Muvluv The New Order   作:不凍港

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残照

酒泉基地の夜明けは、いつも煤の匂いから始まる。

 

昭和五十年(1975年)四月。かつて河西回廊を吹き抜けていた乾いた西風は、今では硫黄と焦げた砂と、もうひとつ別の何か―――名前をつけたくない何かを運んでくる。空は灰色だ。昨年から成層圏に漂い始めた核の灰が、朝焼けを殺している。橘壮一郎(タチバナソウイチロウ)少佐は格納庫の前に立ち、煙草を一本口にくわえたまま、火をつけなかった。

 

三年前まで、彼は空を飛んでいた。

 

四十八式戦闘機《疾風》の操縦桿を握り、高度12000mで音の壁を破る感覚―――あの振動と轟音と、それが過ぎ去った後の静寂を、橘はまだ覚えている。

 

今、彼が乗るのは帝國が開発した鉄の巨人―――世界共通名称―――《戦術歩行戦闘機(Tactical Surface Fighter)》だ。

 

格納庫の奥の薄明かりの中に三四式戦術歩行戦闘機《閃光》が立っている。全高十八メートル。人に似た形をしているが、人とは全く違う。

 

頭部の複合センサーユニットが橘を見下ろしている。

 

「少佐」

 

低い声が背後からかかった。

 

金賢俊(キム・ヒョンジュン)中尉。第一中隊長にして橘の副官、第三大隊で最も寡黙な男が、格納庫の入り口に立っていた。手に整備報告書を持っている。橘と同じく、出撃用の連動装具*1をすでに着込んでいた。深緑の被膜が蛍光灯の光を鈍く返している。

 

「何機だ?何機生き残っている。」

橘は振り向かずに訊いた。

「現在稼働11機。閃光6(シックス)は左膝関節部の油圧シール交換中。今日中には上がると思います。」

「今日の作戦には間に合わせろ」

「―――は」

金はそれだけ言って、橘の隣に並んだ。二人は並んで《閃光》の一番機を眺めていた。

 

……

 

……

 

……

 

沈黙が続いた。金は余計なことを言わない男だ。それが橘には心地よかった。

「ハル曹長から伝言があります」

金が言った。

「昨夜の出撃で右肩部アクチュエータに過負荷がかかっているので、今日は激しい機動を控えてほしいと」

橘は口の端をわずかに動かした。

「伝えろ。善処はする。」

「少佐が善処するとおっしゃるときは、善処しないときだと曹長はご存じです」

「そうか」

「はい」

 

また沈黙。格納庫の外から、整備兵たちの声と金属音が聞こえてくる。一日が始まろうとしていた。

 

 

―――

 

 

第三大隊の現状を、数字で語れば単純だ。

 

定数36機。現有11機。欠員25機——昭和四十九年の実戦投入から今日まで、第三大隊が失った機体の数だ。機体の数だけ、仲間が死に、あるいは機体よりも多くの人々が死んだ。

 

一個大隊は三個中隊編成が本来の姿だ。第一中隊・第二中隊・第三中隊、それぞれ十二機三個小隊構成。しかし今の第三大隊は、その名前だけを維持して実態が変わっている。第三中隊は事実上消滅しており、第一・第二中隊を合わせて十一機——これで全てだ。

 

橘は大隊長でありながら、自らは第一小隊長として機体に乗る。大隊長が直接操縦桿を握ることへの異論はある。しかし橘は動かなかった。理由は単純だった。前線に機体が、人が足りていない。司令本部機として護衛二機を引き連れた独立ポジションなど、今の第三大隊には贅沢すぎる。

 

室田 耕三大尉が橘の執務室に現れたのは、朝食の後だった。細身の男だ。眼鏡をかけ、指先にはいつも微かな機械油の匂いがある。三四式の設計に五年を注ぎ込んだ技術士官。橘が知る限り、室田ほど誠実にこの機体と向き合っている人間はいない。

 

「昨夜の戦闘データを解析しました」

室田は報告書を机に置きながら言った。

「水平噴射中の傾き―――3度8分、持続時間0.7秒。少佐が手動修正に入るタイミングは相変わらず誰より早い。補正制御が介入する0.3秒前に、もう動いている……」

「慣れただけだ」

「……そうかもしれませんね」

室田は眼鏡の奥の目を細めた。

「ですが、3年間あの機体の悲鳴を聴き続けてきた人間の身体が覚えていることは、データには出ません。それが少佐の強みです。」

橘は答えなかった。代わりに、机の上の報告書を手に取った。

「3機だな。昨日失ったのは」

「閃光17、19、23。……17の衛士は?」

「……橋本少尉。十九歳でした。着任してからたった3週間……」

3週間。橘はその数字を頭の中で繰り返した。繰り返すことに意味はない。ただ、繰り返さずにはいられない。

「確か……要撃級(グラップラー)に殺されたのか。」

「はい。前腕衝角の直撃でした」

橘は報告書を閉じた。

「閃光6は……今日の作戦には間に合うか?」

「間に合わせます」

室田は即答した。

 

橘はその「間に合わせます」という言葉を、二年前に初めて聞いた。補正制御のない機体が、荒天下の艦上着艦試験で横転し、海に沈んだ浜田誠一中尉が死んだ夜——室田は橘の前に立って、ひとことそう言った。声は震えていた。眼鏡の奥が赤かった。それ以来、この男の「間に合わせます」は橘にとって証明済みの言葉になった。

 

頼む」と橘は言った。

 

―――

 

―――

 

―――

 

作戦会議は正午に行われた。

 

第七大陸戦術機甲師団の隷下各大隊の指揮官が一堂に会する。師団長の藤村中将は地図を前に、淡々と状況を語った。

「BETAの東進は止まっていない。前夜の観測によれば、酒泉市まで160kmの地点にBETAの大規模群が確認された。構成は要撃級、突撃級、要塞級。そしてその他小型種。本日夕刻には接触が予想される」

地図の上に赤い矢印が描かれる。三年前、その矢印は遥か西の、新疆の奥深くにあった。今は甘粛の喉元まで伸びている。

「要塞級……」橘は確認した。

「光線級の随伴は?」

「衛星観測上は確認されていない。ただし、要塞級の胎内から随時出現する可能性は排除できない」

橘は頷いた。撃破後の残骸から光線級が這い出てきた例を、橘は知っていた。仕留めた後こそ危ない。

「第三大隊は左翼を担当。陸軍砲兵隊と連携しつつ、戦線南端の突破を阻止せよ。本日の稼働機数は?」

「十二機であります」

橘は答えた。今日中に閃光六が上がれば、だが。

「承知した。健闘を期待する

 

 

 

格納庫に戻ると、佐伯ハル曹長が《閃光》の一番機の右肩を仁王立ちで見上げていた。四十代の女性で、顔には戦場の疲れと、それよりもっと古い疲れが刻まれている。整備工具を握った手は機械油で黒い。

「少佐」

ハルは橘が近づくのを感じて振り向いた。

「右肩のアクチュエータ、今夜の作戦の前に一度みてください。荷重が偏っています。」

「わかった」

「本当にわかっていますか?今月だけで三回、過負荷警告が出ています。」

「今日の敵は小型種が主体だ。近接戦になる」

「だから言っています」

ハルは腕を組んだ。

「小型種が機体に届く前に手を引いてください。機体が壊れたら困るのは少佐ですよ?」

橘は黙って《閃光》を見上げた。

「ハル曹長」

と橘は言った。

「息子さんは今年で三回忌か」

ハルの肩がわずかに動いた。

「はい」

「前線だったな」

「喀什です。」

二人は並んで戦術機を見上げた。しばらく何も言わなかった。

「機体を守ります」

橘は最後に言った。

「だから、機体を最高の状態で送り出してくれ」

ハルは短く

「はい」

と言い、工具に視線を戻した。

 

出撃前、橘は全機を格納庫前に集めた。

12機の《閃光》が横一列に並んでいる。衛士たちはコクピット前に立ち、全員が連動装具を着込んでいる。ヘッドセットはまだ上げていない―――あれは座席に収まって初めて本領を発揮する。今はまだ、顔に当たる風を感じていられる最後の時間だ。

 

「今日の敵編成を確認する」

橘は言った。

「先鋒は突撃級。知っての通り、時速170kmで直進してくる。だがその分旋回能力が低い。側面出られれば怖くない。正面からは、絶対に受けるなよ。」

淡々と告げる。

「次に来るのは戦車級の大群だ。単機で深追いするな、必ずエレメントを組み、距離を取れ。そして、要撃級が混在しているはずだ。前腕衝角の攻撃範囲は直径39m。その内側に入るな。側面か後方から仕留めろ」

一息ついた。

「要塞級が複数確認されている。要塞級は、砲兵隊が優先して狙う。要塞級を撃破した報告が上がっても、残骸には30秒以上は近づくな。光線級や戦車級が出てくる可能性がある。予備照射が来たら全機できるだけBETAの死骸を盾にしろ再照射まで十二秒ある―――その間に距離を詰めろ」

 

最後に、橘は全員を改めて見渡した。最年少の安田少尉——二十一歳、今日が初めての大規模戦闘―――顔が、わずかに強張っている。

 

「お前達、生きて帰れ」

と橘は言った。

 

十二の声が、それぞれの言葉で了解を返した。

 

 

 

*1
35式衛士連動装具。マブラヴオルタで言う衛士強化装備にあたる

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