深夜。ひどい悪臭が漂う東区画の第七廃工場。
その周囲を、カルロスの率いる重武装の戦闘部隊が完全に包囲していた。
「……マジで一人で行くのかよ、サイエンの坊主。いくらなんでも危険すぎねえか?」
鼻をつまみながら心配そうに声をかけてきたのは、警備部隊長のレオンだ。
彼の背後では、数十人のギャングたちがアサルトライフルを構え、工場の出入り口という出入り口に銃口を向けている。だが、彼らはこれ以上前には進めない。工場から漏れ出す『大便と胃液の入り混じった激臭』が凄まじすぎて、防毒マスクなしでは近づくことすら不可能なのだ。
「心配無用だよ、レオン。これは俺の個人的な『お掃除』だからね。それに、ボスから直々に許可をもらった大仕事だ。邪魔はされたくない」
俺は五歳児の小さな体にフィットするように特注した、真っ黒な防護服とフルフェイスの防毒マスクを身につけながら答えた。
腰のベルトには、試験管や小型のシリンダーがズラリと並んでいる。手には、昨日ラボで余ったジャンクパーツから組み上げた、水鉄砲のような形の特殊な噴霧器。
傍から見れば、SF映画のコスプレをした子供にしか見えないだろうが、この小さな体にはスラムのギャングを数十回は皆殺しにできるだけの
「それじゃあ、ネズミ駆除に行ってくるよ。外に逃げ出してきた奴がいたら、適当に捕まえておいてくれ」
「お、おう……。気をつけてな」
ドン引きしているレオンたちを背に、俺は一人、悪臭漂う廃工場へと足を踏み入れた。
工場の鉄扉は、内側から分厚い鉄骨で何重にもバリケードが組まれ、完全に
中に引きこもっているベンジャミンたちが、外からの襲撃に備えて徹底的に籠城を決め込んでいる証拠だ。普通のギャングなら、C4爆薬でも持ってこなければ突破できないだろう。
「ふふっ。物理的なバリケードなんて、化学の前じゃただのウエハースみたいなものなのに」
俺は腰のベルトから、緑色のドロドロとした液体が入ったシリンダーを取り出した。
前世の知識で調合した、特製の【超強酸ジェル】だ。ベースはフルオロアンチモン酸に近い極めて凶悪な代物で、金属だろうがガラスだろうが、触れた端から分子結合を破壊して泥のように溶かしてしまう。
俺がそのジェルを鉄扉のヒンジとロック部分に塗りつけると、シュウゥゥゥッ! という不気味な音と共に、分厚い鋼鉄がまるで熱したバターのように溶け落ちていった。
俺はすぐさま鉄扉の正面から退避し、射線の通らない壁の死角へと身を隠した。
数秒後。
支えを失った巨大な鉄扉が、ズシンッ! という重い音を立てて内側へと倒れ込んだ。
外の月明かりが、真っ暗な工場内へと四角く差し込む。
「な、なんだ!? 扉が倒れたぞ!!」
「敵襲だ! 入り口を撃て、撃ちまくれェッ!!」
扉が破られたことにパニックを起こした見張りの男たちが、暗がりの中からアサルトライフルを乱射してきた。
ダダダダダダンッ! という激しい銃声が響き、光の差し込む入り口の空間――いわゆる『キルゾーン』を無数の弾丸が通り抜けていく。
もしあそこに棒立ちしていれば、いくらステロイドで肉体を強化していようが間違いなく蜂の巣だっただろう。
「暗闇から、光で目立つ入り口へ無闇に弾をばら撒く。素人の証拠だね」
俺は死角に隠れたまま、銃火の光が瞬いている方向へ向けて、水鉄砲型の噴霧器だけを突き出してトリガーを引いた。
プシュッ! という音と共に射出されたのは、空気に触れた瞬間に急激に膨張し、周囲の光を乱反射する特製の【リン光スモーク】だ。
「うおっ!? なんだこの煙! 前が見えねえ!」
「目が、目がチカチカするゥッ!」
強烈な光を放つ濃密な煙が通路を埋め尽くし、銃を撃ち尽くした男たちの視界を完全に奪った。
彼らはむせ返りながら、完全に盲目状態となって右往左往している。
「はい、お掃除完了っと」
俺は煙に紛れて工場内へと滑り込み、咳き込んでいる男たちに向けて、袖口に仕込んでおいた『飛び出し式麻酔針』をシュッ、シュッ、と的確に放った。
首筋に針が刺さった男たちは、数秒の間に「あ……」と間抜けな声を漏らし、次々と糸が切れた操り人形のように床に崩れ落ちていく。
致死性ではない。後で彼らを俺のラボの『部品』として再利用するため、局所的な神経麻痺を引き起こす調合にしてあるのだ。
俺は倒れた男たちを跨ぎ、工場の奥へと歩みを進めた。
内部の惨状は、想像以上だった。
ザックが仕掛けた触媒によって変質した薬品のヘドロが床中に広がり、壁には嘔吐物がぶちまけられている。残っていた数人の部下たちも、あまりの悪臭と恐怖に完全に発狂しており、壁に向かって虚ろな目でブツブツと呟いている有様だった。
「ひぃっ! ば、化け物……悪魔が来たぁっ!」
「許して、俺は関係ないんだ! ベンジャミンにやらされただけで……っ!」
俺の姿を見た途端、彼らは銃を捨てるどころか、その場に土下座して命乞いを始めた。
完全に戦意を喪失した彼らには麻酔針を使う価値すらないため、俺は無言で彼らの首筋にスタンガンの電極を押し当て、手際よく眠らせていった。
そして、ついに工場の最奥。
厳重なロックがかけられた、ベンジャミンの『
「開けろ、ベンジャミン。もうお前の手駒は一人も残っていない」
俺がコンコンとノックすると、扉の向こうから狂乱したような怒声が響いた。
「く、来るなァッ!! ふざけるな、俺が、俺の芸術がこんなガキに……っ! 俺は麻薬部門のトップだぞ! ボスの右腕だぞォッ!!」
「ボスはお前を処分しろと言っていたよ。残念だったね、元・右腕さん」
俺は先ほどと同じように超強酸ジェルをロック部分に流し込み、鉄扉を蹴り開けた。
部屋の中央。
ひっくり返った机の陰に隠れていたベンジャミンが、血走った目で俺に散弾銃を向けていた。
彼の白衣は吐瀉物と泥で汚れ、髪は振り乱され、もはやかつてのプライドなど微塵も残っていない。ただ死の恐怖に怯える、惨めな一匹の獣だった。
「死ね!! 死ねェェェェッ!!」
ベンジャミンが発狂したように引き金を引く。
ドンッ! という轟音と共に、無数の鉛玉が俺の体を狙って弾け飛んだ。
だが、俺はその散弾の軌道を、放たれるコンマ数秒前に完全に予測していた。
特製ステロイドで圧縮された筋肉が爆発的な瞬発力を生み出し、俺の五歳の小さな体は、弾幕の隙間を縫うようにスパンッ! と横へスライドした。
「な……ッ!?」
「残念。弾の広がりが甘い。手入れを怠っている証拠だな」
俺は驚愕に目を見開くベンジャミンの懐に一瞬で潜り込むと、その太ももに向かって手元の麻酔針を深々と突き立てた。
「ぎゃっ!? な、なんだ……足が、足の感覚が……ッ!!」
ベンジャミンは散弾銃を取り落とし、床にドサリと崩れ落ちた。
彼の大脳皮質から運動神経への伝達は完全に遮断され、首から下が一ミリも動かせない完全な
「て、てめえ……俺に何を打った……!?」
「ただの筋弛緩剤と神経毒のブレンドさ。呼吸器系の筋肉は残してあるから、窒息死はしないよ。安心していい」
俺は防毒マスクを外し、動けなくなったベンジャミンの顔を上から見下ろして、最高に無邪気で愉快な笑みを浮かべた。
「さて、ベンジャミン。君にはこれから、俺のラボでとっても重要な『実験動物(モルモット)』になってもらう。君の作ったゴミみたいなクスリなんかじゃ到底到達できない、究極の【生体兵器】の基礎研究の材料としてね」
「モ、モルモットだと……? ふ、ふざけるな! 俺を殺せ! 俺は反逆者なんだろ! スラムの掟通り、さっさと殺しやがれェッ!!」
ベンジャミンが顔を真っ赤にして絶叫する。
彼にとって、自分の知性を否定され、ただの肉塊として扱われることは、死以上の屈辱なのだ。
「おや、勘違いしているみたいだけど、俺はちゃんとボスから許可をもらっているんだよ」
俺はベンジャミンの耳元に顔を寄せ、悪魔のように優しく囁いた。
「幹部会の後でね、ボスにこうプレゼンしておいたんだ。『彼をただ殺して犬の餌にするより、俺の生体兵器の実験台として再利用した方が、将来的に組織へ天文学的な武力と利益をもたらしますよ』ってね。そしたらボスは、大笑いしながら快諾してくれたよ。『反逆の代償を払わせられるなら、バケモノに改造しようが好きにしろ。利益が出るなら万々歳だ』ってさ」
「あ……あぁ……っ」
俺の極めて誠実で、マフィアとして理にかなった『報告』を聞き、ベンジャミンの目からついにポロポロと絶望の涙がこぼれ落ちた。
自分が信奉していたボスにすら、自分はただの『有益な素材』として売り飛ばされたのだと理解したのだろう。
「あ、悪魔……てめえは人間の皮を被った……悪魔だ……ッ!」
「最高の褒め言葉だよ、ベンジャミン先生。さあ、ラボへ帰ろうか。楽しい楽しい解剖学の時間の始まりだ」
俺はピクリとも動けないベンジャミンの髪の毛を掴むと、床を引きずるようにしてアトリエを後にした。
これで、組織内部の邪魔な障害物は完全に排除された。
ボスの正式な許可を得て、俺は麻薬部門のすべてと『最高の実験素材』を手に入れたのだ。巨大ギャングの心臓部を掌握した俺の侵食は、ここからさらに加速度を増して、このスラム全体、ひいては国の中枢へと牙を剥いていくことになる。