深夜のマニラ首都圏、スラムの裏路地。
かつてベンジャミン派と縄張りを争っていた弱小ギャングのたまり場から、悲鳴と銃声、そして何かを叩き潰すような鈍い破壊音が響いていた。
「ひ、ひぃぃっ! なんだこいつ、鉛玉を何発撃ち込んでも止まらねえぞ!」
「腕が……腕が、鉄でできてやがるッ!」
月明かりに照らされた路地に、異形の怪物が立っていた。
右肩から先が無骨な金属の義腕にすげ替えられたその男は、口から赤黒い涎を垂らし、白目を剥いて暴れ狂っている。
巨大ラボから逃げ出した――正確には、実地データ収集のためにあえて野に放たれた初期試験体だ。
琥珀色の制御薬の投与が途絶えてから二十四時間。
拒絶反応により義腕の接続部の肉は腐り落ち、神経が焼き切れる激痛を、大脳が無理やり快楽と闘争本能に変換して暴走している。
怪物は振り上げた鋼鉄の拳で、ギャングの一人の頭蓋骨を容易く粉砕した。
『ふむ。薬効が切れてから完全に理性が崩壊するまで、約十八時間。その後の暴走モードでの稼働限界は六時間といったところか。いいデータが取れたね』
上空を旋回する小型の監視ドローンを通じて、通信機から呑気な声が響く。
惨劇の現場から少し離れた安全圏。バリケードの陰に身を隠しているのは、カルロスの直属部隊であるレオンたちだった。
彼らの装備は、古びたアサルトライフルと防弾チョッキだけだった頃とは別次元の代物になっている。
レオンの腕には、関節の動きをサポートしつつ銃の反動を殺す軽量外骨格。顔には熱源探知と通信機能を備えた暗視ゴーグル。インナーには、生体サインを常にラボへ送信し続ける特殊な防弾繊維が仕込まれている。
「……旦那。そろそろ俺たちの出番か?」
『いや、まだだ。彼にはもう少し、あそこの縄張りを荒らして敵対組織の数を減らしてもらう。君たちをあんな汚い肉塊と直接殴り合わせるような、リスクの高い運用はしないよ』
ドローン越しの声と同時に、路地の上空に浮かんでいた数機の機体が動いた。
表向きはサグラダ・メディカルの倉庫監視用として開発されたはずの小型ドローンは、一斉に高度を下げると、暴走する試験体に向かって高圧電流のワイヤーを射出した。
バチバチバチッ! という青白い閃光。
「ア……ガ、ァァァァッ!!」
数万ボルトの電流を直接神経に流し込まれ、試験体の巨体がビクンと跳ねて地面に倒れ伏した。
すでに限界だった肉体がトドメを刺され、痙攣した後に沈黙する。
『鎮圧完了。さあ、レオン。安全を確認したから、死体の回収と現場の後片付けを頼むよ。感染症のリスクがあるから、防護手袋は外さないようにね』
「了解した。行くぞ、お前ら」
レオンの合図で、部隊のメンバーが一斉に路地へと突入する。
抵抗する者のいない静まり返った現場で、彼らは手慣れた様子で死体を防臭袋へと詰め込んでいった。
「しかし、すげえなこれ。重い死体を二人で担いでも、羽みたいに軽いぜ」
「ああ。この腕のサポートフレーム、マジで神機だ。これなら一晩中作業しても疲れねえよ」
部下たちが外骨格の性能に興奮気味に言葉を交わしている。
これまでのレオンたちなら、あんな怪物を相手にすれば部隊の半数が死傷してもおかしくなかった。だが今は、涼しい顔をして安全圏から死体を拾うだけの清掃作業だ。
あの五歳児の言う通り、自分たち身内は絶対に危険な目に遭わされていない。
その事実が、レオンの心に強烈な安堵と畏怖の両方を植え付けていた。
「手際がいいね。その調子で、街に放った残りのデータ回収もよろしく頼むよ」
通信機から聞こえる声は、相変わらず無邪気で楽しそうだ。
このスラム街全体が、今やあの小さな悪魔の巨大な実験場と化している。
敵対するギャングは試作品のモルモットとして消費され、街の住人たちは何も知らないまま、恐怖に怯えてカルロスの組織へと保護を求めてくる。
完璧にコントロールされた、拒絶反応と破壊のショーだ。
レオンは小さく息を吐き、暗視ゴーグルの設定を切り替えながら、次の回収地点へと足を踏み出した。