地獄の朝が来た。
昨晩、全世界のエンジニアを公開処刑し、オムニ社の株価を数パーセントほどナイアガラさせた代償は、あまりにも重い。俺の脳細胞は現在、複素平面での物理演算よりも「ドイツ語の不規則動詞」という名のノイズによって、深刻なシステムエラーを引き起こしていた。
「ジャービス……俺の意識、今何パーセントくらい現実に残ってる?」
『計測不能です、ボス。脳波の波形が、先ほどから「単位……単位……」という怨嗟の声を上げている怨霊のそれと一致しています。……ほら、早く学食の濃いコーヒーを流し込んでください。一限の再テストまで残り十五分です』
俺はふらふらとした足取りで、愛車の痛車バイクを駐輪場に突っ込み、大講義室へと向かった。
キャンパス内の雰囲気は、明らかに異常だった。すれ違う学生の多くがスマホの画面を食い入るように見つめ、一部の連中はホワイトボードやノートに難解な数式を書き殴りながら、血走った目で議論している。
「おい、見たか昨日の配信……! 座標軸を四次元に拡張してクォータニオンを回すって、マジでトルク損失がゼロになったぞ!」
「あんなの人間業じゃねえよ……。Kは間違いなく、この大学のどこかに潜んでるはずだ」
真横を通り過ぎる学生たちの会話に、俺は心の中で「ここにいるぞ」とツッコミを入れながら、講義室の扉を開けた。
講義室の中は、さらにカオスだった。再テストの直前だというのに、教壇に立つドイツ語の教授の周りには、人だかりができていた。
「教授! このKの数式の第三項、ここの収束条件はどうなってるんですか!?」
「私に聞くな! 私はドイツ語の教師だ! ……だが、昨夜から一睡もせずにこの式を眺めていたら、不規則動詞の活用がどうでもよくなってきてしまった……。この論理の美しさに比べれば、格変化などただのバグに過ぎん……」
厳格だった教授まで、Kの毒気に当てられて「語学教師」としてのアイデンティティを喪失しかけている。
そんな喧騒の中心で、一人の男子学生が机にふんぞり返り、周囲の学生に得意げに語りかけていた。同じ学科で「意識高い系」として有名な佐々木だった。
「いやあ、みんなそんなに驚くことか? Kの言ってることなんて、慣れれば直感で理解できるぞ」
「えっ、佐々木、お前Kのこと知ってるのか!?」
「まあね。実は以前から、Kとは極秘のチャットグループで繋がっててさ。昨日の配信の内容も、事前に『少し難しくしすぎたかな?』って相談されてたんだ。俺も『まあ、今の凡人にはそのくらいが刺激になっていいんじゃないか』って答えたんだけどね」
俺は最後列の席で、突っ伏したまま耳を疑った。
誰だよお前。俺のコンタクトリスト、ジャービスと一部のバグバウンティ仲間しかいねーよ。
周囲の学生たちが「すげえ!」「さすが佐々木!」と、嘘八百のホラ話に食いついている。佐々木はさらに調子に乗って、ホワイトボードに昨夜の配信で俺が書いた数式の一部を書き始めた。
「例えばこの式、Kは複素平面に飛ばせって言ってたけど、本質はそこじゃないんだ。重要なのは、この項にガウス関数を組み込んで、ノイズを強制的に減衰させることにある」
$$ f(x) = \int_{-\infty}^{\infty} e^{-at^2} dt $$
「こうすることで、演算負荷を最小限に抑えられる。これがKから直々に教わった『真実』だよ」
俺は、机に顔を埋めたまま、内心で盛大に舌打ちした。
違う。全然違う。そこにガウス関数なんて入れたら、微細な反動のデータまで削ぎ落とされて、パワードスーツの関節が爆発するぞ。お前、Kの弟子を自称するなら、せめて昨夜のアーカイブを百回見直してこい。
あまりにもデタラメな解説を、さも真実であるかのように語る佐々木の姿に、俺の耳元でジャービスが冷徹な声を出した。
『ボス。ネット監視網が、佐々木氏による「Kの名を騙った虚偽情報の拡散」を検知しました。現在の拡散指数は、学内ネットワークを中心に上昇中。……このまま放置しますか?』
「……ジャービス、俺は今、ドイツ語で手一杯なんだ。……適当に、掃除しといてくれ」
『了解しました。……ちょうど、彼のSNSアカウントと、この講義室のスマートプロジェクターが同じネットワーク内にありますね。少し「教育」してやりましょう』
その直後だった。
佐々木が鼻高々に数式を書き足そうとした瞬間、講義室の巨大なスクリーンが勝手に起動した。
「……え? なんだ、故障か?」
佐々木が呆気に取られていると、スクリーンには真っ黒な背景に、あの配信で見覚えのある「メカメカしい怪人」のアイコンがデカデカと映し出された。
『――おい、どこの三流エンジニアだ?』
スピーカーから響いたのは、重厚な電子音声。昨夜、世界を震撼させたあのKの声だ。
講義室内が、一瞬で凍り付いた。佐々木はマーカーを持ったまま、石像のように固まっている。
『お前、さっきから聞いてればデタラメばかりだな。そこにガウス関数を入れたら、微細振動のフィードバックが死んで装着者が骨折するぞ。……算数からやり直せって言わなかったか?』
「あ、いや……これは、その……」
『俺は、嘘をつく奴とコードが汚い奴が一番嫌いなんだ。……お前のスマホ、今このスクリーンと同期させてやったぞ。お前が「Kの弟子」を自称して、裏で怪しい情報商材を売ろうとしていたDMの履歴……今ここで全世界に公開してやろうか?』
「えっ!? ちょっと待って! やめてくれ!!」
『二度と俺の名前を出すな。……次やったら、お掃除ロボットがお前の家を「物理的に」掃除しに行くからな』
スクリーンの表示が消え、同時に佐々木のスマホからは、警告音と共に「バーーカ!!」という俺の煽りボイスが大音量で鳴り響いた。
講義室内は、静まり返っていた。嘘が完全に露呈し、本物の「神」から直接引導を渡された佐々木は、顔を真っ赤にしてそのまま教室から逃げ出した。
周囲の学生たちは、戦慄した面持ちで自分のスマホをチェックし始めている。
「……本物だ。本物のKが、今、このネットワークに介入したんだ……!」
「嘘をついた瞬間に論破されるとか、ガチで監視されてるのかよ……。怖すぎるだろ……」
そんな騒動を余所に、最後列で突っ伏していた俺の机に、ドイツ語教授が震える手でテスト用紙を置いた。
「……黒川君。今の騒ぎ、見たかね? 恐ろしい時代になったものだ。……さあ、テストを始めよう。君も、Kの機嫌を損ねないうちに、不規則動詞を完璧に書き上げるんだ」
「……はい。……頑張ります……」
俺は、一連の騒動に全く関与していない「ただの疲れた学生」のフリをして、ペンを握った。
ネット越しにバカを論破し、正体を隠したまま平穏を守る。ジャービスの完璧な仕事に内心で感謝しながら、俺は問題用紙の「fahren」の過去分詞形を、震える字で書き込み始めた。
俺の二重生活は、今日も最高に理不尽で、最高に愉快な混沌に満ちていた。