スラムのチンピラである男は、ここ数日、一人の奇妙なガキに目を付けていた。
年齢は
何より男の興味を惹いたのは、そのガキが「本物の紙幣」を持ち歩いているという事実だ。
ガキは裏市の薬局や日用品店で、大量の風邪薬や農薬、よくわからないジャンク品を買い漁っていた。スラムの孤児が持っているはずのない、数千ペソという大金を使って。
「あのクソガキ……どこかでギャングの隠し財産でも見つけやがったな」
男は
金づるを見つけた歓喜。ガキを一人脅すくらい、スラムで生きる彼にとっては朝飯前だ。少し痛めつけて吐かせれば、数万ペソの金が転がり込んでくるかもしれない。
人通りのない路地裏の奥。廃材の山で道が行き止まりになった場所で、男はニタニタと笑いながらガキの背後に立ち塞がった。
「よう、坊主。こんな所で一人でお散歩か? 迷子ならお兄さんが家まで送ってやるよ」
下劣な声色で呼びかけると、ガキはゆっくりと振り返った。
その瞬間、男は微かな
大人の男に路地裏で追い詰められた五歳児。泣き叫ぶか、怯えて後ずさりするのが普通だ。だが、そのガキの瞳には、恐怖も焦りも、何なら子供らしい感情の揺らぎすら一切存在していなかった。
まるで、道端に転がる石ころでも見るかのような、極めて無機質で冷たい視線。
「……用件は何だ。俺は今、ビジネスの準備で忙しいんだが」
「チッ、気味の悪りぃガキだ……。いいから、お前が隠し持ってる金を全部出せ! どこで見つけたか知らねえが、どうせお前には使い道がねえだろ。素直に吐けば、命だけは助けてやるよ!」
男は懐から
これだけ脅せば、流石に泣き叫んで命乞いをするだろう。
そう確信して男が片手を伸ばし、ガキの細い胸ぐらを掴もうとした、その時だった。
カチリ、という硬質な音が鳴った。
ガキが手首を軽くスナップさせた瞬間、その袖口から何かが飛び出した。
それは、ボールペンの外筒と傘のバネを組み合わせ、先端にゴミ山で拾った注射針をテープで固定した、手製の【飛び出し式
バネの力で勢いよく射出された針先が、男の伸ばした腕の静脈へと正確に突き刺さる。
「あ……? は……? おい、何だこれ……腕が、動か……」
戸惑う間もなく、異常は全身へと伝播していく。
膝からカクンと力が抜け、男は無様なカエルのように泥水溜まりの中へと倒れ込んだ。
「な、にを、しやがっ、た……っ」
舌が痺れ、まともな言葉すら発せられない。
全身の神経が完全に焼き切れたかのように、指一本、まぶたの裏の筋肉すら自力で動かすことができなくなっていた。
男の視界の端で、泥水に汚れた小さなスニーカーが一歩、また一歩と近づいてくる。
「農薬から抽出した神経毒をベースにした、局所的な即効性麻酔液だ。ボールペンのバネ機構を応用しただけのオモチャだが、近距離なら十分実用に耐えるな。数秒で全身の随意筋が麻痺する。痛覚は残したままだから、自分の体が徐々に動かなくなっていく恐怖を存分に味わえるはずだ。……あと三十秒もすれば、横隔膜も停止して呼吸ができなくなる」
ひっ、ひゅっ……。
男の喉から、空気を求める情けない音が漏れる。
肺を動かすための筋肉が完全に機能を停止し始めていた。空気が吸えない。息ができない。窒息の恐怖と苦しみが、麻痺した肉体の内側で爆発する。
「だ、ずげ……っ」
「スラムの底辺で生きるなら、最低限の『観察力』くらいは身につけておくべきだったな。無知な獣は、狩られることすら理解できずに死んでいく」
冷酷な宣告と共に、ガキは男の手から滑り落ちた錆びたナイフを拾い上げた。
窒息死を待つまでもない。俺の時間をこれ以上奪うなと言わんばかりの、極めて合理的で作業的な動作。
ガキは一切の
ごぼっ、と気管に血が溢れる凄惨な音が路地裏に響く。
男は自分の首からどくどくと熱い血が流れ出していく感覚と、急速に冷えゆく命の終わりを味わいながら、自分が決して手を出してはいけない
ガキ――サイエンは、物言わぬ肉塊となった男のポケットを探り、なけなしの小銭と換金用の銅線を奪い取る。
そして、血濡れたナイフを男の服で適当に拭うと、道端のゴミを跨ぐような無関心さで、再び夜の闇の中へと歩き出していった。