巨大ラボの最深部。
かつてはただの資材置き場だったその広大なスペースは、ここ数日で様相を一変させていた。
床には黄色と黒の警戒ラインが引かれ、天井からは何重もの消毒用スプリンクラーがぶら下がっている。そして通路を完全に塞ぐように、軍事施設並みの分厚い気密扉が新設されていた。
入り口の横には、黄色の背景に黒で描かれた、不吉な『バイオハザード(生物学的危害)』のシンボルマークがデカデカとペイントされている。
「ようこそ、俺の新しいオモチャ箱――『生体資源管理区』へ」
特注の小さな白衣を着た俺が、誇らしげに気密扉を指差して紹介する。
その後ろで、護衛として付いてきていた警備部隊長のレオンと数人の部下たちが、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。
「さ、サイエンの坊主……。なんか、麻薬工場よりもずっとヤバそうな空気が出てるんスけど……」
「気のせいだよ。ただ少しばかり、有機的なリソースを効率よく管理するための空調と隔離システムを完備しただけさ」
俺がニッコリと笑って答えていると、ラボの搬入口の方から、ガタガタと車輪の軋む音と、汚い怒声が近づいてきた。
「放せ! 俺を誰だと思ってやがる! ベンジャミンさんの右腕だった男だぞ!」
「ひぃぃぃっ! 金なら返す、なんでもするから命だけはぁぁぁっ!」
「あ、あぁ……クスリ、クスリをくれぇ……青いヤツ……」
下っ端の回収班たちが、大型のケージ(もともとは闘犬用の檻だ)をいくつも押し歩いてくる。
檻の中にギウギウに詰め込まれているのは、スラムの吹き溜まりから集められた極上のモルモットたちだ。
俺のラボに喧嘩を売って壊滅したベンジャミン派の残党。
ブルー・ドロップの快楽に溺れ、組織に莫大な借金を作って身売りした連中。
そして、すでに脳の髄まで薬に焼かれ、まともな会話すらできなくなった末期のジャンキー。
スラムという巨大なゴミ箱から掬い上げられた、これ以上ないほど豊富な
「お疲れ様。その辺りに置いて、お前たちはさっさと外へ戻ってくれ」
俺が適当に手を振って回収班を追い払うと、檻の中の連中が俺に気づいてさらに喚き始めた。
「てめえがサイエンか! こんな檻に入れやがって、ただで済むと……」
「うるさいな。検体の分際で喋るなよ。声帯を切り取ってホルマリン漬けにするぞ」
俺が変声機を通した冷酷な声で脅すと、彼らはヒッ、と息を呑んで静まり返った。
恐怖で支配するのは簡単だが、いちいち喚かれると作業の効率が落ちる。さっさと奥の処理室へ運んでしまおう。
俺がケージのロックを解除しようとした時、後ろにいたレオンが「手伝うッスよ」と一歩前へ出ようとした。
「ストップ」
俺は短い腕を横にスッと伸ばし、レオンの歩みをピタリと制止した。
彼のブーツのつま先は、床に引かれた『黄色と黒の警戒ライン』のわずか数センチ手前で止まっている。
「え? ど、どうしたんだ坊主」
「レオン。ここから先は『レベル4・バイオハザード指定区画』だ。お前たち警備部隊の立ち入りは、いかなる理由があろうと絶対に禁止する」
「立ち入り禁止って……じゃあ、こいつらの運搬や奥の管理は誰がやるんだ? 坊主一人じゃ、こいつらが暴れた時に……」
心配そうに眉をひそめるレオンに対し、俺は極めて冷徹に、そして合理的な事実を告げた。
「暴れたら、天井に仕込んである自動機銃と神経ガスで処分するだけさ。……いいか、レオン。この気密扉の奥は、人間を解体し、未知のウイルスを撒き散らし、神経を機械と繋ぎ変える、極めて不衛生で致死率の高い『実験場』だ」
「…………」
「お前たちのような
俺は肩をすくめ、あえておどけた調子でそう言い放った。
だが、その言葉を聞いたレオンと部下たちの顔つきが、劇的に変わるのを俺は見逃さなかった。
ギャングの世界において、末端の兵隊は「使い捨ての盾」であり「弾除け」だ。危険な場所には真っ先に放り込まれるのがスラムの常識である。
しかし、俺は彼らを『高価で優秀』と評価し、絶対に危険地帯には足を踏み入れさせないという明確な線を引いたのだ。
「お前たちの仕事は、この気密扉の外側に立ち、万が一中から『何か』が逃げ出してきた時に、安全圏から弾丸を撃ち込むことだけだ。……自分たちの命の価値を安売りするなよ、レオン」
「……坊主。……いや、サイエンさん」
レオンは深く息を吐き出し、まるで神に誓うような、強烈な忠誠心を帯びた目で俺を見た。
そして、部下たちと共にビシッと背筋を伸ばし、最敬礼の姿勢をとる。
「了解したッ! この扉の外は、俺たちレオン隊が命に代えても死守する! アンタの実験の邪魔は、指一本、絶対にさせねえ!」
完璧だ。
これで彼らは、檻の中で絶望するモルモットたちと自分たちを明確に区別し、「俺たちはサイエンに選ばれ、守られている特別な存在だ」という強固な優越感を手に入れた。
感情的な優しさなど一ミリもない、極めて合理的な『義理』と『手足の運用』。だが、彼らにとっては、それが何よりも強力な洗脳として機能するのだ。
「頼もしいね。それじゃあ、少しばかり引きこもってくるよ」
俺は分厚い気密扉を開け、ケージを押し歩きながら、隔離区画の奥へと足を踏み入れた。
プシュウゥゥゥッ! という音と共に、扉が完全にロックされる。
ここから先は、倫理や人権といったくだらない概念が一切存在しない、俺だけの
俺は特注サイズの防護服とフルフェイスの防毒マスクを被り、ケージの中の怯える被検体たちを見渡した。
前世の医療現場で使われていたトリアージ(治療優先度の選別)のシステムを思い出しながら、彼らの健康状態と『用途』を脳内でタグ付けしていく。
「さて、と。まずは仕分け作業からだね」
俺はタブレット端末を取り出し、ベンジャミン派の残党の筋肉質な男を指差した。
「お前は肉体が頑丈そうだから『Aランク』だ。基礎体力があるから、【FT(フェイク・タイラント)ウイルス】――通称『αタイプ』の投与と、筋繊維の増強限界を調べるデータ取りに使える。前世の有名ゲームに出てくるバケモノの模造品さ。ベンジャミンの時みたいに、ドロドロに溶けるまで頑張ってくれ」
「ひぃぃぃッ!? FTウイルス……!? な、なんのことだか分からねえが、やめろ、俺は……っ!」
次に、借金で連れてこられた平均的な体格の男を指差す。
「お前は『Bランク』。サイバーウェアの初期研究だ。麻酔なしで脊髄に電極を打ち込んで、神経信号と機械の伝達エラーを調べる。生きたまま手足を切り落として義肢に付け替えるから、痛みに強いといいな」
「あ、あああ……っ」
そして最後は、すでに青い小瓶で脳が焼け焦げ、ヨダレを垂らしている末期のジャンキーたちだ。
「君たちは『Cランク』。もはや自我もないし、知覚神経も死んでいるから高度な実験には使えない。致死毒の耐性限界テストか、あるいはBランク以上の検体を維持するための『培養液の材料(ただの肉と血)』としてミキサーにかけることにするよ」
彼らは言葉の意味すら理解できず、ただヘラヘラと笑っている。
A、B、C。
すべての『素材』の用途が綺麗に振り分けられた。
彼らの経歴も、家族の有無も、抱えている絶望も、俺の計算式の中では何の意味も持たない。ただの「タンパク質」と「神経細胞」の塊でしかないのだから。
「さあ、偉大なる人類の進化のために、君たちの命を無駄なくリサイクルしてあげよう」
隔離された無機質な実験室に、俺の極めて無邪気で、最高に狂った笑い声が響き渡った。
カルロス配下という『絶対的な盾』に守られたこの聖域で、いよいよ俺の【生体兵器(B.O.W)】と【サイバーウェア】の開発という、最悪の胎動が始まろうとしていた。