「き、兄弟ユリウス……。もう、引き上げましょう。これ以上は危険です」
恐怖に震える声は、雨音にかき消されそうなほど弱い。
視界を埋め尽くすのは、無惨に踏み荒らされた黄金色の麦畑と、その泥濘の中に沈んだ農民の遺骸。
鉄錆のような血の臭いが、雨の匂いと混じり合って鼻孔を深く刺してくる。
ここは聖母魔術師修道会が管轄する荘園、それも帝国東部の外縁に位置する開拓地であった。
すぐ東には魔獣の森と呼ばれる人外の領域が広がり、人間社会と混沌とが常にせめぎ合う。
小管区長のユリウス・フォン・シュタットブルグは、雨に濡れ額に張り付いた金髪を無造作にかき上げ、冷静に部下の修道士を一瞥した。
「落ち着け、レオン。報告によれば、森から出現したのは中型の猪型魔獣が一頭だけだ。我々二人の戦力で、決して対処できない相手じゃない」
「ですが、見てください。既に五人が食われています。これ以上、我々だけで踏みとどまるのは無謀です。一度城へ戻り、管区本部の討伐隊を待つべきです」
同行していた部下のレオンは、顔面を死人のように蒼白にさせ、肩を震わせた。
仕立ての良い純白のマントは泥に汚れ、雨に濡れて張り付いている。
「管区本部からの討伐隊がこの荘園に到着するのに、早くても三日はかかる。その間に、ここは全滅するぞ」
ユリウスの声には、冷徹な響きがあった。
それは己の恐怖を殺しているというよりは、ただ事実を述べているに過ぎない。
「だからといって、我々二人だけでどうにかできる問題でもないでしょう! 貴方だって小管区の責任者だ。こんな辺境の泥にまみれて獣と殺し合うなんて、到底割に合わないでしょう?」
「そんなことはないさ。我々修道会に属する魔術師の本分は、この辺境を人外の脅威から守ることでもある」
ユリウスは淡々と語りながらも、周囲の気配を鋭く探っていた。
大気や大地に遍在する
森から溢れ出た有害な瘴気が、この荘園を守っていた結界の要石を腐食させてしまったのだろう。
「伯爵の三男である君からすれば、泥臭い辺境の任務は我慢ならないかもしれないな。だがな、レオン。修道士にとって、魔獣を狩り、民草を守護することは大いなる名誉だ」
「私は好きでこんな辺境に来たわけじゃありません。継ぐべき領地や財産がないから、厄介払いでこんな辺境に……」
辺境は、常に厳しい。
帝国という封建国家において、辺境の防衛は常に在地領主や共同体の自助努力に委ねられている。
故に、この地の住人は、絶えず人外の脅威と隣り合わせの生活を強いられていた。
収穫目前の麦畑が蹂躙され、人が獣の餌食になるのは、珍しいことではない。
この開拓地が聖母魔術師修道会の管轄下に置かれているのも、修道会が持つ魔術の力によってのみ、かろうじて人間の生存圏が維持されているという、厳しく不安定な現実があったからだ。
「まあ、何にせよ我々は修道士だ。会則に従い義務は果たさないとな」
「そんな建前は結構です。こんな辺境で私は死にたくない」
「では建前ではなく本音で話そう。彼らが死に絶え税が納められなくなれば、私も責任問題というわけだ」
ユリウスがおどけて言ったその時、重苦しい大気がビリリと震えた。
「――来るぞ。構えろ」
森の縁から、黒い塊が弾丸のような速度で飛び出す。
泥飛沫を上げて突進してくるのは、通常の猪の三倍、いや、小さな小屋ほどもある巨体だった。
背中からは異常発達した骨が
濃密な魔素を吸い込み、生態系から完全に逸脱して凶暴化した存在。
それこそが”魔獣”であった。
「ひっ、あ、あああ……!」
「落ち着け、レオン。右へ回れ。私が正面から障壁で受け止める。その隙に、君の炎の魔術を叩き込め」
「む、無理だ......。聞いていた話と違うぞ。中型魔獣なんかじゃない。大型、それも……、殺される!」
レオンは、完全に恐怖に呑まれていた。
悲鳴を上げると、彼は繋いであった馬にすがりつくようにして飛び乗った。
「待て、レオン。今ここを離れれば、荘園と民がどうなるかわかっているのか」
「農民が何だというのです。私はこんなところで死にたくない!」
泥に足を取られながらも、レオンは馬を返して無我夢中で安全な後方へと逃げ出していった。
雨の中に遠ざかる馬のいななきが、ひどく虚しく響く。
「……愚か者が。援軍など待っていれば、全てが手遅れになるというのに」
ユリウスは溜息を一つ吐くと、雨に濡れたマントを払い、静かに両手を構える。
逃げるという選択肢は、彼の計算にはなかった。
彼がここで背を向ければ、生き残っている民たちは確実に蹂躙される。
彼にとって、責務の放棄は己の魔術師としての存在意義を否定することに他ならなかった。
(想定の範囲外だが……、仕方ない)
彼は魔術師としての確かな力量を持っていた。
冷徹な思考が、魔素の流れを読み取り、瞬時に最適な術式を構築していく。
『土壁』
短く鋭い詠唱と共に、魔獣の突進経路上に分厚い土壁が隆起した。
凄まじい轟音。
魔獣が土壁に激突し、粉塵と泥が爆発したように舞い上がる。
だが、魔獣は止まらない。
硬化した外皮は岩ほどの土塊を粉砕し、速度を緩めることなくユリウスへと迫る。
「ならば、『風刃』」
ユリウスは腕を一閃させ、真空の刃を何十発も立て続けに放った。
計算された手順で魔獣を追い詰めていく。
目に見えない刃が魔獣の巨体を切り裂き、赤黒い血が噴き出す。
しかし、この個体は異常だった。
皮膚が鋼鉄のように硬く、放った風刃は浅い傷しか刻めない。
何より、魔獣特有の異常再生能力が、傷口から白い蒸気を上げながら瞬く間に肉を塞いでいくのだ。
(魔素の集中による極端な凶暴化と自己治癒力。長期戦は不利だ。一撃で脳か心臓を焼き尽くす必要がある)
ユリウスは泥濘を滑るように後退しながら、次の術式の構築を急いだ。
雨が彼の体温を奪い、消耗した魔力の代償として激しい疲労感が全身を襲う。
「グオオオオオッ!」
その時、魔獣が苛立ちに満ちた咆哮を上げ、突然方向を転換した。
狙いは、逃げた部下でも、魔獣を攻撃するユリウスでもなかった。
魔獣の赤い瞳が見据えた先には、半壊した麦打ち小屋があった。
そして、その小屋の影には、泥にまみれて震え合い、逃げ遅れた母子が身を寄せ合っていたのだ。
「ああっ……。いやああっ!!」
「おかあ、さん……!!」
死を悟った絶望の悲鳴。
魔獣が、無慈悲な巨体を母子へと向けて猛然と加速する。
母は自らの背を魔獣へと向け、子を抱え込む。
ユリウス自身と母子との距離。
魔獣の速度。
術式の展開時間。
『土壁』の展開では、絶対に間に合わない。
だが、動かずにはいられなかった。
『疾走』
ユリウスは、己の身体を魔術で加速させる。
(母子か、俺には……)
彼の身体は半ば反射的に動いていた。
なぜ人は他人のために命を投げ出すのか。
疑問の答えを形にしている暇はなかった。
だが、両親を知らずに修道士となったユリウスには、目の前の母が子を庇う姿が尊く見えたのだ。
それに彼は、魔術師としての生き方しか知らなかった。
「間に合ってくれ!!」
ユリウスは、自らの肉体を盾として、魔獣と母子の間に滑り込ませる。
「『障壁』……!」
展開しかけた魔術は、圧倒的な質量の前に薄氷のように砕け散った。
激痛。
爆発的な衝撃が全身を貫き、魔獣の巨大で鋭利な牙が、ユリウスの脇腹を深々と抉り取った。
肉が裂け、骨が砕ける生々しい感触。
彼の身体を、魔素ごとかみ砕かんばかりの破壊力が襲う。
「がはっ……!」
鮮血が、雨の中に凄惨な赤い弧を描いた。
ユリウスは血の海となった泥の上に倒れ伏し、激しい痛みに目の前が白く点滅した。
内臓にまで達している致命傷だ。
口からはとめどなく血が溢れ出し、冷たい雨粒が傷口を容赦なく叩く。
「し、修道士様……」
「逃げろ……。早く……」
背後で震える母子に声を振り絞りながら、ユリウスは霞む視界の中で魔獣を見上げた。
己を貫いた獣が、とどめを刺そうと巨大な顎を開いている。
生臭い息が顔にかかる。
もはや、回避する力も、再び障壁を張る魔力も残されていない。
だが、ユリウスの瞳に絶望はなかった。
あるのは、氷のように冷たく、そして炎のように熱い、研ぎ澄まされた意志だけだ。
「……捕らえた」
血を吐きながらユリウスは震える腕を上げ、自らの腕を魔獣の眼窩の奥深くへと突き刺す。
獣が驚愕と痛みに身を捩るより早く、ユリウスは残された生命力の全てを魔素に変換し、指の先へと極限まで凝縮させた。
「『
最大出力の雷撃。
落雷のような轟音と、雨雲を切り裂く青白い閃光が、辺境の黄昏を真昼のように照らし出した。
「ギギャアアアアアッ!」
脳を直接焼かれた魔獣は、断末魔の叫びと共に内部から炭化し、巨体を痙攣させながら崩れ落ちた。
ドンという地響きと共に、魔獣の巨体が泥濘に沈む。
「はぁ……はぁ……」
その巨体の横で、ユリウスは浅い呼吸を繰り返した。
終わった。
だが、代償はあまりにも大きかった。
脇腹からは脈打つように血が流れ出し、冷たい泥を赤く染めていく。
自身の体温が急速に失われ、指先の感覚が麻痺していくのがわかった。
(やれやれ、ひどい有様だ。これでは、被害報告書を誰が書くというのだ……)
遠くで、生き残った人間たちが自分を呼ぶ悲痛な声が聞こえる。
雨の冷たさも、傷の痛みも、次第に遠のいていく。
低い耳鳴りのような響きだけが残る空間で、彼は抗う術もなく身を任せるしかなかった。
やがて深海に引きずり込まれるような絶対的な虚無が彼を包み込み、痛みも恐怖も、生きていた確かな感触も曖昧になり、輪郭を失う。
そうしてユリウスの意識は、急速に冷たい闇へと沈んでいった。