マニラ首都圏の中心部、数万人を収容できる巨大な屋外スタジアムは、地鳴りのような熱狂と、割れんばかりの大歓声に包まれていた。
眩いばかりのホワイトのスポットライトが交差するステージの中心。汗に濡れた額を拭うこともせず、力強くマイクを握りしめているのは、次期大統領選の最有力候補と目されている若手政治家、ホセ・フェルナンド上院議員である。
『――善良なる市民の皆様! 我が国は今、目に見えない恐ろしい病魔に侵されています! 街の裏側に蔓延る麻薬カルテル、そしてそれらと癒着し、私腹を肥やす腐敗した権力者たちです!』
スタジアムの巨大モニターに映し出される彼の表情には、打算や嘘といった濁りが一切ない。
貧困層の出身から苦学の末に弁護士となり、弱者のために戦い続けてきた輝かしい経歴。端正な顔立ちと、聴衆の心魂を揺さぶるような情熱的なスピーチ。彼はまさに、この腐敗しきったフィリピンという国に舞い降りた、清廉潔白を絵に描いたような
『私は誓います! この命に代えても、すべての悪を根絶やしにし、子供たちが安心して暮らせる清潔な未来を皆様にお約束いたします!』
フェルナンドの名前を呼ぶシュプレヒコールが、マニラの夜空を物理的に震わせる。
熱狂の渦の中で、市民たちは救世主を見出したかのように涙を流し、拳を突き上げ、青年の名を叫び続けていた。
ところ変わって、マニラの深い地下。ラ・サグラダ・マノの最高幹部たちが集う、重厚な防音扉に守られたVIPルーム。
スタジアムの熱狂を余すところなく伝える大型モニターに向かって、組織のボスであるガルシアが、高級なウイスキーのグラスを思い切り壁に叩きつけていた。
「あの青二才が……! 調子に乗りやがって、俺たちのシマを綺麗にするだと!?」
「落ち着いてください、ボス。ですが、確かに極めてマズい状況なのは確かです。奴の支持率は、現在すべての候補者をぶっちぎってトップを独走している。このまま奴が大統領の椅子に座れば、我々のフロント企業の認可や、裏の物流ルートにまで本気でメスが入る可能性がありますよ」
ガシャンと派手な音を立てて砕け散ったガラス片を気にも留めず、金庫番のリカルドが胃薬をボリボリと、まるでお菓子のように噛み砕きながらタブレットの数値を睨みつける。
フェルナンド議員の支持率がパーセンテージを上げるたびに、彼らが裏金で飼い慣らしていた癒着政治家たちの息の根が止まり、組織の収益予測に暗い影を落とし始めていたのだ。
「カルロス! お前のところの特殊部隊を動かせ! あの鬱陶しい演説野郎の頭に、今日中に風穴を開けてやるんだ!」
「……俺は構わねえが、坊主の許可がいるぜ。そうだろ?」
激昂して唾を飛ばすガルシアに対し、カルロスは葉巻の煙をゆったりと吐き出しながら、部屋の奥のソファへと視線を向けた。
そこには、十代前半の少年にまで成長した身体をふかふかのクッションに深く沈め、最高級のショートケーキの苺をフォークで愉快そうにつついている青年がいた。
特注の真っ白な白衣を羽織った彼は、呆れたようなため息をわざとらしく吐き出してみせる。
「ガルシアさん、それは三流以下のチンピラが打つ、最悪の悪手だよ。今の彼を暗殺なんかしてみなよ。悲劇の殉教者として永遠に美化されて、大衆の怒りに本気で火をつけてしまう。俺たちが火ダルマになっておしまいさ」
「サイエン……じゃあどうするってんだ! このままおめおめと、正義の鉄槌とやらを下されるのを待てってのか!」
「誰もそんなことは言っていないよ。むしろ、彼には最高の舞台を用意してあげるべきだ」
フォークを置き、モニターの中で汗を流して熱弁を振るうフェルナンド議員を指差す。
彼は確かに清廉潔白で、正義感に溢れ、賄賂も女の罠も一切通用しない。汚れを知らないからこそ、最高に扱いやすい極上のオモチャになるのだ。
「俺たちが使うのは、銃弾でも毒薬でもない。情報の波だよ。名付けて、印象操作システム『
「メンタル……なんだって? またお前の、その得体の知れない魔法か」
「魔法じゃない、ただの極めて高度なアルゴリズムと心理誘導さ。いいかい、彼本人を直接洗脳するわけじゃないんだ。そんな無粋なことをすれば、あの本物の情熱が失われて、ただの薄っぺらい操り人形に成り下がってしまうからね。……俺たちが弄るのは、彼の周囲のスタッフと、大衆の
立ち上がり、部屋のメインコンソールを操作して、膨大なデータリンク図を空中にホログラムとして展開する。
すでに市中には、サグラダ・メディカルが販売した視覚補助ARバイザーや、神経を加速させる合法パッチが大量にばら撒かれている。それらのデバイスと、都市の監視ネットワークをフル活用するのだ。
フェルナンドの秘書やスピーチライターが日常的に使う端末に、極めて巧妙なサブリミナル信号と、生体データを読み取った上での最適化された情報を流し込む。彼らの思考を、ほんの僅かだけ、特定の方向へと誘導していく。
「例えば、彼の演説の原稿から『サグラダ・メディカル』という単語に対する敵意を少しだけ削り、代わりに俺たちと敵対しているライバルカルテルや、邪魔な汚職政治家の名前を強調するように、スタッフの思考を無意識のうちに誘導する。SNSのアルゴリズムも完全に操作して、彼が俺たちの邪魔になる法案を口にした時は全く拡散させず、逆に俺たちの利益になる発言をした時だけ、爆発的にバズるように仕向けるんだよ」
「……つまり、周囲の人間とネットの空気を操作して、奴の正義の矛先をコントロールするってことか。当の本人は、自分の意志で動いていると信じたまま」
リカルドが、冷や汗を拭いながらホログラムを見つめる。
「その通り。本人は、自分自身の絶対的な正義感で動いていると信じて疑わない。だがその実態は、周囲のスタッフが用意した歪な情報と、大衆の作られた熱狂というレールの上を全力で走らされているだけの、哀れなトロッコだ」
愉快でたまらないといった様子で、クスクスと笑い声を漏らす。
本人が気づかないまま、彼の清廉潔白な怒りの矛先は、すべてサグラダ・メディカルの政敵や商売敵へと正確に誘導されていく。
「あの正義の味方は、知らねえうちに俺たちのための無料の掃除屋として働かされるってわけか。……えげつねえな、相変わらず」
「俺たちは一切手を汚さず、完全無欠のクリーンなヒーローに、邪魔なゴミを片付けてもらうのさ。そして彼は、大衆から拍手喝采を浴びながら、この国のトップへと押し上げられていく。……これほど面白くて、痛快な喜劇は他にないと思わないかい?」
誰も口を挟めない沈黙の中、再びソファに座り直し、残っていたショートケーキの苺を口に放り込んで甘さを堪能する。
正義も、悪も、大衆の熱狂すらも、すべては盤上の駒にすぎない。
本物の正義感すらもアルゴリズムで飼い慣らす。かつてのSF小説やサイバーパンクの作品で描かれていたディストピアの支配構造が、今まさに現実のものとして機能し始めていた。
フィリピンという国家の形が、青い手のひらの上で、音を立てて歪な形へと作り変えられていく。