深夜のスラムに、ひび割れた悲鳴が響き渡っていた。
地下酒場を改装した俺の
そこには、両腕を後ろ手に縛られ、顔面を原型がなくなるほどボコボコに腫らしたマルコの姿があった。
「おい、さっさと吐け! この『ブルー・ドロップ』を作ったクソ野郎はどこに隠れてやがる!」
「ひ、ひぎぃっ! い、いぐっ、地下酒場……西区の、廃れた地下酒場ぁっ!」
ギャングのゴロツキに金属バットで膝を砕かれ、マルコはあっさりと俺の塒の場所を自白した。
まあ、予想通りの展開である。
彼に渡したブルー・ドロップの在庫が尽きる頃合い、そして市場の異常に気付いたギャングの幹部が本格的に動き出すまでのタイムラグを計算すれば、今日あたりで彼が捕まるのは規定路線だった。
俺はフラスコの中でコポコポと沸騰する薬品の火を止め、やれやれと肩をすくめた。
「まあ、大体計算通りのタイミングだな。優秀な営業マンだったマルコには、後でボーナスとして特濃の一滴を口に垂らしてやろう。生きていればの話だが」
俺は白衣代わりのブカブカのシャツの袖をまくり上げ、ラボの奥に鎮座している
およそ二十分後。
地下酒場の分厚い
「おいクソガキ! マルコの野郎は全部吐いたぞ! ここがお前の
扉の向こうで喚いているのは、先日見回りのチンピラどもを束ねていた取立て管理部門トップ、ゴンザレスという狂犬だろう。
入り口に仕掛けた監視カメラの映像を切り替えると、アサルトライフルや錆びたショットガンで完全武装した十数人のゴロツキどもが、酒場の入り口を完全に包囲していた。
テープでぐるぐる巻きにされた拡張マガジンなど、スラムらしい粗悪なカスタマイズだが、実弾が撃ち出せる以上は立派な脅威だ。ボスであるガルシアの縄張りを荒らされたとあって、かなり本気で殺しに来ているらしい。
外の連中は、俺がたった五歳の子供だと聞いて、半信半疑ながらも完全に舐め腐っているのだろう。扉を叩く音には、警戒よりも苛立ちと侮蔑の色が濃い。
だが、モニターを眺めていた俺は、ふと外の状況に
「……おや? なんだあの集団は」
ゴンザレスたちの包囲網の外側。暗がりから、足音も立てずに新たな集団が現れたのだ。
ゴンザレスの部下たちのような、無駄に威圧的なゴロツキではない。全員が揃いの黒い軍用品に身を包み、手には高性能なサブマシンガンを静かに構えている。トリガーに指をかけず、射線が味方と被らないように展開する様は、明らかに練度が違うプロの殺し屋集団だ。
そして、その集団の先頭に立つ男。
着崩した高価なスーツに、顔の半分を覆う酷い火傷の痕。片目には冷たい光を放つ義眼がはめられている。
「なんだてめえら! ここは俺たちガルシア一家の……って、カ、カルロスさん!? 戦闘部門のトップが、なんでこんな末端のシマに……ッ!?」
「騒々しいぞ、ゴンザレス。スラムのゴミどもが怯えて眠れなくなっちまうだろうが」
義眼の男――カルロスと呼ばれたその男は、ゴンザレスの威嚇を鼻で笑い飛ばし、葉巻の煙をふぅ、と吐き出した。
モニター越しの音声でも、その声には一切の感情がこもっていないことが分かる。極めて冷徹で、合理的な響き。
「最近、うちのシマでとんでもなく上質な『水』が出回ってるって噂を聞いてな。しかも、そいつを作ったのがおしゃぶりを咥えたガキだっていうから、俺も一口味見させてもらおうと思って直接出向いてやったんだよ。……で? その素晴らしい水を作った天才のクックは、このネズミ穴の中にいるのか?」
「そ、それは俺たちの獲物です! ボス・ガルシアの命令で、俺が責任を持って連行するところなんですよッ!」
「キャンキャン吠えるな、狂犬。俺は別に手柄を横取りしに来たわけじゃねえ。ただの
カルロスに凄まれ、ゴンザレスは悔しそうに舌打ちをしながらも一歩引き下がった。
どうやら、ギャング内でもカルロスの権力と武力は圧倒的らしい。
「素晴らしい。ただの怒り狂ったチンピラだけじゃ交渉の手間が増えると思っていたが、話の通じそうな大物が向こうから出向いてくれるとはね」
俺は口角を吊り上げ、机の上に用意しておいた『交渉のカード』――自作の起爆スイッチをしっかりと握りしめた。
扉が爆破されるのを待つ必要はない。
俺は自ら地下酒場のロックを解除し、重い鉄扉をゆっくりと押し開けた。
ギギィィ……という軋み音と共に、スラムの淀んだ夜風が流れ込んでくる。
扉の前に立っていた十数人の重武装の男たちが、一斉に銃口を俺へと向けた。
だが、そこに立っていたのが五歳の小さな子供だと認識した瞬間、全員の動きがピタリと止まった。
「……は? おい、マルコの野郎はクソガキだって言ってたが……マジでこんなガキなのかよ!?」
「おいおい、冗談だろ? こんなのが、あの『ブルー・ドロップ』を作ったっていうのか?」
ゴンザレスの部下たちがざわめき、ゴンザレス自身も信じられないといった顔で俺を見下ろしている。
だが、俺はその威圧的な銃口の群れなど完全に無視して、群衆の後方に立つ一人の男――義眼の幹部、カルロスだけをまっすぐに見つめた。
カルロスもまた、俺から一切目を逸らさなかった。彼の義眼が、俺の小さな体、そして俺の右手に握られている『小さなスイッチ』を鋭く捉え、微かに目を細める。
「おいクソガキ! てめえがあの薬の製造元だな! ふざけやがって、俺たちのシマの売上をよくも……!」
「うるさいな、狂犬。少し黙ってろ。俺は今、あんたの後ろにいる
俺がゴンザレスの怒号を冷たく遮ると、ゴンザレスは一瞬ポカンとし、直後に顔を真っ赤にして激怒した。
「て、てめえ……ッ! ガキのくせに舐めた口を利きやがって! 今すぐその両脚をへし折って、ボスの前に引きずり出してやる!!」
ゴンザレスが愛用の金属バットを振り上げ、俺に向かって一歩踏み込もうとする。
だが、俺は微塵も動揺せず、右手に握った起爆スイッチをカチリ、と一段階押し込んだ。
「動くなよ、狂犬。俺の心拍数が一定の数値を超えるか、このスイッチから親指が離れた瞬間、この地下酒場に仕掛けた
その具体的な言葉に、ゴンザレスの足がピタリと止まった。
「ハッ、ハッタリだ! こんなガキが、そんな大層な爆弾を作れるわけが……!」
「ハッタリかどうか、試してみるか? 五十キロの爆薬が密閉空間で起爆すれば、この酒場ごと上の地面も丸ごと吹き飛ぶ。ついでに、爆薬の周囲には俺の作った特製の高濃度塩素ガス缶も添えてある。爆発の衝撃でそれが気化すれば、この周辺一帯の人間は、肺を溶かして血を吐きながら三分以内に全員死ぬことになるが」
俺は満面の笑みを浮かべ、まるで新しいオモチャを自慢する子供のように、愉快な声で言い放った。
静まり返るギャングたち。
彼らは理解したのだ。目の前にいるのは、銃口を向けられて怯える子供などではない。自分たちの命と、スラムの区画一つを丸ごと掌の上で転がしている、得体の知れないバケモノであるということを。
ゴンザレスが冷や汗を流して硬直する中、俺は改めてカルロスへと視線を向けた。
「さて。これで静かに交渉の席には着いてもらえたみたいだな、カルロスさん。俺をここで殺して、これから何百、何千億ペソもの利益を生む『ブルー・ドロップ』の完璧なレシピと、お前ら自身の命を永遠に吹き飛ばすか。それとも……俺という最強の
沈黙が下りた。
ゴンザレスたちでさえ、あまりの異様な状況に言葉を失い、カルロスの決断を待つしかない。
数十秒にも感じられる、張り詰めた沈黙の後。
カルロスは静かに葉巻を地面に落とし、革靴で踏み躙った。
そして、彼の火傷に覆われた顔が、愉快そうに、本当に愉快そうに歪んだ。
「……クックック。ハハハハハッ!! 傑作だ! たかが五歳のガキが、本物の銃を突きつけられて、俺たち全員を脅迫してきやがった!」
カルロスは腹を抱えて笑い声を上げ、周囲の部下たちを困惑させた。
ひとしきり笑った後、彼は冷たい、だが確かな
「いいだろう、坊主。お前のそのイカれた頭脳と、底知れぬ度胸に投資してやる。俺が直々に、お前を最高待遇で迎え入れてやるよ」
「交渉成立だな。賢明な判断に感謝するよ、カルロスさん」
俺は起爆スイッチの安全装置をゆっくりと戻し、ギャングの幹部に向けて無邪気な笑顔を向けてみせた。
スラムの泥水の中で蠢いていた俺のビジネスが、ついに巨大な暴力と資金という『強固な足場』を手に入れた瞬間だった。
一介のギャングを、国家を裏から支配する巨大マフィアへと進化させる、俺の壮大な実験。
本当の狂乱は、ここから始まるのだ。