春の陽気が心地よい、四月の昼下がり。
俺が通う理系大学の巨大なキャンパスには、いつものようにどこか垢抜けない、しかし技術への情熱だけは無駄に熱い理系学生たちの活気が満ちていた。
俺は大学の駐輪場に、愛車であるキツめの痛車バイクを停め、ヘルメットを脱いだ。見た目は美少女キャラクターがデカデカとプリントされた痛々しいスポーツバイクだが、中身は常温常圧超伝導モーターと反重力ホバーユニットを積んだ、現代の物理法則をガン無視するオーパーツである。
ただ、この工業大学の駐輪場では、良くも悪くも痛車なんて珍しくない。すれ違う学生たちも「お、今年の覇権アニメのステッカーじゃん」程度の視線を向けてくるだけで、誰もこのバイクがマッハで空を飛べるバケモノだとは夢にも思っていない。完璧なカモフラージュだ。
適当に髪を整え、俺はあくびを噛み殺しながら講義棟へと向かった。
今日の三限目は、大講堂で行われる『ヒューマンインターフェース工学』の講義だ。本来ならマウスやキーボード、タッチパネルといった入力デバイスの歴史と、人間工学に基づいた設計理論を学ぶ、極めて真っ当で退屈な講義である。
俺が講堂の最後列の席に陣取り、購買で買った缶コーヒーのプルタブを開けた時だった。
「えー、皆さんに残念なお知らせがあります。前期のシラバスですが、すべて白紙撤回します。教科書の四章以降も捨てて構いません」
教壇に立った白髪混じりのベテラン教授が、マイク越しにひどく疲れた、しかしどこか興奮した声でそう言い放った。
大講堂に集まった数百人の学生たちが、一斉にざわめく。
「先生、どういうことですか!?」
「教科書高かったんですけど!」
学生たちの不満の声に対し、教授はスクリーンにPCの画面を投影した。そこに映し出されたのは、昨晩、俺のアンドロイドである黒川社長が世界に向けて配信した『黒川式・空間投影型触覚ディスプレイ』のプレゼン映像の切り抜きだった。
「理由はこれです。昨晩の黒川テックの発表により、我々がこれまで数十年かけて研究してきた物理インターフェースの概念は、完全に過去の遺物となりました」
教授はスクリーンを指差し、声を震わせた。
「空中に投影された光に触れ、物理的な反発を得る。しかも頭蓋骨に電極を刺すことなく、脳波と完全に同期する。……こんなものが世に出てしまえば、マウスもキーボードも、液晶モニターすら不要になる。我々が教えている『人間工学に基づいたキーボードの配列』など、もはや石器時代の石斧の削り方を教えるようなものです」
講堂内が、水を打ったように静まり返った。
ここにいるのは全員が未来のエンジニアや研究者の卵だ。昨晩のあの配信を見ていない者などほぼいない。皆、黒川テックが提示した「魔法のような現実」に、完全に打ちのめされていたのだ。
「しかし、我々は立ち止まるわけにはいきません。これより本講義は、黒川テックが公開した映像と、あの『天才科学者(笑)』という人物が匿名掲示板に投下したソースコードの解析、およびその基礎理論の推測をメインの課題とします。……では手始めに、映像内のホログラムが干渉した際の超音波の波長から、彼らが使用している局所磁場の出力規模を逆算してみましょう」
教授が黒板に向かい、狂ったような速度でチョークを走らせ、びっしりと数式を書き込み始める。
俺は一番後ろの席で、缶コーヒーを吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。
ああ、違う。そこ、超音波の波長から磁場の出力を計算しようとしてるけど、前提が根本から間違ってる。俺が使ったのは現代の電磁気学じゃなくて、ナノマシンで構築した微小な重力場制御のデチューン版だから、その数式だと最終的な答えが無限大に発散してエラーになるぞ。
現代のトップクラスの学者が、俺が適当に手を抜いて作った「おもちゃの残飯」を真面目な顔で解析し、迷路に迷い込んでいく。その様を一番後ろの特等席で眺めるのは、オタクの知的好奇心と悪趣味な愉悦をこれ以上ないほどに満たしてくれた。
「おい、学」
不意に、隣の席に座っていた同じ学科の友人である健太が、身を乗り出して小声で話しかけてきた。
「お前、昨日の黒川テックの配信見たか!?」
「ん? ああ、いや。途中まで見たけど、なんか難しそうだったからゲームして寝ちゃったわ」
「お前馬鹿かよ!! 工学生のくせにあの歴史的瞬間を見逃したとかマジで人生半分損してるぞ!!」
俺が適当にとぼけると、健太は親の仇でも見るような目つきで俺の肩を揺さぶってきた。
「いいか、触れるホログラムだぞ! あれがあれば、画面の中から二次元の嫁を引っ張り出して実際に触れる時代が来るんだよ!! 俺たちの夢が叶うんだよ!!」
「お、おう。視点が完全に限界オタクのそれだな。でもまあ、確かにすごかったっぽいね」
「すごいなんてもんじゃねえよ! 俺、あの匿名掲示板に降臨してる『天才科学者(笑)』のパワードスーツのコード、昨日の夜中ずっと研究室の先輩たちと解析してたんだけどさ。マジで発狂するかと思ったわ。あいつ絶対人間じゃねえよ、宇宙人か未来人だろ」
目の前にいるんだけどな、その宇宙人。
俺は愛想笑いを浮かべながら、「へえ、お疲れ」と相槌を打った。
「先輩なんか、あのコードのノイズ除去アルゴリズム見た瞬間、なんか急に泣き出して『俺の四年間は無駄だった』って言いながらストロング缶一気飲みしてたからな。今の日本のロボット工学界隈、あいつのせいで半分くらい鬱になってるぞ」
「そりゃ災難だな。でもさ、それだけすげえ技術なら、俺たちの生活も一気に便利になるんじゃね?」
「まあそうなんだけどさ。……でも、あんな世界をひっくり返すような技術を、なんでわざわざ匿名掲示板でバラ撒いたりするんだろうな。目的が全く読めねえんだよ」
健太は腕を組み、深刻そうな顔で首を傾げた。
「なんかこう、世界征服を企む悪の秘密結社とか、そういうヤバい組織の陰謀なんじゃないかって、ネットじゃ噂になってるぜ。黒川テックも実はマフィアの隠れ蓑だとかさ」
世界征服。マフィアの隠れ蓑。
俺は心の中で盛大にずっこけた。
違う違う。ただの工作好きのオタクが、自分の作った最強のプラモデルを見せびらかして、お前らみたいな連中が「すげえええ!」って発狂するのを見てニヤニヤしたいだけだ。完全にただの承認欲求と悪ふざけの極致である。
そんな壮大な陰謀論で語られていると思うと、申し訳なさを通り越して逆に面白くなってきた。
「まあ、俺たち平民には関係ない世界の話だろ。それより今日の学食、日替わり定食チキン南蛮らしいぞ」
「お、マジか。じゃあ講義終わったらダッシュで行こうぜ」
健太はあっさりと技術の話題を切り上げ、俺たちはノートの端っこに落書きをしながら、教授の難解な、そして根本的に間違っている数式の解説をBGM代わりに聞き流した。
夕方。大学の講義をすべて終えた俺は、痛車バイクに跨って山奥の秘密基地へと帰還した。
ステルスフィールドを抜けて地下のメインコントロールルームに入ると、いつものように疑似ツリーダイアグラムの青白い光と、空調の低い駆動音が俺を出迎えてくれた。
「ただいま、ジャービス。今日の大学、マジで傑作だったぜ。教授が俺のデチューン技術を必死に解析して、見事に迷路にハマってた」
『お帰りなさいませ、ボス。ボスのその悪辣な笑顔を見ていると、AIである私ですら同情を禁じ得ません。現代の科学者たちが哀れでなりませんよ』
スピーカーから響くジャービスの呆れた声に、俺はコンソールの椅子にドカッと腰を下ろして笑った。
「いいんだよ。あの程度の技術的ハードル、本物の天才ならいつかは必ず乗り越えてくる。俺が落としたオーパーツを解析して、現代の科学力を強引に底上げしていく連中の執念を見るのが、俺の趣味なんだから」
『悪趣味の極みですね。……ところでボス、黒川テックのサーバーに、また新たな動きがありました』
「ん? またどこかの諜報機関がサイバー攻撃でも仕掛けてきたか?」
俺がマルチモニターに視線を向けると、ジャービスは一つのウィンドウを拡大表示した。
『いえ、物理的なアプローチです。今日、都内のダミーオフィスに、アメリカのオムニ社から特使が直接訪問してきました。黒川社長が対応しましたが、彼らは十三年前の『匿名のハッカー』の件を引き合いに出し、技術の独占契約を強く迫ってきたようです』
「おっと。流石は天下のオムニ社、嗅ぎつけるのが早いな。俺のプログラミングの癖から、十三年前のガキのお遊びと同一人物だって見抜いたのか」
十三年前。俺がまだ小学生にも満たないガキだった頃、腕試しと小遣い稼ぎを兼ねて、オムニ社の基幹システムのバグを突いて数百万ドルの報奨金をせしめたことがある。まさかあの時のことをまだ根に持っているとは。
「で、社長はどう対応した?」
『ボスの事前の指示通り、のらりくらりと躱させました。「十三年前の件は存じ上げない。我が社は誰とも独占契約は結ばない」と。相手のエージェントはかなり苛立っていたようですが、手出しはできないと踏んで引き下がりました』
「よしよし。これでますます、黒川テックの背後には謎の超巨大組織がいるって思い込むだろうな。実態は、実家通いの大学生一人と、口の減らないAI、あとは機械のポンコツ社員しかいないのに」
俺は冷蔵庫からコーラを取り出し、プシュッと小気味良い音を立てて開けた。
表の世界では、普通の大学生として友人たちとチキン南蛮定食を食い、単位を気にして生きる平和な日常。
裏の世界では、世界中の大企業や国家を掌で転がし、オーパーツをばら撒いては彼らのプライドをへし折って遊ぶ絶対的な支配者。
この圧倒的なギャップこそが、俺の人生の最大のスパイスだ。
「さて、ジャービス。次の仕掛けの準備をするか。連中が俺のホログラム技術に四苦八苦している間に、今度こそアレの準備を進めるぞ」
『フルダイブ型VRMMOと、それを動かすための量子通信ネットワークの構築ですね。マザーマシンの生産ラインを、次世代サーバーの建造にシフトさせます』
「頼むぜ。……俺が『天才ゲームクリエイター』として世界に本当の魔法を見せつける日は、そう遠くないぞ」
俺はマルチモニターの光に照らされながら、この世界で誰よりも楽しげな、悪役のような笑みを浮かべた。