マニラ首都圏にある工科大学の学生寮。
深夜の薄暗い部屋で、電子工学を専攻するオタク気質の大学生レイモンドは、複数並べたモニターの一つを食い入るように見つめていた。
画面に映っているのは、数日前に突然設立された謎の医療ベンチャー『サグラダ・メディカル』が、動画サイトにアップロードした一本のプロモーション映像だ。
タイトルは『明日の歩みを、すべての人へ』。
映像の中では、清潔なリハビリ施設のような場所で、手足の震えが止まらない重度の神経障害を患った患者や、下半身不随の老人が被写体となっている。
彼らの腕や脚には、白を基調とした丸みを帯びたデザインの、洗練された流線型の装具が取り付けられていた。
動画のコメント欄は、フィリピン国内の一般ユーザーからの称賛で溢れ返っている。
『神の奇跡だ! 我が国の医療技術がここまで進歩するなんて』
『涙が出た。寝たきりの祖父にも買ってあげたい』
『サグラダ・メディカルに神のご加護を』
ごく一般的な感性を持つ人間が見れば、それはただの感動的な福祉器具のPR映像に過ぎない。美しくコーティングされたプラスチックの外装は威圧感を消し去り、いかにも人に優しい医療機器というクリーンな印象を与えている。
だが、レイモンドが繋いでいる通話アプリの音声チャンネルでは、彼と同じような機械工学の知識を持つオタクやゲーマーたちが、完全にパニックに陥っていた。
『おいおいおい、冗談だろこれ。一般人はただの歩行アシスト機だと思ってるみたいだが……挙動がおかしすぎるぞ!』
『ああ、分かってる。さっきから映像をコマ送りで解析してるんだが、マジで頭がおかしくなりそうだ。……あの老人が立ち上がる瞬間の、モーターのトルク値の立ち上がり方を見たか?』
通話相手の興奮した声に、レイモンドも冷や汗を拭いながら同意する。
「ああ。あの白い装具、表面に筋電センサーらしきものが見当たらない。被験者の脊椎のあたりから、装具の内側を通って直接ケーブルが繋がってる。……これ、表面の筋肉の動きを読み取って動く従来のアシストスーツじゃない。脳から背髄を通る生体信号を、ダイレクトに機械言語に翻訳してモーターを動かしてるんだ」
『つまり、脳波コントロールの完全な神経接続ってことか!? SF映画じゃあるまいし、なんでポッと出のベンチャー企業がいきなりそんなオーバーテクノロジーを完成させてるんだよ!』
彼らが戦慄しているのは、映像の被写体が『あまりにも自然に、生身の人間と全く同じタイミングで動いている』という事実だった。
現在の最先端技術でアシストスーツを作ったとしても、人間の脳の命令から機械が実際に動くまでの間には、必ずコンマ数秒のラグが発生する。
だが、この映像の装具は違う。患者がコップの水を飲もうとした瞬間、機械の指は一ミリの遅延もなく完璧な動作で水滴をこぼさずにコップを掴んでいるのだ。
「いや、違う。よく見ろ。……これは『自然に動いている』んじゃない。あまりにも機械の処理速度が速すぎるから、生身の人間の動きに合わせるために、わざとシステム側で遅延処理(デチューン)を挟んでるんだ」
レイモンドが映像を一時停止し、装具の関節部分を限界まで拡大する。
「この関節部のシリンダー、サイズに対して出力の限界値が計算に合わない。これ、もしソフトウェアのリミッターを完全に外したら……どうなると思う?」
『……装着した老人の脚力で、コンクリートの壁を蹴り砕ける。腕なら、人間の頭蓋骨くらい簡単に握り潰せるぞ。間違いない。この医療機器の設計思想は、福祉なんてものじゃない。完全に軍事用のパワードスーツ……いや』
通話先の友人が、ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。
『俺たちがいつも遊んでるゲームに出てくる、戦闘用のサイバーウェアだ。攻殻機動隊やサイバーパンクの世界観そのままの、ガチのバケモノ技術だぞ』
オタクたちの間で、興奮と恐怖の入り混じったどよめきが広がる。
誰かが意図的に、とんでもない軍事技術を『お年寄りに優しい医療機器』というオブラートに包んで、このフィリピンの市場に放流しようとしている。
装具の白いプラスチックのカバーを引っぺがせば、そこには殺戮のための冷たい鋼鉄の骨格と、悪魔のような演算チップが隠されているに違いない。
「……一体、どこの誰がこんな狂った物を作ったんだ。アメリカの軍事企業か? いや、それなら真っ先に本国で発表するはずだ。なんでマニラの、名前も聞いたことがないベンチャー企業なんだ」
レイモンドはモニターに映る『サグラダ・メディカル』のロゴを見つめながら、ゾクリと背筋を這い上がる悪寒を感じていた。
この国の裏側で、途方もない知能を持った『誰か』が、静かに世界を書き換えようとしている。
だが、彼ら一部の熱狂的な技術オタクやゲーマーたちがSNSの片隅でどれだけ騒ごうとも、その声は圧倒的な『奇跡の医療』を称賛する一般大衆の声にかき消されてしまう。
ましてや、遠く離れた海の外、日本の巨大掲示板やテクノロジー界隈にこのニュースが届くのは、まだもう少し先の話だ。
世界はまだ気づいていない。
このフィリピンのスラムから産声を上げた、人類を機械の依存へと沈める甘く危険な罠の存在に。
レイモンドは震える手で映像をリプレイしながら、画面の向こう側で冷笑しているであろう『正体不明の設計者』の底知れぬ狂気に、ただただ圧倒されることしかできなかった。