ファンタズム・ファンタジア   作:日差丸

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第48話 追憶回廊:桜吹雪

 桜吹雪が舞い踊る。

 暖かな日の光のシャワーは、まるでこの日を祝福しているかのようだった。

 周囲の楽しげな笑い声。

 未来への期待を胸に、彼女は新品のセーラー服をたなびかせ、一歩を踏み出す。

 ここが、今日から通う学校。そして中学生として最後の年を迎える場所だ。

 

 富士宮桜がこの香霊町にやってきたのは、ただの両親の都合だった。父の転勤が決まったことで、自動的に桜もこの町に引っ越すことになったのである。

 昔からの友達との別れは寂しい。けれど桜は悲観してはいなかった。悲しいのは別として、ここにもきっと新たな出会いがあるはずだから。

 

「今年からこの学校に通うことになった富士宮桜です。皆さんよろしくお願いします!」

 

 そう言って丁寧にお辞儀する。途端にクラス中から明るい声が響いてきた。男子も女子も、みんなが優しい目で自分を歓迎してくれている。それを見ていると自分の心も暖かくなってきて、この引っ越しも悪いものではないと思うことができた。

 

(……あれ?)

 

 だからこそ、教室の一番後ろで窓際の席。そこに座る少年がことさら目に入った。

 その席は、その周りだけが突き刺すような鋭い雰囲気に包まれている。まるであの場所だけ教室から隔離されているようだった。

 その席に座っていたのは、炎のように逆立った青と赤の髪を持った少年。彼はシャツと学ランを半裸の上に羽織るという独特の服装をしている。

 しかし桜が気になったのはその目だ。

 彼は他のクラスメイトとは違って、微塵もこちらに興味を抱いていないようだった。彼はずっと窓の外の景色を眺めていた。しかし、一瞬だけ目が合った時、桜は思わず膝から崩れ落ちそうになった。

 その目は、人間の物ではなかった。それは刃物のように鋭く、突き刺すような眼光が放たれている。しかし桜はそれ以上に、その目に種としての本能的な恐怖を感じてしまった。そう、まるで人智を超えた怪物に睨まれたような恐怖を……。

 しかしそれは彼が視線を外してくれたことで助かった。桜は深呼吸を数回して気持ちを落ち着かせ、改めて彼の方を見る。

 

(あの人は、なんなんだろう……)

 

 その疑問ばかりが募っていく。

 結局、それは解消されることはなく、放課後の時間になるまで桜の頭を占めるのだった。

 

 ♦︎

 

 ようやく今日最後の授業が終わる。チャイムが鳴ると同時に、桜は溜まりきった疲労を吐き出すようにため息をついた。

 授業が終わっても、桜がすぐに家に帰ることはない。彼女の下には多くのクラスメイトたちが殺到していた。愛くるしい容姿と性格。桜の生来の魅力がさっそく伝わり、彼女はあっという間にクラスの人気者になっていたのだ。

 

「桜ちゃーん! 今日一緒に帰ろー!」

「うん、いいよ。私もみんなともっとお話したかったし」

 

 今日仲良くなった女子の一人がそう提案してくる。それを断る理由はなかった。桜は二つ返事でそれを了承した。

 荷物を整え、桜は複数のクラスメイトたちに囲まれて廊下を出る。しかし次の瞬間、怒号がその空間に響き渡った。

 

「お前! 窓ガラスの件、先生にチクったなぁ!?」

 

 慌ててその声の発生源に目を向ける。するとそこにはおそらく別クラスであろう男子生徒と……クラスで強烈に目立っていた彼がいた。

 

「あ? 誰だテメェ?」

 

 彼は本当にその男子生徒を覚えていないようだった。まるで眼中にないとでも言うように気怠げな目線を宙に向けている。

 しかしその目線を浴びなかったのは幸運であり、不幸でもあった。なぜならそれが男子生徒を勢いづかせてしまったのだから。

 

「空気読めよ! 見て見ぬふりしてくれてもよかったじゃないか! 俺たちがお前に何をしたって言うんだ!?」

「……あー、昨日転んだ拍子に教科書窓にぶつけてたやつか。無事だったか?」

「バ、バカにしてるのか!? 俺だってわざとやったわけじゃないのに! おかげで俺はいい恥晒しだ!」

「知らねえよ。俺は先公に聞かれた。だから見たことを正直に話した。それだけのことだ」

「だからそれを空気読めてないって言ってんだよ!」

 

 男子生徒はドンドンヒートアップしていく。対する彼はまるで子犬の遠吠えでも聞いているかのように見事にスルーしていた。まるで話を聞いていない。

 しかしその声は普通の生徒たちには効果があったようで、彼らは全員が固唾を飲んでその場から動けずにいた。

 

「ね、ねえ……あの人ってクラスメイトだよね? どういう人なの?」

「……いい? この学校には関わっちゃいけない人が一人いるわ。それがあそこにいる我道王牙君。入学当時からものすごい不良で、不良たちとの喧嘩は日常茶飯事。ヤクザとも関係があって、人を殺したこともあるって噂があるほどヤバい人だよ」

「そんな……」

 

 まるで不良漫画に出てくる悪者ヤンキーそのものではないか。そんな人が実在するなんて……。

 桜は初めて見るその別世界の住人を、恐る恐る眺め続ける。

 

「……お前、ムカつくんだよ! ちょっとばっかしケンカが強いからって調子に乗りやがって! お前ら、出てこい!」

 

 その合図とともに廊下の階段に隠れていた生徒たちがゾロゾロと姿を現した。数は合計で10人。中にはガラの悪そうな目つきをしている人や、金属製のバットやモップを持っている人たちまでいる。明らかに普通の生徒たちではなかった。

 

「へ、へへっ! 俺はそれなりに顔が効いてな! 友人関係で助けを呼んだらすぐに来てくれたぜ! どうだ、怖いだろう!?」

「……お前は目の前の蟻が仲間を呼んだら、ビビって動けなくなるのか?」

「な、頭がおかしいのか!? 舐めやがってぇぇ!!」

 

 そしてとうとう堪忍袋の尾が切れたようだ。最初に怒っていた男子生徒が拳を振り回した。それは王牙に当たる――前に、首謀者の彼は襟首を掴まれ、身動きが取れなくなる。

 

「ったく、面倒ごと起こすなよ。そんな風に拳なんか振り回されたら……火がついちまうじゃねえか!」

「ごっ……! げっ……! ひっ……!?」

 

 それは、圧巻の光景だった。

 仮にも同年代の男子生徒が、片手で足が地面につかなくなるほど宙に持ち上げられているのだ。彼は自由になろうと足をジタバタしてもがく。しかし桜にはそれが蜘蛛の巣にかかった虫が必死に動き回っているようにしか見えなかった。

 王牙は片手で男子生徒を持ち上げ続ける。そして廊下の窓と、外のまっさらな空に目をやり……ゾッとするほど恐ろしくも凶暴な笑みを浮かべる。

 

「えっ……? あっ……」

 

 男子生徒はこの後に起こることを悟ったのだろう。必死に命乞いをしようとした。

 しかしそれを言い切るより前に、彼の体は加速していき。

 

 ――男子生徒の顔面が、思いっきり窓ガラスに叩きつけられた。

 

「きゃああああっ!!」

「お、おい! 2階だぞここ!?」

「救急車だ! 救急車を呼べ!」

 

 男子生徒はそのまま抵抗なく窓の外に消えていった。

 全員、唖然。誰もが絶句していた。

 しかし徐々に冷静さを取り戻すと、悲鳴や怒号があちこちで発生する。

 

「て、テメェ! よくもやりやが……ガハッ!?」

「はーい、お二人さんこちら〜。ゴートゥーヘール!」

 

 そして喧嘩が始まる。

 血飛沫が舞い散る。そしてまた別の生徒が蹴りによって窓の外に叩き落とされた。下の光景など想像もしたくない。

 王牙の喧嘩は一方的だった。いや、あれはもはや喧嘩ではない。蹂躙だ。

 狭い廊下を彼は壁や天井を跳ねるようにあちこち飛び回り、一方的に獲物を狩っていく。一方で狩られる側の彼らはその動きがまるで目で追えていないようだった。

 彼が笑っている。残虐な快楽に酔いしれている。

 そこに教室で見た仏頂面はない。まるで本当の自分を取り戻したかのように活き活きとしており、笑顔で人を殴っていた。

 やがて立っている者が誰もいなくなると、彼は元の仏頂面に戻っていった。そして唾を血まみれで気絶している生徒の一人に吐きつけると、靴についた返り血をその顔面で拭うかのように踏み躙っていた。

 桜はその光景を見て身動きが取れなかった。

 湧き上がるのは恐怖。今すぐこの場から逃げ出したいという感情。しかし足は歩くことを忘れたかのようなガクガクと震えており、動いてくれない。

 そこで、王牙と一瞬目が合った。

 次の瞬間、心臓を鷲掴みにされたような感覚が走った。

 息が……できない……。心臓が本当に止まってしまったかのようだ。

 しかしそれも一瞬の出来事。彼はすぐに目線を外すと、気怠げにどこかへ立ち去っていってしまう。

 そして王牙が完全に視界から姿を消したことで、桜はその場に膝から崩れ落ちた。

 ――どうやら、この転校生活は一筋縄ではいかないらしい。

 彼女はこの先の一年を考え、暗い不安に包まれるのだった。

 

 ♦︎

 

 転校してから一ヶ月が経った。初日で凄まじいものを見てしまったが、それ以降は平穏な日々が続いていた。

 桜はチラッと視線を斜め後ろにやる。そこには変わらず我道王牙の姿があった。

 あの喧嘩は骨折による重傷者を大量に出すという結果となった。幸い死者はいない。しかし日常生活に支障が出る可能性のある人が複数人いたらしい。

 そこまでやっても、我道王牙に退学処分は下されなかった。その理由は単純だ。ここが公立の中学校だから。法律では高校生になるまでの義務教育が子どもに課せられている。ゆえに教育の機会を奪うこととなる退学処分は、国公立の小学校や中学校には存在しないのだ。

 

「ふぅ……」

 

 放課後。まだ夕焼けには早い空の下、通学路を桜は歩いていく。

 引っ越して一ヶ月経つが、この町はいいところだ。なんだか故郷を思い出せる。

 桜の生まれは静岡県にある富士山の麓の町だった。山々に囲まれ、緑が生い茂っており、心地よい自然のさざめきが心を和ませる。そんな町だ。

 この香霊町は東京に位置するものの、万湖山と夢幻山の二大巨山に挟まれており、外界とは少し遮断されている。そのせいで全体の町並みは古く、山の近くには田舎でしか見れないような田んぼやあぜ道が広がっているところもある。桜はそこに故郷との結びつきを感じ、この町を気に入るようになっていた。

 だからこそ不満はないのだが……やはり気がかりなのは彼のことだ。

 桜はこの一ヶ月で出来上がったコミュニティから彼のついての情報を集めた。だから彼についてはある程度の知識を得ていた。

 曰く、少年院上がりの凶暴な不良。そして信念として、嘘を絶対につかないのだという。ゆえに自分の発言を偽るようなことをせず、そのたびに人間関係のトラブルを巻き起こし続けているらしい。そのため学校中から恐れられ、遠ざけられていた。

 はっきり言って、桜には王牙が理解できなかった。

 人は嘘をつく生き物だ。それは根が素直な桜であっても変わらない。おそらくこの世で嘘をついたことがない人間などいないだろう。彼らは自らの保身のため、また利益のために嘘を使い、己の身を守る。それは生物としては飛び抜けた知能と言語を操る力を持つ人間の特権のようなものだ。それを捨て去るなど、原始人以下に成り下がるに等しい。彼はそんな馬鹿げたことを大真面目にやっているのだ。人間に彼の思考が理解できるはずがない。

 桜の人生の中に彼のような人間は存在しなかった。だから桜は彼を理解できない。だから知りたいと気になっている。

 しかしそれは危険なことだ。もし彼が本当に誰彼構わず牙を剥くような人物なら、話しかけた瞬間に襲われてしまうかもしれない。それに周りのクラスメイトの目もある。だから彼女は王牙を遠目で眺めるのみで、接触することはしなかった。

 今日もそんなことの繰り返しで、ため息をついていると……ふと、前方に子どもが倒れているのが見える。

 それは小学生低学年くらいの小さな少女だった。彼女の目は涙が流れた跡があり、赤く腫れている。どう見てもただ事ではないようだった。

 桜は彼女を助けるために、できる限り穏和な笑みを浮かべて彼女に声をかけた。

 

「どうしたのかな? 何かあったの?」

「ひっぐっ……! わたしのおサイフ……とられちゃったぁ……!」

「とられた……? 盗まれたってこと?」

「ゔん……っ!」

 

 少女はその時の状況を思い出したのか、再び大粒の涙を流し始めた。桜は事情を聞き出そうと彼女を優しい手つきで撫でて宥める。

 

「お、おっきいおにいさんたちが……わたしのサイフほめてくれて……! それですこしかしてあげたらもっていかれちゃった……!」

「……酷いことするなぁ。こんな小さな子からカツアゲだなんて……」

「わたし、ママのおくすりかわなきゃなのに……!」

 

 よく見ると少女の片手にはクチャクチャになった処方箋が握られていた。あれに薬のことが書かれているのだろう。そのシワの具合から少女がどれだけ悲しんでいるかが伝わってくる。

 しかし桜にできることはあまりない。桜は運動はできる方だと自負しているが、さすがに自分よりも大きな男たちと喧嘩できるとは考えていなかった。なので少女を交番に連れて行こうと、彼女の手を握ろうとする。

 

 

「――薬の金が盗られたのか?」

 

 その時、彼女たちの背後からゾッとするほど低い声が聞こえてきた。

 振り返ると、そこには例の不良の王牙が立っていたのだ。彼は見るからに不機嫌そうな顔つきをしていた。その鋭い目を見て少女が思わず小さな悲鳴をあげる。

 

「え、えっと……王牙君だよね? この子に何か用が?」

「……母親の薬代、盗られたのかって聞いてるだけだ」

「……だったら?」

 

 桜は少女を隠すように彼と正面から向き合う。

 王牙はしばらくジッと少女を見つめていた。その瞳はまるで何もかもを見通しているかのように異質に見えた。彼は思想はともかく、体は紛れもない人間のはずだったが、唯一その目だけは異質な気配を感じる。

 しばらくの沈黙の後、彼は背を向けて口を開いた。

 

「そのバカどもの場所を言え」

「へ……?」

 

 予想外の言葉に少女も桜も目を皿のように丸くした。彼の人相や評判的にも、人助けをするような性格だとは思えなかったからだ。

 しかし少女は違ったらしい。彼女は藁にもすがるような目で王牙を見上げた。

 

「た、たすけてくれるの……?」

「嘘はついていないようだからな。それにガキを騙して金を奪い取るだなんて許されていいわけがねえ。ぜってぇぶっ潰してやる」

 

 その目には凶暴な炎が燃え盛っていた。桜はこの目を知っている。彼が敵を蹂躙した時のあの目だ。

 桜は今後の展開を予想してしまい、せめて傷が少なくて済むようにと心の中で手を合わせた。

 

 

「なんだテメェ? なに睨みつけ……ぶぼっ!?」

「テンメェ! いきなりなに……ごがっ!?」

「ひ、ひぃぃぃ! や、やめ……ぎゃああっ!!」

 

 喧嘩は一瞬で終わった。

 相手は高校生の三人組だったが、彼にはダンゴムシとゾウリムシ程度の違いでしかなかったようだ。

 一人は腹パンを受けて血を流しながら嘔吐。もう一人は住宅街の塀に穴が空くほど強く顔面を叩きつけられ、最後の一人はドブに頭を突っ込まれた。

 それは喧嘩などではなく、やっぱり蹂躙だった。あまりの人外っぷりに少女はもちろん、事前にそれを知っていた桜ですら本能で恐れ戦いていた。

 王牙は不愉快そうに気絶した不良のポケットなどを漁る。すると彼らが持つにしては可愛らしい絵柄の財布が出てくる。

 

「これか?」

「うん!」

 

 王牙は無造作にそれを少女へ投げた。彼女は嬉しそうにそれを受け取ったが、中身を見た途端再びその瞳に大粒の涙を溜め始めた。これには二人も困惑し、そのわけを尋ねようとする。

 

「ど、どうしたの? お財布違ったのかな?」

「ちがう……」

「なんだと? じゃあこのファンシー熊さんの財布はこいつらのだってのか!? 似合わなすぎんだろ!」

「そういういみじゃない! おかね……たりないの!」

 

 少女は財布を開いて中を見せつけた。そこには数百円の小銭しか入っていない。薬代にしては少なすぎる金額だ。

 

「もともと何円あったの?」

「いちまんえん……おさつのなかのおじさんのかおをながめてたらこえかけられたの」

「道理で狙われるわけだ」

 

 王牙は苛立ちとともに近くの不良の腹を踏みつけた。するとよだれを吐き出しながら一人が意識を取り戻す。

 その男のえりを強引に掴み、彼は額を押し当てて睨みつける。

 

「おいコラ。このガキの万札どこやった? あ? まさかもう全部使ったなんて言うんじゃねえよなぁ? ああん?」

「さ、さっきうちの学校のOBにやっちまったよ!」

「OB?」

「そ、そうだ! あの人ヤクザに入ってるんだ! 俺たち逆らえなくて、いつも金欠で……! だから頼むよ見逃しぎぎゃっ!?」

「強者に媚び弱者を搾取する。同情の余地がないクソダセェやつらだな」

 

 あまりの腹立たしさに王牙は不良の顔面を踏みつけた。そして彼は再び意識を失う。

 王牙はその後三人のポケットから財布を取り出したが、入っているのは二千円弱。一万円には到底届かない。

 

「クソッタレ! こいつら一人千円も持ってないのかよ! 近所のクソガキだってまだもうちょいマシだぞ!」

「くすり……かえないの……?」

「……ちょっと待ってろ……」

 

 少女は嗚咽を出し始めており、泣き始める寸前だった。そんな彼女を宥め、王牙は自身の財布を取り出した。そしてその中身をひっくり返す。

 

「ちっ……五千円ぽっちか。小銭合わせてもまだ足りねえな」

「……何を……?」

「おいクソガキ。しかたねえから一緒に薬局行くぞ。そんで俺が頭下げるなりバイトするなりして足りない分を補填してやる。だからうるさくするな」

「い、いいの……?」

「ガキが細けえとこ気にしてんじゃねえよ。ガキのうちはもらえるもんはもらっときゃいいんだよ。少なくとも、あとで後悔するよりかはずっといい」

 

 その言葉には重い実感のようなものが含まれているように感じた。そのまま薬局へ行こうとする二人を見て、桜は慌てて彼らを引き止める。

 

「ちょっと待って! よかったこれ使ってよ!」

 

 そうして自らの財布から五千円を取り出し、王牙に差し出した。彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして目を見開く。

 

「……お前、いいのか?」

「大丈夫だよ。たった五千円くらい、高校生にとっては端金だし。私も特に困ってないし、いいよ」

 

 不良の金を合わせれば三千円で足りたのに、五千円を出したのは桜の意地だ。ここで彼と同額を出さなかったら、二度と彼と対等に話し合うことができないと思ったから。

 

「……まあいい。今はこのガキを助けるのが最優先だ。ありがたく使わせてもらうぞ」

 

 王牙はしばらく桜の目をじっと見つめていた。まるで理解不能な動物を見るような目だった。

 失礼な。そっちこそ理解不能なのに。桜は少し不満に思った。どうやら何か裏があるのではないかと疑われているらしい。

 しかし最終的に、彼が信用してお金を受け取ってくれて、彼女は満面の笑みを浮かべた。

 

♦︎

 

「おにいさん、おねえさん、ありがとう!」

 

 手に袋を抱えながら、満面の笑みを浮かべて少女が走り去っていく。そこには先ほどまでの涙は微塵もない。

 

「無事、終わったな」

「うん、そうだね」

 

 結論から言えば少女は薬を買うことができた。あれは彼女の母親用に調合された特別なものなのだとか。だから一万円も必要だったわけだ。余った小銭を王牙はお小遣い代わりにそのままあげようとしていた。桜も特にそれに異論はなかった。

 そうして人助けを終えて、二人は沈黙を保ったまま住宅街を歩く。

 

「……」

「……」

 

 もうすぐ夕方も終わりを迎える頃だが、それにしてはやけに人気が少なかった。そのせいで二人の沈黙はことさらに強調されていた。

 

「……今日は助かった」

 

 いきなり王牙はそう言った。顔は彼女に向けられていない。面と向かって言うのが恥ずかしかったのだろう。しかしそこで口だけでも気持ちを偽らないのは噂通り、彼らしいと思った。

 

「意外だったよ。王牙君ってああいう純粋な人助けをするんだね」

「ふん。俺はただガキから金を巻き上げるやつらが気に入らなかっただけだ」

 

 それもまた本音なのだろう。彼があの不良たちに向ける目線には怒りが含まれていたから。

 だが、単に怒りだけならその後に少女に金を渡す理由がない。これは推測なのだが、王牙の中には怒りの他にも純粋に少女を助けたいという気持ちがあったのではないか。

 聞くのは簡単だ。彼は嘘をつかないから。しかし聞けば彼の機嫌を損ねてしまうことを察して、桜はその質問をすることはなかった。

 

「……ねえ、聞いてもいいかな? どうして君は嘘を絶対につかないの?」

「……」

 

 代わりに桜は、最も知りたいことを聞いてみた。

 王牙は黙ったままだった。彼は相変わらず仏頂面を浮かべており、その心の奥底は窺い知れない。不快に思っているのか、それとも悩んでいるのか。あるいは聞き流したのか。

 数十秒の時間が経つ。夕日が沈みかける中、足音だけが響いていく。

 桜はしばらくしても返答がないことがわかり、慌てて先ほどの質問を撤回しようとした。

 

「ご、ごめんねっ! 興味本位で話したくなさそうなこと聞いちゃってっ! 今のは忘れて!」

「……妹がいた」

「へっ?」

 

 だが、その言葉に被せるように、ポツリと王牙が口を開いた。

 

「俺に似合わず、優しい子だった。だが、俺の嘘のせいであいつは死んだ」

「っ……!」

「だから俺は誓った。もう二度と嘘はつかないと」

「……辛くはないの?」

 

 嘘をつけないということは、自分の気持ちから逃れられないということだ。苦しい時、悲しい時、人は口だけでも誤魔化しを言うことによってその感情から逃れようとする。そうやって自分の感情を整理して、今を生きていくのだ。

 だが彼にはそれができない。自分の心を誤魔化すことができないのだから。

 ゆえに人は彼を異質なものとして見る。そしてそれが、今の排斥につながってしまっている。

 

「あの時裏切られたあいつの気持ちを思えば、辛いなんて思うわけがない。こいつは罰だ。俺が一生背負っていく業だ。俺は不器用だ。俺が死んだあいつにしてやれるのは、嘘をつく必要がないほど強くなった俺の姿を示し続けることだけだ」

 

 きっと、この先彼が歩む道はロクなものではないだろう。

 言葉は刃のようなものだ。時として人を助け、時として人を害する。だからみんな嘘という名の鞘をつける。そうやって社会は回っている。

 しかし、嘘をつくことのできない彼は人間社会では生きていくことはできない。

 

「……ちっ、なんで俺はこんなことを今日話したばっかのやつに語ってんだろうな」

「うーん、私とのおしゃべりが楽しかったからとか?」

「けっ、寝言は寝て言え」

「あーん、酷いなもう……。もうちょっとオブラートに言葉を包むことを覚えようよ」

「俺は言葉は偽らないと決めてるんでな」

 

 あるいは、それは桜から放たれる全てを包み込むような暖かさが、彼の氷の心を溶かしたのかもしれない。

 もはや二人の間に静寂はなかった。桜がじゃれつき、王牙が毒舌を吐く。しかしそれは二人の心に確かな楽しさを感じさせていた。

 そうやって歩いていると、突如桜が何かを思いついたとでも言うように手のひらを拳で叩く。そしてなぜか自己紹介を始めた。

 

「私、富士宮桜」

「あん?」

「だから、お名前。たぶんあなたって私の自己紹介を聞き流してたと思うから」

「……」

 

 図星だったか。これまで一度も名前で呼ばれていないから、もしかしてと思っていたが。

 彼は深いため息をつくと、仕方なく口を開いた。

 

「我道王牙だ。ま、お前はとっくに知ってると思うがな」

「うん。じゃあこれからよろしくね、王牙君!」

「ちっ、嫌だね。誰がよろしくしてやるか」

 

 軽口を叩きながら、二人は帰宅路をゆっくり、ゆっくりと歩いていく。まるで少しでもこの時間が長続きしてほしいかのように。

 今日の夕焼けは、なぜだかいつも以上に輝かしいように感じた。

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