巨大ラボの最下層。そこは、厚さ数十センチの防弾・防爆ガラスで完全に隔離された、サイエン専用の特殊実験室である。
白く無機質な空間の中央には、頑丈な拘束台が一つ。
そこには、かつて麻薬部門のトップとしてスラムに君臨していた男、ベンジャミンが縛り付けられていた。
彼の目には、もうかつての傲慢な光はない。
カルロスの部隊によって隠れ家を制圧され、このラボに運び込まれた後、彼は自身の
プライドを根こそぎ粉砕され、今はただ、焦点の合わない目で天井の蛍光灯を見つめるだけの抜け殻と化していた。
「さて、ベンジャミン先生。君のくだらないプライドの解体作業は終わった。ここからは、組織に反逆した罪を償い、俺の偉大な研究の礎となるための『再利用』の時間だ」
スピーカーから響く、サイエンの変声機を通した無機質な声。
彼は実験室にはいない。遥か上の階にある安全なモニター室で、快適な椅子に深く腰掛け、部下に淹れさせた特製栄養剤を啜りながら、分厚いガラス越しに(正確には高画質カメラの映像越しに)この光景を見下ろしていた。
「な、なにを……する気だ……。俺は、もう……」
「何も恐れることはない。君はこれから、スラムの安っぽい麻薬密売人から、人類の進化を促す究極の【生体兵器(B.O.W)】の被検体第一号へと栄転するんだからね」
モニター室のサイエンが手元のコンソールを操作すると、隔離室の天井から、鋭い注射針を備えた自動制御の機械アームがゆっくりと降下してきた。
その先端には、ドス黒い紫色の液体が満たされたシリンダーがセットされている。
「ひぃっ……! や、やめろ……来るな……ッ!」
機械音に反応し、ベンジャミンが拘束台の上でビクンと身をよじった。
だが、屈強なギャング用に作られたチタン合金製の拘束具は、彼がどれだけ暴れようとも一ミリの自由も許さない。
「そのシリンダーの中身は、前世の知識とこのスラムの劣悪なウイルスを掛け合わせて作った、初期型の試作ウイルスだ。細胞の
サイエンがエンターキーを軽く叩く。
プシュッ、という空気圧の音と共に、機械アームが容赦なくベンジャミンの太ももに突き刺さり、紫色の液体を全量、彼の体内へと送り込んだ。
「ア……ガ、ァ……ッ!」
数秒の沈黙の後。
ベンジャミンの全身の血管が、異常なほどに赤黒く浮き上がり、ドクン、ドクンと不気味な脈動を打ち始めた。
「ぎゃああああああああああっ!! 痛えっ、あつい、体が、体が割れるゥゥッ!!」
彼は拘束台が軋むほどの凄まじい力で暴れ狂い、口から大量の泡を吹き出した。
その肉体は、サイエンの予告通り、常識では考えられない速度で異常な変異を始めていた。筋肉がミシミシと音を立てて膨張し、皮膚が引き裂け、そこから新たな赤黒い筋繊維が溢れ出してくる。
骨格そのものが歪み、肥大化していくその過程は、まさに地獄の苦しみだろう。
「素晴らしい。筋繊維の増殖速度は想定の一・五倍。だが、細胞の崩壊も同時に進んでいるな。やはりこの試作品では、五分と持たずに自壊してしまうか」
モニター室のサイエンは、地獄の苦痛に絶叫する男を一切の感情を交えずに見つめ、手元のタブレットに冷徹にデータを打ち込んでいく。
彼は自身の手を一切汚さない。ガラスの向こう側で起きているのは、あくまで『画面上の数値の変化』でしかないのだ。
「……オ、ォォォ……ォ……」
三分後。完全に理性を失い、元の体格の倍近くにまで膨れ上がった異形の肉塊は、ついに細胞の崩壊に耐えきれず、ドロドロの血肉となって拘束台の上に崩れ落ちた。
「ふむ。基礎データの収集としては十分だ。レオン、後で焼却炉の清掃班を向かわせるように手配してくれ」
サイエンは淡々と通信機で指示を出し、一口だけコーヒーの代わりの栄養剤を飲んだ。
かつて彼を見下していた麻薬部門のトップは、こうして誰の記憶にも残ることなく、ただの汚れた実験データとして処理されたのだ。
数日後。スラム中央のクラブハウス、最上階のVIPルーム。
そこでは、組織の今後を決定づける重要な幹部会が開かれていた。
「……以上が、裏切り者ベンジャミンの『処分』の顛末だ」
サイエンは円卓の中央に立ち、プロジェクターにベンジャミンだったモノの最期の映像(一部モザイク処理済み)を投射して、平然と言い放った。
あの傲慢だった男が、人間の原型を留めない肉塊へと変貌し、無惨に崩れ落ちる映像。
「お、おぇぇ……ッ。サイエン、お前、本気でこんなバケモノみたいな真似を……」
「なんて恐ろしい……! 本当に悪魔の所業だ……」
金庫番のリカルドは顔面を蒼白にして胃薬を貪り食い、交渉部門のエドガーは震える手で十字を切っている。
彼らは理解したのだ。この五歳の子供を敵に回せば、ただ殺されるだけでは済まない。人間としての尊厳はおろか、生物としての形すら奪われ、理不尽な科学力のモルモットとして死以上の地獄を味わうことになるのだと。
「さて、ボス。約束通り、害虫の駆除は完了した」
サイエンは怯える幹部たちを無視し、円卓の上座に座るガルシアへと向き直った。
「今日をもって、空席となった麻薬部門の全権、ならびにその製造・流通のあらゆる決定権を、俺が引き継ぐ。……異存はないね?」
ガルシアは、太い葉巻を噛み千切らんばかりにギリッと奥歯を鳴らした。
スラムの王である彼からすれば、新参者のガキに組織の心臓部を完全に握られることは、本来なら絶対に許容できない事態だ。
だが、彼の横では、組織の最大武力であるカルロスが「いいじゃねえか。こいつに任せておけば、利益は今の百倍になるぜ」と愉快そうに笑い、サイエンの後盾として完全に機能している。
リカルドも、サイエンがもたらす桁違いの金に完全に依存しており、もはやサイエン無しでは組織の経済が回らない状態に陥っている。
そして何より、ガルシア自身が、先ほどの映像で見せつけられた『理解不能な科学力』に、本能的な恐怖を抱いてしまっていた。
「……いいだろう。麻薬部門はお前の好きにしろ、サイエン」
重苦しい沈黙の後、ガルシアはついに首を縦に振った。
「その代わり、俺の金庫には、これまで以上の金と力を注ぎ込んでもらうぞ。お前が俺に利益をもたらす『金のガチョウ』である限りは、お前の好きにさせてやる」
それは、スラムの王が実質的に敗北を認め、五歳の子供の軍門に下った瞬間だった。
「もちろんだとも、ボス。俺たちは最高のビジネスパートナーだ」
サイエンは、最高に無邪気で、そしてどこまでも冷酷な笑みを浮かべた。
カルロスの武力、リカルドの依存、そして誰にも理解できない理不尽な科学力。
すべてのピースがカチリとはまり、この巨大ギャングにおける絶対的な
もはやガルシアですら、サイエンの行動を止めることはできない。
「さあ、スラムの制圧はこれで終わりだ。次は、この腐った国全体を俺の実験場(ラボ)に作り変える準備を始めようか」
サイエンの小さな体が、VIPルームの窓から見下ろすスラムの景色を、そしてその向こうに広がる巨大な都市を、静かに睨みつけていた。
裏社会の泥水から生まれた小さな悪魔は、ついに巨大なシンジケートの心臓を完全に掌握し、次なる侵食への牙を研ぎ澄ませていた。
ここまでで一応闇堕ちルートの二章終了ですかねぇ、章分けした方が読みやすいかな?