巨大ラボでの量産体制が確立されてから、スラムの景色は劇的に変わった。
俺の計算通り、無料で配った一滴の『ブルー・ドロップ』は、瞬く間にスラム中に最悪のパンデミックを引き起こした。
純度九十九パーセントの圧倒的な快楽を知ったジャンキーたちは、もはや他の粗悪な粉薬には一切見向きもしない。彼らは文字通り這いつくばってでも俺たちの縄張りへと押し寄せ、手垢にまみれた紙幣や硬貨をボロボロの箱に投げ入れていく。
スラムという貧困の底なし沼に沈んでいたはずの金が、すべて一本の太い川となって、俺たちの組織へと還流し始めていた。
「ひひっ……ははははっ! すげえ、なんだこりゃあ! 数える端から次の金袋が運ばれてきやがる!」
大規模ギャングの本拠地、その奥にある巨大な金庫室。
アンダーボスであり組織の金庫番を任されているリカルドは、床にうず高く積まれた『札束と小銭の山』に埋もれながら、狂ったような笑い声を上げていた。
彼の目の前には、麻袋に詰め込まれた数百万ペソもの現金が無造作に転がっている。昨日までの組織の月間利益を、たった半日で稼ぎ出してしまったのだ。
「すげえ……俺は夢を見てるのか? これなら隣のシマのクラブハウスごと買い取れるぞ! ひはははっ……痛ッ! い、いぎぃぃぃっ……!」
だが、歓喜の絶頂で高笑いをした直後、リカルドは腹を抱えて床にうずくまった。
常備している胃薬の瓶を取り出し、ボリボリとラムネのように噛み砕いて水で流し込む。
「胃が、胃が痛え……っ。おい、ダニーの物流部門に連絡しろ! ダミー会社の口座をフル稼働させろってな! こんなスラムの小銭と汚え札束の山、どうやって
リカルドは部下に向かって怒鳴り散らしながら、再び胃を押さえて悶絶した。
金が増えるのはギャングにとってこの上ない喜びだ。しかし、あまりにも急激で、かつ桁違いの現金流入は、彼らに「管理の限界」という強烈なストレスをもたらしていた。
スラムの住人が持ってくるのは、クシャクシャの少額紙幣や、血と泥にまみれた硬貨ばかりだ。それを数えるだけでも膨大な手間がかかる上、組織が持っている既存の表向きの店舗(安酒場や娼館など)の売上として偽装するには、あまりにも金額が大きすぎたのだ。
税務署や警察の目を誤魔化すための処理が全く追いついていない。
そこへ、白衣を着た俺が、栄養剤のパックをチューチューと吸いながら金庫室へと足を踏み入れた。
「お疲れ様、リカルドさん。景気は良さそうだな」
「サ、サイエン……! お前か……っ!」
リカルドは俺の姿を見ると、すがりつくような、それでいて首を絞めたくなるような、極めて複雑な表情を浮かべた。
「お前がとんでもねえ化け物だってことはよく分かった! 利益は先週の五十倍だ! 笑いが止まらねえよ! ……だがな、同時に俺の胃の穴も五十倍に広がりそうなんだよ!」
「嬉しい悲鳴というやつだな。何か問題でも?」
俺が首を傾げてみせると、リカルドは血走った目で金庫室の地図をバンバンと叩いた。
「大ありだ! お前の作った『ブルー・ドロップ』のせいで、ウチのシマだけじゃなく、隣接してる他のギャングの縄張りからも、ジャンキーどもが根こそぎこっちに越境してきてるんだよ!」
「素晴らしい。完全な市場の独占だ」
「素晴らしくねえ! 客を奪われた他の組織のボスどもが、ブチギレて境界線に武装した部隊を並べ始めてるんだ! 『ウチのシノギを潰す気か』ってな! いつ全面抗争になってもおかしくねえほどのピリピリした状態なんだよ!」
なるほど。他組織の経済を完全に干上がらせてしまったため、追い詰められた連中が物理的な実力行使に出ようとしているわけか。
「なら、売ってやればいいじゃないか」
俺が平然と答えると、リカルドは呆気に取られた。
「……は?」
「どうせ彼らも、自分の縄張りの連中がブルー・ドロップしか買わなくなって困っているんだろう? だったら、彼ら自身を『俺たちの薬の販売代理店』にしてしまえばいい。卸値で少し色をつけて売ってやり、彼らの縄張りで流通させれば、彼らも利益が出て抗争は回避できる。もちろん、薬の供給源という生殺与奪の権は、完全に俺たちが握ることになるがね」
俺の極めて冷徹な、そして悪魔的な提案に、リカルドは口をパクパクと動かした。
それはつまり、他組織を武力ではなく『経済と依存』によって完全に俺たちの傘下に組み込むということに他ならない。
「お、お前……本当に血も涙もねえな。そんなことになれば、この一帯の裏社会はすべて、お前の作ったたった数滴の水に支配されることになるぞ……」
「俺はただ、合理的な解決策を提示しただけさ。交渉事は、エドガーさんの部門にでも任せておけばいい」
俺はカラになった栄養剤のパックをゴミ箱に放り投げ、リカルドに向けてニッコリと笑った。
「それより、明日は機材の稼働率をさらに一五パーセント上げる。今日の金庫の倍のスペースと、胃薬のストックを用意しておいてくれ」
「ひ、ひぃぃぃっ……! 頼む、これ以上俺の胃を苛めないでくれぇっ……!」
札束の山の上で頭を抱えて悲鳴を上げる金庫番を尻目に、俺は愉快な気分で金庫室を後にした。
外部の組織すらも薬で飲み込み、俺たちの組織は急速に肥大化していく。
だが、この急激な変化と桁違いの利益に、ただ一人、決して納得できない男がいるはずだ。
俺の薬のせいで、自身の存在価値と市場を完全に奪われた、哀れな麻薬部門のトップ。
スラムの金が溶ける音は、同時に、彼の『底辺のプライド』が粉々に砕け散る音でもあった。
「さあ、無能な働き蜂は、いつ俺の甘い罠に飛び込んでくるのかな」
俺は防弾仕様の白衣のポケットに手を突っ込みながら、次に排除すべき障害物のことを思い浮かべ、冷たい笑みを深めるのだった。