラメだ。
「つーか、なんでついてくんだよ?」
「……私は浮世に来て、たくさんのことを学んだわ」
「ああ。そりゃ浮世にもうどっぷり浸かってるからな」
「浮世の高校生って、放課後はいろんな場所で遊ぶものなんでしょ? 私もそういうの、少し体験してみたいというか……」
彼女はそっぽを向きながらも、もじもじと指と指を合わせて恥ずかしそうにそう呟いた。普段は冷徹な表情ばかりの彼女がほんのりとほおを赤くしている様子は予想以上に強烈なものだった。あまりのギャップと可愛らしさに、一瞬王牙の頭はフリーズしてしまう。
「……王牙?」
「……ハッ。い、いや、それだったら最初から言えよ。まったく、紛らわしいやつだな」
夜美に一瞬でも見惚れていたという事実を有耶無耶にするために王牙は早口でそうまくし立てる。そして彼女の手を掴んだ。
「さ、行くか」
「行くって……どこに?」
「色々だ。俺がお前に普通の高校生の遊び方ってやつを伝授してやるよ!」
お前みたいな普通の高校生がいるか! なんて突っ込みは野暮だろう。
「ちょ、ちょっと! 引っ張らないでよ!」
夜美は抗議の声をあげるが、抵抗は感じられなかった。
二人は手を繋いだまま、町中を駆け出した。
♦︎
「……もうちょっと雰囲気のある場所とかないのかしら?」
「なんだよ。高校生の遊びつったらゲーセンだろうが!」
四方八方から降り注ぐネオンの光と機械の不協和音に夜美は顔をしかめる。今の彼女は
「……兎の幻魔のお前にこの音はキツかったか」
「大丈夫よ。兎耳の方を閉じてればある程度は軽減されるから。それで? ここで何をするのかしら?」
「そーだな……んじゃまずはシューティングでもやるか?」
王牙は近くにあったレプリカの銃を手に取りながら、そう言う。
ゲーセンの醍醐味の一つは、家庭用ゲーム機では使えないような形のコントローラを使える点だろう。このシューティング用の銃もその一つ。このゲームのみに使用は特化されており、その形も相まって本当に敵を撃っているように感じるのだ。他にも例を挙げるのなら、音ゲーに太鼓型のコントローラやレースゲーにリアルなハンドルと座席とかだろうか。
「……なんでよりにもよってゾンビゲーなのよ?」
「家にあるゲームは全部俺のものだからな。こういうホラゲーはまだやったことがないだろ?」
王牙は基本的にファンタジー系のRPGを好むため、家にホラゲーはほとんど置いてなかった。そのため夜美もこういったゲームには慣れてないと考えたのだ。普段振り回され気味な彼のちょっとしたイタズラであった。
しかし夜美はそんな浅はかな考えを見抜いていたようで、その努力を鼻で笑う。
「ふん。私は出雲の巫女よ? 出雲国は黄泉の世界と浮世が繋がる場所。生と死を管理する私がたかだかゾンビゲーに恐れ慄くとでも?」
そして数分後……。
「……っ」
「……あの〜、夜美さん? 手がブレまくって一発も当たってないんですが……?」
「ななな、何を言ってるのよっ? こここ、これくらい、大してこここ怖くなんかないんだから……っ」
「めっちゃ怖がってんじゃん!」
表向きの表情は変わっていない。しかしよく見れば全身が小刻みに震えていた。おまけに呂律も回っていない。彼女は明らかに恐怖で錯乱していた。
彼女は発狂した一般モブ兵士Aのようにメチャクチャに銃を振り回して発砲しまくっている。そこには普段の戦場で見られる冷静さとか知的さといったものは微塵もなかった。
「なんで妖怪退治のスペシャリストが仮想のゾンビに怯えてんだよ……」
「だ、だってこれ本物よりグロテスクなんだもの……! というか私の場合は一度に広範囲を除霊できるから、こんな至近距離まで近づかれることはないのよ!」
それと、これが本当の戦いでないことも理由の一つだろう。本来の戦場だったら同じ状況でも夜美は感情一つ揺らすことなくゾンビを殺すことができると王牙は確信している。しかしなまじ遊びという意識があるため、戦闘モードに意識が切り替わってくれないのだろう。
結局この後王牙がサポートに回ったものの、質量に押し切られて手が回らなくなり、ゲームオーバーとなってしまった。
彼女はその長く美しい桃色の髪をほつれさせ、肩で呼吸をしていた。
「ちょ、ちょっと休憩するか? ほらちょうどゲームオーバーになったことだし」
「……いや」
「へっ?」
チャリンチャリン、と百円玉二枚が機械内部を転がる音が響く。夜美はキッとゾンビ溢れる画面を睨みつけ、叩き割るような勢いでコンティニューボタンを押した。
「いやよ! 絶対処刑してやるんだから!」
「たかがゲームでどれだけ熱くなってんだよ!?」
彼女は銃を再び手に取ると、髪を振り乱しながら、ものすごい迫力で引き金を引き始めた。血走った瞳といい、乱れた髪といい、雰囲気はもはや夜叉である。ヘルカイザー夜美の誕生も近いことだろう。
「逝きなさい! 逝け! 逝けって言ってるでしょうがぁ!!」
いや怖ぇよ……。
最終盤で放たれたその弾丸は見事にボスゾンビの急所を打ち抜き、それが決め手となったのか敵は血を撒き散らしながら爆散した。
「アスタ・ラ・ビスタよ」
「お前もうほんとキャラの原型ねえな」
まるで熟練の兵士のように彼女は銃を指で回していた。これが先ほどまで涙目で撃ちまくっていたのと同一人物だと思うと驚きである。
つーかドヤ顔やめろ。
「……そこそこ楽しかったわ。さ、次に行きましょう」
「いや、急に元のキャラに戻るなよ……」
そして彼女は何事もなかったかのように元のクールな美少女に戻っていた。あまりの切り替えの速さにドン引きである。
王牙たちは適当に散策して次のゲーム機を探す。そこで夜美がとあるゲームに興味を持った。
「あれは……」
「……キャラゲーのカーレースか」
「私も車っていうのに一度乗ってみたかったのよ。現実じゃ乗れないけど、これなら雰囲気だけは味わえそうね」
彼女が指名したのは世界的人気キャラたちのカーレースである。ほらあれだ、アイテムでバナナとか甲羅を投げつけられるやつ。
たしかにそのハードは家庭用ゲーム機とは比べられないほど大きく、ハンドルの他に足元にはアクセルやらブレーキやらが本物の車のように設置されていた。やってみたかったというのも納得だ。
「俺ってこういうのあんましやったことないからな」
「友達少ないからでしょうね」
「うぐっ……!」
友達関連の話はNGなのでやめてくれ。
王牙が初めてこういうパーティーゲームを買ったのは去年のことだった。例の変態たちに散々負けて煽り散らかされ、血管がブチギレそうになった。その屈辱がありありと浮かび上がってくるが、勝負から逃げたくないという思いが先行して座席に乗り込んだ。
そしてそれぞれが百円コインを入れて、ゲームが始まる。
「……あなた、カーレース全然やってないんじゃなかったの? 普通に上手なのだけれど……」
「何回かヤンキーどもの車盗んで無免許運転してたからな。あとバイクも乗ってるからこういうのには慣れている」
喋りながら王牙は三連バナナを背後の夜美めがけて投げつけた。綺麗に横一列に並べられたバナナを避けるのは難しかったらしく、彼女の車が転倒している様子が画面に映る。
「ちょっと! 私狙い撃ち!?」
「NPCに負けても悔しくはねえが、俺はお前に負けるのだけは許せねえんだよ!」
「だったらこっちもやってやるわよ!」
その後はNPCを無視したアイテムの撃ち合い合戦になり、王牙が十一位、夜美が十二位でゴールした。
王牙はまるで甲子園で優勝したかのような笑顔とともにガッツポーズをとり、叫ぶ。
「勝ったぞぉぉぉぉっ!!」
「これで喜べるってあなたある意味すごいわね」
実際には大敗北である。
このようにして、王牙たちはゲームセンターに置かれている大半のゲームで遊びまくった。幸い今月は夜美の浪費癖が発動していないので、金なら十分ある。二人は夜遅くなるまで遊びに夢中になっていた。
「……これがクレーンゲームね」
「狙いは?」
「この桃スライム人形がいいわ」
彼女が指差したのは某国民的RPGの大人気モンスター……の色違いモンスターのぬいぐるみだった。
あえて色違いの方を選ぶとは、彼女も通になったものである。というのは冗談で、おそらく彼女のシンボルカラーである桃色が入っていることが気に入ったのだろう。
夜美はさっそくコインを入れてレバーを操作し始めた。ところが……。
1回目。
「……あら?」
5回目。
「あらら?」
10回目。
「あららら?」
23回目。
「……」
56回目。
「どうやら処刑されたいみたいね」
173回目。
「こ ろ し て 」
「いや下手くそすぎんだろ!?」
沈没。
彼女はこの世の希望全てを失ったような光のない目をして台座に突っ伏した。心なしか中にいるぬいぐるみたちが彼女を嘲笑っているかのように見える。
「はぁ……ちょっと交代しろ」
「……いやよ。私はまだ負けてないわ……」
「どんだけプライド高いんだよお前。ほらシッシ。敗北者はどいてな」
「うっ……」
このままじゃテコでも動きそうになかったので、物でも移動させるように強引に彼女を持ち上げて台座の横に置いた。
「へっ……かっ飛ばすぜ!」
そして王牙は不敵な笑みを浮かべてコインを投入し、レバーを倒した。
そして234回目。
「ダメでした」
「そこは成功するパターンじゃないの!?」
王牙はまるでこの世全てが絶望で満ちてしまったかのような目をして台座に倒れ伏した。
まさにお通夜モード。二人が発するあまりにも重苦しい空気にクレーンゲームコーナーは人が寄り付かないゴーストタウンと化していた。
「……なあお前。あと何円残ってる?」
「……あと百円一枚だけよ……」
「……ラストチャンスか……」
「……こうなったら連携してやるわよ……」
残された最後の希望。それに全身全霊の祈りを込めて、投入する。
そして二人は一つのレバーに手を重ねるように同時に握った。
「ぐぐぐ……ちょっ、そっちはねえだろうが! どこ向けて動かそうとしてんだこのマヌケ!」
「そっちこそレバー揺らしすぎよ! クレーンガタガタ揺れちゃってるじゃない!」
だが普段から反発しあっている二人が同時にレバーを操作しようとすれば当然、息が合わなくなる。レバーはあちこちにガチャガチャと倒され、クレーンはまるで生き物のような不規則な動作をしていた。
それでも奇跡的にアームがぬいぐるみを掴んだ。そしてそのままゆっくりと出口付近まで移動していき――。
「よっしゃぁ!」
「やった! 出たわよ!」
ガシャン、という音とともにぬいぐるみがとうとう出口に落ちてきた。あまりの嬉しさから二人は歓声をあげて抱き合い、この犠牲多き戦いの勝利を喜んだ。
だがそれも一瞬のこと。ふと夜美が我に返ると、途端に羞恥心が湧き出してきて王牙から弾かれるように離れた。その顔はほんのり赤に染まっている。
だが王牙はそんなことにも気づかずにぬいぐるみを取り出し、彼女に手渡した。
「ほらよ。欲しかったんだろ? 苦労して取ったんだから大事にしろよ」
「あなただけで取ったわけじゃないけどね。……でもまあ、ありがとう。大切にするわ」
夜美は桃色のスライム人形を受け取ると、それをギュッと抱きしめながら感謝の言葉を口にした。
ぬいぐるみは枕にできるほど巨大で、抱き心地が良さそうだった。それを見ていると王牙も通常版の青いスライム人形が欲しくなったが、財布の中身はすっかりスッカラカンになってしまっていたため、泣く泣く諦めた。
そうして二人は思い出を抱えたままゲームセンターを後にし、帰路に着いたのだった。
♦︎
「はぁ……」
夜。台所で料理をしている最中、彼女――富士宮桜は深いため息をついた。その原因は脳裏に焼きついて仕方がないあの光景にある。
いつものように放課後、王牙を物陰から観察していたら、転校生である夜美が彼とデートしている場面を見てしまったのだ。しかも王牙の方から手を引っ張って。
桐絵ヒカリのライブに二人で行っていたことも、なんなら四月から二人が同棲していることも桜は知っている。四月ごろ、行き倒れていた少女を救ったと王牙から聞かされたことがあるが、その少女こそが夜美なのだろう。
「私、どうしちゃったんだろう……」
出雲夜美。彼女のことを思うだけで胸が苦しくなる。
初めて見た時、桜は彼女のその美しさに圧倒されてしまった。そして同時に暗く醜い気持ちを彼女に抱いた。
「……ずるいよ、あんなの……」
顔つきや体は神から与えられたかの如く。整いすぎた顔。艶やかすぎて光っているかのように見える幻想的な桃髪。そして抜群のプロポーションに、制服の上からでもはっきりわかるほど大きく、されども決して下品に見えない胸。身長もまた低すぎず高すぎない日本人女性の理想的な160センチ台となっている。彼女はおおよそ女性が求める全ての美を有していた。
対して自分はどうだろうか。顔も身長も高校生というには幼すぎる。身長140センチということで中学生、下手すれば小学生に見間違えられることも多々あった。唯一成長しているのは胸のみ。だけどそれは身長と比較したら大きく見えるだけであり、彼女のものと比べれば下品に見えてしかたがなかった。
家柄もそうだ。彼女は明らかに上流階級出身。対して自分は平凡な家庭出身。どちらが王牙にふさわしいかといえば、圧倒的に前者だった。少なくとも桜はそう思っていた。
「はぁ……私、嫉妬しているのかな?」
それは初めて抱いた感情だった。
夜美の言動や行動を桜は一切不快だと感じたことはなかった。あれくらいはあのクラスでは日常茶飯事なのだ。せいぜい変な子がまた一人増えたというのが彼女の感想だった。
しかし夜美が王牙と触れ合っている時……桜はそこに薄暗い感情を、嫉妬を抱いていた。
形見が王牙と話している時は違った。桜には中学時代での王牙との思い出という誰よりも彼とのつながりを感じられるものがあったから。しかしあの夜美を前にしては不安になってしまう。
「……嫌だなぁ。王牙君がいなくなるのは、絶対に嫌だ」
断言しよう。桜は王牙が好きだ。どんなに心や体が傷つこうとも、信念のためなら何度でも立ち上がってみせる。そんな姿を見ていると、どうしても放って置けなくなるのだ。そして支えたいと思うようになる。
でもこのままだと、いずれ王牙の隣に立って、王牙を守るのは桜ではなく夜美になるだろう。頭もよく、おまけに美しい。実際彼女が来てからは王牙が何かを桜に相談することはなくなっていた。
「嫌だよ……私はもっと、彼の役に立ちたいのに……」
『じゃあ、殺しちゃう?』
ふと、頭の中にそんな声が響いた。
同時に掴んでいたガラス製のコップが手の中で砕け散った。
『邪魔者は消さなくちゃ。憂いは燃やさなくちゃね。あなたにはそれができる。その力があなたにはある』
「邪魔者……燃やす……?」
『うん。恋敵は排除しなきゃ。燃やして、切り刻んで、すり潰して。殺して殺して殺しちゃうの!』
「そう……だね……切り刻まなきゃ……」
なぜだろうか。その不思議な声を聞くたびに、頭がボーッとしてくる。思考がまとまらない。
桜は虚な目をしたまま、声に導かれるように台所から包丁を取り出し、その刃の表面を指でなぞる。
『彼、入院した時にすごい怪我をしていたよね。それこそ傷が永遠に残るくらいに。あの夜美って子はその傷の原因を知っているのかな? だったらあれはあなたの思い出と同じ、二人だけの記憶だね』
「二人だけの……思い出……」
その言葉を聞いた途端、激しい焦燥感が胸を燻った。
桜だけの特権。桜だけのもの。それが失われつつある気がして、彼女は朦朧とした意識の中で怒りだけは確かに燃え上がらせていた。
『二人だけの思い出。羨ましいよね? もっと増やしたいと思うよね?』
「思い出……王牙君との……傷の思い出……」
包丁を握る手が強くなる。それに呼応するように銀色の刃がギラギラと殺意の輝きを見せ始める。
「ふふっ……これで王牙君の体に私のお名前を書いたりしたら……」
興奮。それを考えるだけで下半身が熱くなってきた。
その時、偶然近くに置いてあった皿の一つが桜の腕に当たり、地面に落ちた。
「……あれ? 私、今何を考えて……」
食器の割れる音が部屋に響き、彼女は我に返った。
危険だからと包丁を置こうとするが、そこで台所にある物が置かれていることに気づく。
「……あれ? この髪飾り、たしか無くしたはずのうちの家宝じゃ……」
それは、桜の花弁を模した美しさ髪飾りだった。
彼女はこれを祖母が大切に神棚に置いて、御神体として祀っていたことを思い出す。しかし幼少期の彼女はそれに興味を持ってしまい、不用意に持ち出してしまったのだ。そこで記憶は一旦途切れてしまっている。
気がついた時には神棚には髪飾りがなくなっていて、桜は必死に祖母へ謝った。しかし彼女は「御神体はあるべき場所に宿った」と言って、優しく撫でて許してくれたのだ。
その消えたはずの髪飾りが、なんでこの場所に……。
『力が欲しくなったらおいで、私のところに。贈り物をしてあげる。だから早くおいで、私のところに』
妖艶なその声はそれだけ言うと、消えていった。
桜はその後、髪飾りを大事に部屋の神棚に飾った後、しっかりと料理を完成させ、一日のスケジュールを全て終えて眠りにつこうとした。
しかしその声が発した言葉だけは、どこまでも頭にしがみついて離れることはなかった。