マニラ首都圏、大統領府の地下に設けられた最高機密の非常事態指令室。
冷たい蛍光灯の光が照らし出すその空間は、まさに死体安置所のような重苦しい沈黙に包まれていた。
数十分前、ホセ・フェルナンド大統領が直々に下した、国軍最精鋭部隊によるサグラダ・メディカル本社ビルの強襲作戦。
だが、その威信をかけた軍事作戦は、敵陣に一発の銃弾を撃ち込むどころか、基地からヘリが飛び立つことすらなく完全に頓挫していた。
「……長官。これは一体、どういうことだ。なぜ我が国の誇る精鋭部隊が、誰一人として基地から動けない?」
大統領が、血の気の引いた顔で国防長官を問い詰める。
長官は脂汗をダラダラと流しながら、震える手でオペレーターから渡された報告書を読み上げた。
「ば、部隊の全員が、突然の重篤な神経障害を発症したとのことです。最新型の
「神経障害だと? そんな馬鹿な話があるか! 百名全員が同時に発症するなど、どう考えても外部からのハッキングか何かだろう!」
「そ、それが……軍のネットワークには、外部からの侵入の痕跡は一切ありません。彼らの義体のOSは、完全に正常な数値を出力しています。ただ、パイロットの『肉体側』が勝手に悲鳴を上げているとしか……」
長官の言い訳が虚しく響き渡る。
大統領は力なく椅子に崩れ落ちた。
外部からの攻撃の痕跡すらない。つまり、軍の兵士たちは自分たちが身に纏っているその最新鋭の機械の身体に、内側から完全に牙を剥かれたということだ。
フィリピン国軍の最大武力は、得体の知れない魔法のような手段によって、一瞬にしてただの肉塊へと成り下がってしまったのである。
――ピロリンッ。
絶望に包まれた指令室に、突如として間の抜けた電子音が鳴り響いた。
大統領と長官が弾かれたように顔を上げると、指令室の正面にある巨大なメインスクリーンがノイズに包まれ、やがて一人の青年の姿が映し出された。
『やあやあ、大統領閣下。深夜の残業、本当にお疲れ様です』
特注の真っ白な白衣を羽織り、最高級の紅茶のカップを片手に持った十代後半の青年。
彼こそが、今やこの国の経済と治安の半分以上を握る巨大企業、ラ・サグラダ・マノの実質的な支配者であるサイエンであった。
「き、貴様……! 我が国の最高機密ネットワークに、どうやって入り込んだ!」
国防長官が怒鳴り声を上げるが、青年はどこまでも爽やかで、心底愉快そうな笑みを浮かべてみせた。
『入り込んだだなんて、人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。俺はただ、大統領府のシステムに設けられた【正規のメンテナンス用ルート】を通って通信を繋いだだけですから』
「メンテナンスルートだと……?」
『ええ。長官はご存知ないかもしれませんが、数ヶ月前に大統領閣下と結んだ包括的治安維持協定。あの時に導入された犯罪予測AI『
青年の言葉に、大統領は顔を覆いたくなった。
治安を劇的に改善するという甘い言葉と引き換えに、彼らは自らの手で、国家の心臓部への鍵を悪魔に手渡してしまっていたのだ。
「……サグラダ・メディカル。君たちの目的は一体何だ。この国を裏から操り、私腹を肥やすだけでは飽き足らず、軍隊まで無力化して……ついに正面から国家を乗っ取る気か?」
大統領が、絞り出すような声で問う。
だが、スクリーン越しの青年は、不思議そうに小首を傾げた。
『乗っ取る? まさか。俺たちは、この美しいフィリピンという国を愛する、極めてクリーンで善良な一企業にすぎませんよ。国家を乗っ取るなんていう野蛮な考えは、毛頭ありません』
「白々しい嘘を吐くのも大概にしろ! 現に、貴様らは軍の精鋭部隊に細工をして、出撃を妨害したではないか!」
『妨害なんてしていませんよ。彼らの身体が、勝手に反乱軍になることを拒否しただけです。……それよりも大統領閣下。俺は今日、あなたたちに
青年が指を鳴らすと、スクリーンの映像が切り替わった。
そこに表示されたのは、巨大な脳のシワのように複雑に絡み合った、途方もない規模の演算処理のネットワーク図であった。
『名付けて、国家判断補助用・巨大演算中枢『
「意思決定を、最適化……?」
大統領が眉をひそめる。
青年は手元のタブレットを操作し、次々と機密書類のデータを画面に展開していった。
『閣下。あなたがここ数ヶ月の間に署名した、数々の素晴らしい政策や法案。貧困層への救済措置、インフラ整備の予算配分、そして軍の再編計画。……それらはすべて、あなたがご自身の優秀な頭脳と、取り巻きの官僚たちの意見を総合して決断したものだと信じていますよね?』
「当然だ。私は国民の負託に応えるため、寝る間も惜しんで最善の道を探り続けてきた」
誇りを持って答える大統領に対し、青年はクスクスと、悪意の底が抜けたような笑い声を漏らした。
『素晴らしい正義感です。でも、残念なお知らせがあります。……あなたの元に届けられた情報、官僚たちが提出したレポート、さらには軍の戦況報告に至るまで。そのすべてのデータは、あなたが目を通すよりずっと前に、俺の『エクステリア』が密かに検閲し、俺たちの都合の良いように
「な……に?」
大統領の目が、極限まで見開かれる。
『例えば、先月の軍の再編計画。あれは軍の近代化を推し進めるという名目でしたが、実際には俺たちの会社のダミー企業に莫大な予算を流し込むためのカムフラージュでした。エクステリアは軍の報告書の数字をわずかに操作し、あなたが絶対にその案にサインするよう、極めて自然に誘導したんです』
「ば、馬鹿な……。そんなことが、できるはずがない。官僚や軍の上層部が、情報の改竄に気づかないわけが……」
『気づきませんよ。彼らもまた、人間ですからね。毎日毎日、膨大な書類の山とデータに囲まれていれば、システムが提示する『一番合理的で完璧に見える解答』に縋りたくなるものです。俺たちはただ、その解答を少しだけ、自分たちのポケットにお金が入る方向へと歪めてあげただけです』
青年の言葉が、重い鉛のように大統領の心臓を叩き潰していく。
自分が信じていた正義の決断。
国を良くするために悩み抜いたはずの政策。
それらがすべて、一介の企業が用意した巨大な計算機によって誘導された、ただの『出来レース』だったというのか。
自分の脳味噌は、知らないうちにこの悪魔の青年に寄生され、彼の描いたシナリオ通りに動くためのただの出力装置に成り下がっていたのだ。
「……貴様。人間の尊厳を、政治家の誇りを、何だと思っている」
『ただの処理の重い変数ですよ、閣下』
青年は、これ以上ないほど冷酷で、透き通るような笑顔を浮かべた。
『俺から見れば、人間の感情や誇りなんてものは、計算を狂わせるだけの厄介なバグでしかありません。だから、俺が代わりに全部計算してあげているんです。あなた方は何も考えず、俺たちが用意した美しいレールの上を走っていればいい。そうすれば、国は豊かになり、犯罪は減り、誰もが幸せになれるんですから』
指令室に、耐え難い絶望の沈黙が落ちる。
暴力で脅されたわけではない。
テロの標的にされたわけでもない。
ただ、システムという名の見えない巨大な蜘蛛の巣に絡め取られ、国家の意思決定プロセスそのものを完全にジャックされたのだ。
これではもう、どれだけ軍の装備を更新しようと、どれだけ法律を書き換えようと、サグラダ・メディカルという企業に逆らうことなど物理的に不可能である。
『さあ、大統領閣下。俺たちの技術の素晴らしさと、自分の立ち位置がよく理解できたでしょう? これからも、フィリピンの輝かしい未来のために、仲良く手を取り合ってやっていきましょうね』
青年が優雅にお辞儀をすると、スクリーンは再びノイズに包まれ、指令室の元の静寂へと戻った。
大統領は、自分の手を見つめて立ち尽くしていた。
その手はもはや、国を動かすための権力者の手ではない。青い手のひらの上で踊らされる、哀れなマリオネットの木彫りの手でしかなかった。
国家の首に巻かれた美しく強靭な鎖は、すでに誰にも外せないほどに硬く、そして深く食い込んでいたのである。
闇堕ちはしばらく更新ないかも