アメリカ合衆国、ニューヨーク・ウォール街。
世界の金融の中心地である巨大な証券取引所のフロアは、早朝から阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「売りだ! 全部手放せ! マッシブ・ダイナミクス関連の株が紙屑になるぞ!」
「ダメです、買い手が全くつきません! 売り注文が殺到しすぎて、システムの処理が追いついていない!」
「ふざけるなッ! たった一つの秘密プラントが爆発しただけで、時価総額の六割が吹き飛ぶわけがないだろうが! 機関投資家のボットがおかしい、誰かが意図的に市場をショートさせている!」
スーツ姿のトレーダーたちが血走った目でモニターを睨みつけ、受話器に向かって絶叫している。
彼らの目の前で、巨大軍産複合体であるマッシブ・ダイナミクス社の株価を示す赤いグラフが、まるで滝のように垂直に急落していく。その暴落は関連する軍需産業や下請け企業にまで恐ろしい勢いで波及し、市場全体を巻き込んだ巨大なパニック売りを引き起こしていた。
ただの工場爆発ではない。
マッシブ社の内部ネットワークから流出した極秘データが、闇のハッカー集団の手によって、ご丁寧に全世界のネット上へと同時多発的にリークされたのである。
そこには、違法な生体実験の証拠、他国への非合法な政治工作、そして何より『彼らが誇る最新の防衛システムが、たった数十分で完全にハッキングされて自滅した』という、軍事企業としては致命的な失態の映像が克明に記録されていた。
だが、この異常な暴落の真の引き金は、情報漏洩によるパニック心理だけではない。
ウォール街の金融エリートたちの誰も気づいていない
マニラ首都圏、ラ・サグラダ・マノ本社ビル。
最上階の奥に作られた新しいメインコンソールルームには、荘厳な青白い光を放つ三本の巨大なサーバーピラーが鎮座していた。
「……笑えねえよ。たった数時間で、世界最大規模の軍産複合体の時価総額が、七割も吹き飛んでやがる」
胃薬を水で流し込みながら、金庫番のリカルドが震える声で呟いた。
彼の目の前のモニターには、ウォール街の惨状と、自社の隠し口座に流れ込んでくる莫大な空売りの利益がリアルタイムで表示されている。
「いくら秘密工場が一つ潰されて機密が漏れたからって、こんな異常な暴落の仕方はあり得ねえ。……サイエン、お前、金融市場のシステムそのものに一体どんな細工をしやがった」
「細工なんて人聞きの悪い言葉は使わないでよ。俺はただ、少しだけ『予測』と『多数決』をさせただけさ」
特注の白衣を羽織った青年が、三本の巨大サーバーを見上げながら愉快そうに笑う。
その三つのサーバーには、それぞれ異なる古代の賢者の名前が割り当てられており、独立した高度な人工知能として休むことなく稼働し続けている。
「俺が構築した三系統演算システム、名付けて『
「市場の操作だと……?」
「そう。一つ目の頭脳は、純粋な経済学と過去の統計データに基づく『基礎演算』。二つ目は、SNSのビッグデータから人間の恐怖やパニックを読み取る『心理予測』。そして三つ目は、敵対する投資機関の取引ボットに微小な遅延を発生させ、自分たちだけが最速で取引を行う『市場ハック』だ」
青年はタブレットを指先で弾き、MAGIが現在行っている恐ろしい処理の全貌をリカルドに見せつけた。
「この三つの頭脳が多数決で最適解を弾き出し、一秒間に数百万回という人間には不可能な速度で株の売買を繰り返している。マッシブ社の株価が少しでも反発しそうになれば、絶妙なタイミングで偽のネガティブニュースをネットに放流して、再びトレーダーたちの恐怖を煽る」
「……狂ってやがる。銃弾の代わりに、電子のデータと人間のパニックを使って、一つの巨大企業を完全に殴り殺しているってのか」
「銃で撃ち合うなんて、野蛮で非効率な旧時代のやり方だよ。一流の企業戦争ってのは、相手の財布と心臓を同時に、しかも合法的に握り潰すものさ」
青年の冷たい笑い声が、サーバーの駆動音に混じって響く。
マッシブ・ダイナミクス社は、物理的なプラントを破壊されただけではない。
彼らの存在価値である「技術的優位性」を暴かれ、投資家からの「信用」を奪われ、そして金融市場という「血液」を完全に抜き取られているのだ。
どれほど強力なサイボーグ部隊を擁していようと、給料を払う口座が凍結され、会社そのものの価値が紙屑になってしまえば、軍隊は一歩も動くことができない。
「さて、リカルドさん。マッシブ社の株価が、MAGIの予測した
「……まさか」
リカルドの顔色が変わる。
彼はスラムのギャング上がりとはいえ、今や一国の経済を回す巨大企業のトップである。青年が次に何をさせようとしているのか、直感的に理解してしまった。
「ご名答。俺たちが昨日、彼らのプラントからゴースト・ハックでかすめ取った裏金と、この空売りで儲けた莫大な利益。それを全部使って、彼らの底値の株を買い占めるんだ」
青年は、コンソールの上に置かれた『EXECUTE(実行)』のキーを、まるでオモチャのスイッチでも押すように、極めて無造作な手つきで叩き込んだ。
「ダミーの投資ファンドをいくつも経由して、彼らの兵器開発部門と、主要な子会社の株式を過半数以上取得する。……これにて、買収成立だ」
モニターに、巨大な『ACQUIRED(買収完了)』の緑色の文字が浮かび上がる。
その瞬間、ラ・サグラダ・マノというスラム発祥の企業が、
血を流すこともなく、国際社会から非難を浴びることもなく。ただキーボードを数回叩いただけで、世界の最先端の軍事施設と技術特許が、丸ごと彼らの手中に転がり込んできたのだ。
「……信じられねえ。一発の銃弾も撃たずに、俺たちは世界最強の軍事企業の一つを、そっくりそのまま乗っ取っちまったってのか」
「だから言っただろう? 一番スマートで賢い殺し方は、相手のルールの中で、相手の首を合法的に絞め上げることだって」
椅子の上で足を組み、青年は極上のワインでも味わうかのように、甘いココアをゆっくりと飲み下した。
敵の物理的な拠点を破壊し、ネットワークを内側から乗っ取り、最後に金融市場そのものをハッキングして相手の企業価値を奪い尽くす。
これが、青年が前世のフィクションから持ち込んだ、完全無欠の『企業テロリズム』の完成形であった。
「さあ、これで海の向こうの連中も思い知ったはずだ。俺たちに喧嘩を売るということが、どれほど高くつく絶望的な行為なのかをね」
冷たい照明の下。
世界の金融と技術のルールを根底から破壊し、自分だけの盤上に作り変えていく悪魔の少年は、底知れぬ歓喜に満ちた笑い声をコンソールルームに響かせた。