日本の頭脳が集まる霞が関。その地下深くに存在する内閣情報調査室の特別分析班は、今日も今日とて胃薬が手放せない大パニックの真っ最中だった。
室内に設置された巨大モニターが、突如としてけたたましいアラートと共に真っ赤に染まったからである。
「第1から第8までの全防壁、完全に突破されました! 物理的にサーバーの電源を落としてもアクセスが止まりません!」
「馬鹿な、外部ネットワークからの完全遮断だぞ!? 一体どういう理屈で侵入しているんだ!」
国家の最高機密を守るエリート分析官たちが半狂乱でキーボードを叩く中、室長はすっと遠い目をして現実逃避を始めかけていた。
次の瞬間、全てのモニターが強制的に切り替わる。
そこに映し出されたのは、漆黒の流体金属で構成された、分厚い装甲スーツの怪人だった。
先日、世界中をドン引きさせた『天才科学者(笑)』こと、Kその人である。
『あー、テステス。マイク入ってる? ……よし。こんばんは、日本政府の偉いおじさんたち。夜遅くまでお仕事お疲れ様』
「……K、か。我々の国家最高機密システムをこうも容易く乗っ取るとはな」
『驚かせて悪いね。あんたらのセキュリティ、ザルすぎて五秒で突破できちゃったよ。あ、ハッキングの痕跡とか探さなくていいからね。あんたらの技術じゃ百年かかっても追いつけないし』
合成音声特有の重厚な声で、Kは心底楽しそうに笑う。
室長は震える手で胃の辺りを押さえつつ、画面の怪人を睨みつけた。
『単刀直入に言うよ。最近、俺の
「……各国のエージェントが、君のテリトリーを探っているということか?」
『あんたら日本政府としても、国内で海外の
Kが指をパチンと鳴らすと、画面の一部に二つの巨大な圧縮ファイルがポイッと転送されてきた。
『一つは、アメリカや大陸の諜報員どもが日本国内でやってる違法捜査の証拠データ一式。非合法な盗聴の音声ログから、ダミー会社の裏帳簿、暗号資産の賄賂ルートまで全部パッキングしといたよ。これを見せれば、奴らをスパイ容疑で一網打尽にできる大義名分になるっしょ?』
「なっ……!?」
室長の指示で中身を開いた分析官たちが、あり得ないほどの解像度で暴かれた他国の国家機密の山を見て、泡を吹きそうになっていた。
日本の公安が数年かけても掴めないような決定的な証拠が、エクセルで家計簿をつけるようなノリで綺麗にまとめられているのだ。
『で、もう一つが『超次世代型サイバー防壁』。これを使えば、他国のサイバー軍からの電子的干渉を完全にシャットアウトできる。日本は明日から世界最強の情報の要塞になるってわけ。すごいでしょ』
「それを……これほどのものを、無償で提供すると言うのか?」
『ただであげるとは言ってないよ。交換条件だ。俺の日常を脅かす怪しい外国人エージェントを、あんたらの手で一人残らず拘束するか、国外へ強制退去させろ。俺の生活圏から、一匹残らず排除するんだ』
圧倒的な技術力を持つ、文字通りの『神様』からの、あまりにも小市民的すぎる要求。
室長は、以前まとめた「彼の目的はあくまで『快適なオタクライフの維持』だけである」という分析結果を思い出しながらも、一つの疑問を口にせずにはいられなかった。
「……一つ、聞いていいか。君ほどの技術があれば、どこか別の国……例えばアメリカなどに身を寄せた方が、はるかに強固な保護と莫大な資金を得られるはずだ。その気になれば、一つの国家を支配することすら可能だろう。なぜ、そこまでして日本に留まろうとする?」
室長の真剣な問いかけに対し、画面の中のメカメカしい怪人は、肩をすくめるような動作をした。
『別に深い理由なんかないよ。単純に俺は、日本のことが好きだからね。サブカルは充実してるし、治安は良いし……何より、ご飯が美味い』
「……ご飯、だと?」
『そうそう。特にうちの母さんが作るハンバーグが最高でさ。わざわざ海外に行って、毎食ハンバーガーとピザばっかりの生活とかマジで無理だから。俺は自分の家のベッドで寝て、美味い飯を食いたいだけなんだよ』
あまりにもスケールの小さい、しかしKにとっては宇宙の真理よりも重い絶対的な理由。
室長は深い深い溜め息を吐き、そして覚悟を決めたように力強く頷いた。
『お互い様でしょ。俺は平和な日常が手に入るし、あんたらは世界最強のサイバー防壁と、海外勢力を国内から一掃する大義名分が手に入る。どう考えても悪い取引じゃないはずだけど?』
「……分かった。その条件、喜んで呑もう。直ちに公安を動かし、不審者の大掃除を開始する」
『交渉成立だね。期待してるよ、日本の警察機構さん。じゃ、そういうことで』
プツン、という軽いノイズと共に、モニターがいつもの監視画面へと戻る。
嵐が過ぎ去ったような静寂の中、室長は崩れ落ちるようにドカッと椅子に座り込んだ。
「……室長、どうしますか?」
「決まっているだろう……」
室長は深く、今日一番の重いため息を吐き出し、疲労困憊の顔で天井を仰ぎ見た。
「直ちに公安の精鋭を全て動員しろ。対象エリアにいる海外エージェントを、一人残らず極秘裏に排除するんだ」
「は、はい!」
「いいか、絶対に波風を立てるなよ。あの『ご機嫌な超常存在』の、美味しいご飯と快適な引きこもりライフに、一ミリたりともノイズを混ぜるな。……我々は、絶対にあの厄介なバケモノの逆鱗に触れてはならない。寝た子は起こすな、何が何でもだ」
そこに国家のプライドなど微塵もない。あるのはただ、理不尽すぎる災害に対する深い諦念だけだった。
かくして、日本政府は図らずも、一人のオタクの極めて怠惰な日常を守るための『最強の番犬』へと、半ば涙目で無事にジョブチェンジを果たしたのだった。