午前六時。都内にあるごく一般的なワンルームマンションの一室で、黒川セキュリティ所属の警備用アンドロイド、製造番号KS─024は寸分違わぬスケジュールでスリープモードを解除した。
彼女の人工皮膚は人間の体温と同じ三十六度五分に保たれ、呼吸を模倣するための胸部の上下運動も完璧に同期している。彼女はベッドから起き上がると、まずは生活の痕跡を偽装するためのルーチンワークを開始した。
システム上の排熱処理は既に完了しているが、彼女はあえてシャワーを浴びて水道のメーターを回し、キッチンでトーストを焼いてからディスポーザーで破棄する。彼女たち黒川セキュリティの社員は、国家機関のいかなる身辺調査にも耐えうる完璧な善良なる小市民として振る舞う義務があるからだ。
漆黒の軍服を思わせるスタイリッシュな制服を身に纏い、彼女は無音の足取りでマンションを出た。
満員電車に揺られる通勤時間は、彼女たちにとって格好の情報収集の場でもある。周囲の人間たちの生体反応や、スマートフォンから漏れ出す電波をパッシブソナーのように拾い上げ、異常者の有無やテロの兆候を常にスキャンし続けている。
彼女のその彫刻のように整った美貌と、一切の揺らぎがない完璧な姿勢は、毎朝多くの乗客の視線を集めていたが、彼女自身はそれに何の感情も抱かない。
午前八時三十分。黒川テックの都内オフィスビルに到着。
彼女の今日の任務は、エントランスホールの立哨警備である。
「おはようございます、麗華さん。今日もよろしくお願いします」
「おはようございます。本日の異常は現在までゼロです。業務に入ります」
人間の受付嬢からの挨拶に、彼女は麗華という偽名で淀みなく返答する。音声合成のアルゴリズムは、人間が最も心地よいと感じる周波数帯に完璧に調整されていた。
エントランスに立つ彼女の姿は、さながら美術館に展示された美しい彫像だ。
まばたきの回数は人間の平均値に合わせてプログラムされているが、その瞳の奥の光学センサーは、ビルに出入りする全ての人物の骨格、網膜パターン、心拍数をミリ秒単位で解析し、巨大なデータベースと照合し続けている。
午後一時。昼休みの時間帯に、ちょっとしたアクシデントが発生した。
台車に大量のコピー用紙や精密機材の入った段ボールを積んでいた人間の男性社員が、バランスを崩して荷物を崩れさせてしまったのだ。
「うわっ、危ない!」
百キロ近い重量の荷物が、周囲を歩いていた女性社員の頭上に降り注ぐ。
大惨事になるかと思われたその瞬間、麗華の身体は人間には知覚できない速度で動いた。
彼女は一切の足音を立てずに数メートルを滑るように移動すると、崩れ落ちてきた段ボールの山を、片手でいとも容易く受け止めた。
彼女の華奢な腕を構成する人工筋肉とチタン合金の骨格は、百キロの衝撃を微塵も感じさせない。
「お怪我はありませんか」
「えっ……あ、はい。ありがとうございます……。麗華さん、凄い力ですね……」
「日頃から鍛えておりますので。荷物の運搬、お手伝いいたします」
周囲の人間たちが呆然と見つめる中、彼女は涼しい顔で百キロの荷物を軽々と持ち上げ、指定の部署まで運んでいった。
社内で密かに囁かれている黒川セキュリティの人間はサイボーグか何かだという都市伝説が、また一つ強固になった瞬間だった。
午後三時。今度は、真の任務が訪れる。
スーツ姿のビジネスマンを装った一人の男が、来客用のゲートを通過しようとした時のことだ。
麗華の視界に、真っ赤なアラートが明滅した。
男の網膜パターンが、事前に入力された偽造データとわずかに矛盾している。さらに、男の歩行時の重心のブレから、スーツの裏側に隠し持っている小型の電磁パルス発生器の存在を検知したのだ。某国の諜報機関が放った、産業スパイである。
「申し訳ありません、お客様。ご予約の確認が取れません。こちらへお越しいただけますでしょうか」
「いや、私は黒川社長と約束が……おい、何をする!」
麗華は男の腕を優しく、しかし万力のような力で掴み、死角となるセキュリティルームへと強制的に誘導した。
男は懐の電磁パルス発生器に手を伸ばそうとしたが、彼女の動きはそれよりも遥かに速かった。男の神経叢にピンポイントで微弱な電流を流し込み、一瞬で意識を刈り取る。
「対象の無力化を完了。これより公安警察の担当窓口へ不審者として引き渡します」
『ご苦労様です、KS─024。対象の処理は手筈通りに。引き続き、カモフラージュ任務を続行してください』
脳内リンクを通じてマスターAIであるジャービスに報告を上げると、彼女は乱れた制服の襟を直し、再びエントランスへと戻っていった。
午後九時。業務を終え、彼女は再び満員電車に乗って偽装された自宅のマンションへと帰還する。
鍵を開け、無人の部屋に入ると、彼女はコンセントの横に設置された専用の非接触型充電ドックに寄りかかった。
そして、一日の間に収集した莫大な量の視覚・聴覚データを、地下ラボのメインサーバーへと暗号化通信で送信し始める。
彼女たちに疲労という概念はない。
ただ、創造主たる神の怠惰で平和な日常を守るための最強の盾として、明日もまた、完璧な人間のふりをして微笑み続けるだけだ。
瞳の光学センサーの光がゆっくりとフェードアウトし、彼女は深いネットワークの海へと静かに沈んでいった。