BETAによるオムスクへの侵攻が始まってから、数時間が経過した。
かつてはシベリアの短い夏を謳歌するように広がっていたステップの緑が、今は見る影もない。地平線まで続いていたはずの草原は焦土に変わり、無数のクレーター状の爆発痕が、大地を覆い尽くしていた。方々で黒煙が柱のように立ち上り、まだ消えぬ炎が点在して、その光が低く垂れ込めた煙に反射し、オムスク郊外全体を赤黒い薄暗さの中に沈めている。
空気が、重い。
硝煙と、BETAの粘ついた体液の悪臭と、焼けた金属が混ざり合った腐敗の匂い。肺に入るたびに気管が拒絶反応を示す。
この世界でしか嗅ぐことのできない臭気だ。先遣偵察班の兵士達は防毒マスクを装着しているが、それでも完全には遮断できない。
そんな廃墟の中に、一際異様な光景があった。
「……気味が悪りぃ。一体俺たちは何を見させられてるんだ?」
兵士の呟きが、防毒マスクの内側で籠もった音になった。
彼が見つめる先にあるのは―――活動を停止したBETAだった。
戦車級が数十体。要撃級が30を超える数。突撃級が数体。計97体。いずれも欠損や外傷を持ちながら、交戦の痕跡のない戦場の一角に、糸が切れた操り人形のように倒れ込んでいた。突進の最中に停止したものか、前傾姿勢のまま地面に顔面から突っ込んでいる個体まである。
恐ろしいのは、その整然とした死に様だった。
「おいおいッ!触るなよ!上層部に何されるかわからねぇぞ!!」
軍曹が鋭く制した。誰も動かない。誰もが、言いようのない悪寒を感じていた。戦場で死んでいるBETAなど、珍しくも何ともない。毎日、何千、何万と殺してきた。しかし―――今日見た光景は全く、別次元の話だった。
―――
オムスク北部航空基地 地下第■■層統合作戦会議室
―――
蛍光灯の白光だけが支配する、密閉された空間。
外の戦場の喧騒は、コンクリート数メートルの壁に完全に遮断されていた。しかし、この部屋の緊張感は、外の戦場とは別種のものだった。生死を賭けた戦いとはまた異なる、政治的・戦略的な重圧が、空気そのものを圧縮しているかのようだった。
長方形の会議テーブルを囲む将校達は、いずれも肩書と武勲を持つ者ばかりだ。
上座には、オムスク防衛軍集団司令官・ミハイル・ヴィクトロヴィチ・ゴルデーエフ大将。六十代に差し掛かろうとする年齢でありながら、その眼光に衰えはなく、対BETA戦だけならずロシア統一戦争でも長く戦い続けてきた人物だ。傍らに控えるのは、第一方面軍参謀長・ワレンチン・セルゲーエヴィチ・ルドネフ中将。その他、第三独立近衛戦術機甲連隊長、後方兵站部長、情報参謀、そして——異例のことだが——ソヴィエト連邦共産党中央委員会から派遣された政治将校の姿もあった。
総勢二十三名。この国の最前線における頭脳が、一つの部屋に集まっていた。部屋の正面、大型スクリーンの前に立つのは、分厚い眼鏡をかけた細面の男だ。
ドミトリー・アレクサンドロヴィチ・クズネツォフ博士。ソヴィエト連邦科学アカデミー特別研究所首席研究員でたり、専門はBETA行動解析及びハイヴ構造学。階級こそ持たないが、その研究成果はここ数年の対BETA作戦立案に直接影響を与えてきた、この国のBETA研究における第一人者だ。
「それでは―――始めましょう」
博士は細い指でメガネのブリッジを押し上げ、手元の端末を操作した。
「本日14時より17時30分にかけて、オムスク防衛区画座標グリッドUD-77、北緯54度38分、東経73度22分を中心とする半径約80Km圏内において、クラスノヴィシェルスクハイヴ起源と推定されるBETA群による大規模侵攻が実施されました。
我が防衛部隊の主力は第三戦術機甲連隊。戦闘継続時間は3時間30分。確認撃破BETA数は暫定で8000体超。我が方の損害は、戦術機四機大破、二機中破。搭乗員の損失はゼロです」
室内に、ざわめきが走った。
三時間半の防衛戦で、搭乗員の損失ゼロ。
それは、異常なほどの低損害だった。しかしクズネツォフ博士の次の言葉が、その束の間の安堵を完全に消し去った。
「ここで、一点ご覧いただきたいものがあります」
スクリーンが切り替わる。戦場の俯瞰映像。交戦跡のない焦土の中に、不自然な密度で倒れ込んでいる複数の物体。
「本日17時頃、戦場後方における先遣偵察班が撮影した映像記録です。確認されたのは自然停止状態のBETA、計97体。内訳は戦車級が最多で、突撃級、要撃級が数体含まれます。いずれも、我が部隊との直接交戦記録が存在しない個体です。一部に外傷が確認されますが、活動停止の直接原因は外傷ではないと、研究班は判断しています。」
「自然停止……?」
ルドネフ中将が低く確認する。
「はい。現時点での研究班の見解では、何らかの内因性または外部制御的要因による、統制的な活動停止と考えています。機序の詳細は不明です。研究は継続中ですが―――この事象は、次に申し上げる仮説をより確実なものとする傍証として位置付けています」
博士はスクリーンをユーラシア大陸の広域戦略地図に切り替えた。クラスノヴィシェルスクからオムスクにかけての広大な地域が表示され、複数のデータが重ねて表示される。
「本題に入ります」
博士の声音が、わずかに変わった。
「ここオムスクは、BETAによる次期ハイヴの建造候補地点である―――これが、我々研究班の現時点における統一見解です」
静寂。
ゴルデーエフ大将の眉が、かすかに動いた。誰も口を開かない。
「根拠は三点です」
「第1―――BETA侵攻規模の経年的増加」
「クラスノヴィシェルスクハイヴの確認から現在に至るまで、オムスク防衛区ならびにオムスク—スルグート—ノーヴィ・ウレンゴイを結ぶ防衛ライン全域において、四半期ごとの侵攻BETA数が統計的に有意な増加傾向を示しています。直近二年のデータでは、前年同期比で平均3.1%の増加。これは単純な補充増加ではなく、ハイヴの成熟に伴うBETA全体量の増大を示すデータです」
「第2―――既存ハイヴ建造間隔との地理的一致」
「現在、全世界で確認されているハイヴ間の平均直線距離は、1000から1500kmと推定されています。クラスノヴィシェルスクからオムスクまでの直線距離は、約1100キkm。この数値は許容誤差の範囲内に収まります。加えて、本防衛ライン三都市の中でオムスクが突出して高い侵攻圧力を受けている事実―――直近六ヶ月の平均では、スルグート及びノーヴィ・ウレンゴイ方面の二倍以上の侵攻BETA数が記録されています。BETAが特定の目標地点に向け収束行動を取っている可能性を、強く示唆します」
会議室の空気が変わっていく。参謀達の顔に、思考の色が滲んでいた。否定したい者。既に確信している者。何かを計算している者。
「そして第3―――クラスノヴィシェルスクハイヴのフェイズ移行について」
博士は端末を一度確認し、顔を上げた。
「本日12時頃。在ワシントンのアメリカ合衆国国防総省より、KY-17暗号通信にて緊急入電がありました。内容は―――クラスノヴィシェルスクハイヴが、フェイズ4への移行を完了したというものです」
フェイズ4。
その二文字が部屋に落ちた瞬間、会議室の空気が決定的に変わった。フェイズ4―――それが何を意味するか、この部屋の全員が骨の髄まで理解していた。フェイズ4のハイヴは周辺への侵攻圧力を格段に高める。
つまり。
「以上三点を総合した、研究班の結論は明白です。クラスノヴィシェルスクハイヴはフェイズ4に到達し、このオムスクは高確率で第二ハイヴの建造予定地点として選定されています。我々に残された時間は、長くない」
ゴルデーエフ大将が、初めて重い口を開いた。
「……確率は、何%と見る」
「研究班の試算では―――72%です」
誰もが沈黙した。否定できない数字だった。
大将は静かに手を組み、一言だけ言った。
「続けろ」
クズネツォフ博士は頷き、スクリーンを再び切り替えた。そこに映し出されたのは、赤いソヴィエト国章が押印された一枚の公式命令書だった。
「これを受けて、ソヴィエト連邦最高司令部スタフカは本日16時、正式命令を下達しました」
博士の声が、静かながらも確固たる響きを帯びた。
「クラスノヴィシェルスクハイヴ攻略作戦——作戦名」
一拍。
「『
「本作戦は、今より一ヶ月後を第一攻勢日として設定。参加戦力はソヴィエト連邦軍を主軸に、大東亜共栄圏大陸派遣軍、アメリカ合衆国及び自由国家機構軍との三国共同作戦として実施されます。動員予定の戦術機総数は現計画で1200機超。陸上打撃部隊、戦術航空支援部隊、後方兵站部隊を包含する統合作戦として―――これはソヴィエト連邦史上のみならず」
博士は部屋を見渡した。
「この作戦はパレゴロオス作戦に次ぐ対ハイヴ攻略作戦となります」
部屋の全員が、静かに唾を飲み込んだ。
「この一ヶ月―――オムスクはその作戦の前線集結拠点、主補給基地として機能します。諸君のオムスク防衛は、単なる一都市の防衛ではない」
クズネツォフ博士は端末を置き、顔を上げた。
「人類の反攻の、礎です」
誰も、何も言わなかった。
蛍光灯の白い光だけが、静かに部屋を照らし続けていた。