コクピットに乗り込むと、世界が変わる。
シートに背を預ける。連動装具のコネクタが座席と噛み合い、身体が固定される。機体の電力が装具に流れ込み、視界の端にデータが浮かぶ。―――味方機の位置、砲兵隊の射撃諸元、そして……前方のBETA群。
操縦桿を握る。
ブーツの底に、地面を踏むかのような感触がある。18mの機体に乗っているのに、地面の硬さが足裏に届く。前はそれが不思議で仕方なかった。―――しかし今はもう、当たり前のことになっている。
右肩部の警告灯が黄色だ。注意レベル。赤ではない。動ける。
「全機、戦闘準備完了ッ!」
金の声が響いた。
『―――ってぇ―――ッ!!』
砲兵隊の初弾が飛び、大地が揺れた。
「全機、跳躍ユニット点火。前進を開始するッ!BETA共をこれ以上進めさせるなッ!」
「「―――了解ッ!」」
橘は操縦桿を倒した。【閃光】が地を蹴る。重力が消える一瞬——地を離れ、低空を滑る感覚。テストパイロット時代のそれとは違うが、似ている。
灰色の空を一瞬見上げた。かつて見ていた「蒼かった空」を思い出した。それからBETAを見た。
右肩部アクチュエータが、わずかに振動した。傾き始めの悲鳴だ。橘はそれをよく聴いていた。補正制御が入る前に、手が動き、機体が安定する。
「【閃光】、行くぞ」
と彼は一人で呟いた。
―――
―――
―――
最初の三十分は、序章に過ぎなかった。
「第一小隊、側面へ。正面には入るな」
『―――了解』
橘は左上に跳躍した。突撃級の側面が露出する―――
「第二小隊、同じ要領で」
第二小隊が動く。突撃級の群れが薄くなり、次の波が来た。
数百の赤い点が地平線を埋めている。全高2.8メートルの小型種。―――単体なら怖くない。だがこいつらが恐ろしいのは、他BETA種とは比べ物にならない程の圧倒的物量だ。金属をもかみ砕く顎が、時速80kmで押し寄せてくる。
『戦車級が南側から圧を上げています』
金の声が届いた。
「第二小隊の担当区域……密度が高いな。」
「第二小隊、後退しながら引き付けろ。既に砲兵には座標を送っている」
『―――了解です』
矢部中尉の声。その時、視界の端に安田機のデータが見えた。心拍の数値が高い。それだけでわかる。
「安田」橘は直接呼んだ。「前の機の動きを真似ろ。」
短い間があった。
『……了解です』
落ち着いた声ではなかったが、答えは返ってきた。それでだけで十分だ。
数分後、
戦車級の群れが左右に割れた。道を開けている。
「道を開けるだと……こんなのはじめて……」
多足で疾走する要撃級の影が迫る。―――全高12mの怪物が、前腕衝角を地面に叩きながら前進してくる。
「「全小隊、注意!要撃級が前進してくるぞ!側面を取れ、正面に立つな!」」
第二小隊の閃光七番機が側面を狙って斜め前進した。しかし戦車級の群れが同時に飛びついてくる。速度が落ちた瞬間、要撃級の前腕衝角が旋回した。
「七番機、後退しろ!」
間一髪、前腕衝角が地面を抉った。七番機は無事だが、体勢が崩れ、戦車級の中に沈みかけた。橘は動いた。右から要撃級の側面へ。20mmを甲殻の継ぎ目に叩き込む。一射、二射——要撃級が向きを変えようとした瞬間、橘は後退した。前腕衝角が空を切った。
「七番機、今のうちに離脱しろ」
『……了解。感謝します』
右肩部の警告灯が橙に変わっていた。橘は手動補正を入れながら、全方向のセンサーを確認した。
付近に要撃級は7体いた。一体は砲兵の集中射撃で動きが鈍っている。一体は第一小隊が側面から削り続けている。そして一体——
「少佐!左方!」
金の声。
橘がセンサーを左に向けた瞬間、
小さい目が橘の《閃光》を捉えた瞬間——
「全機、伏せろ! 光線級だ!」
橘は《閃光》を地面に伏せた。膝をついて機体を低く、投影面積を最小化した。
青い光が走った。
《閃光》の頭部センサーユニットのすぐ上を、光線が通過した。
「照射確認! 再照射まで十二秒! 数えろ!」
橘は立ち上がりながら距離を詰めた。光線級の目が動く——照準を合わせようとしている。
《閃光》の右腕が、光線級を潰した。骨格のような硬い感触。それから、なくなった。橘は周囲を確認した。三十秒程待った。何も出てこなかった。長く息を吐いた。
「全機、状況を報告しろ」
声が返ってきた。九つの声が。
九。
橘は目を閉じた。一秒だけ。
「閃光八、十一、十二―――応答なし」
金の声が静かに言った。
『三名と……判断します』
三機。三名。
八番機——尾崎中尉、二十八歳。十二番機——田中中尉、三十四歳。十一番機——安田少尉、二十一歳。
「前の機の動きを真似ろ」と言った、あの若い衛士。
橘は目を開いた。
「残存九機、後退ラインまで離脱。砲兵隊に状況を報告して陣地を引き継がせろ」
『少佐』
金が言った。
『……了解しました』
《閃光》が地を蹴った。後退する。生きた者を、生きたまま連れて帰るために。
―――
―――
―――
格納庫に戻ると、そこにはハル曹長の姿があった。
機体の整備灯に照らされながら、彼女は静かに待っている。橘がコクピットハッチを開き、タラップを降りて地面へ降り立つと、ハル曹長はすぐに視線を機体へ向けた。《閃光》の右肩部装甲を確かめるように撫でながら、低く言う。
「言いましたよね」
責めるでもなく、ただ事実を確認するような声音だった。
「言った」
橘は短く答えた。言い逃れはしない。要撃級の側面を取るために無理な急旋回をかけた。右肩のアクチュエータに負荷がかかることは、動く前からわかっていた。それでも動いた。
「今夜徹夜で直します」
とハルは言った。
「明日の朝には上げます」
「頼む」
しばしの沈黙が落ちた。工具の音も、整備兵の声も、この一角だけが切り離されたように遠い。格納庫の奥では別の機体の点検が続いているが、ここだけ時間の流れが違う気がした。
やがてハル曹長は振り返った。
その顔には、いつもの険しさがなかった。
不思議なほど穏やかな笑顔だった。疲れているはずなのに。息子を失ってからずっと、どこか張り詰めたものを纏っていた彼女が、今夜だけは違う顔をしている。
「今日も、帰ってきてくれてありがとうございます」
橘は答えようとした。
「俺は——」
その瞬間、視界が歪んだ。
---
「―――
男の声だった。
聞き覚えのない声。しかし言語はわかった——日本語ではない。
衝撃が全身を叩いた。熱が来た。それから、音が消えた。
意識が戻るまでに、どれだけの時間がかかったかわからない。
一秒かもしれない。一分かもしれない。
次に目を開けたとき、格納庫は燃えていた。
整備灯は落ちている。代わりに炎が照らしている。赤と橙が揺れる中、《閃光》の一番機が燃えていた。三年間、橘が乗り続けた機体だ。右肩の装甲がハル曹長の手で今夜直されるはずだった、あの機体が、炎に包まれている。
隣の機体も燃えている。その隣も。
整然と並んでいたはずの《閃光》が、次々と炎の中に沈んでいく。
爆発音が続く。連鎖している。誰かが起爆装置を仕掛けていた。一箇所ではない。複数の場所に、時間差で。用意周到に。
「ハル……曹長」
橘は声を出した。かすれていた。喉に何かが詰まっているような感覚。煙を吸ったのかもしれない。
彼女は傍らに倒れていた。
橘から三メートルも離れていない場所に。爆発の衝撃で吹き飛ばされたのか、あるいは最初から狙われていたのか―――わからない。動かない。
橘は体を起こそうとした。
右腕に力が入らなかった。見ると、装甲の破片が刺さっていた。《閃光》の装甲の一部だ。自分が乗り続けてきた機体の破片が、自分に刺さっている。
足に力を入れた。膝が震えた。それでも、這うようにして彼女の方へ向かった。
「ハル曹長」
呼びかける。返事はない。
3mが、果てしなく遠かった。
銃声が格納庫の外で響いた。乱れた発砲音―――訓練された銃声ではない。混乱の中での撃ち合いだ。基地の警備兵か、あるいは別の何かか。
1m。
もう1m。
ハル曹長の顔が見えた。目を閉じている。胸が動いているかどうか、炎の揺らめきの中ではわからない。橘は手を伸ばした。
その時、別の爆発が来た。
今度は格納庫の入り口付近だった。出口が塞がれた。煙が一気に濃くなった。
橘は咳き込んだ。視界が滲む。煙のせいか、それとも別の何かのせいか。
三年間。
三年間、この格納庫で何人の仲間を送り出したか。何人を迎えたか。迎えられなかった者を、何人数えたか。浜田中尉の死から始まって、田中中尉、尾崎中尉、安田少尉―――今夜失った三人の名前を、ノートに書くつもりだった。書けないかもしれない。
橘はハル曹長の傍らまで辿り着き、その場に倒れた。もう足が動かなかった。右腕の痛みが、遠くなっていく。遠くなることが、悪い兆候だとわかっていた。
格納庫の天井が燃えている。
鉄骨が赤く染まっている。あと何分かすれば、落ちてくるだろう。
頭の中で、言葉が形を成そうとした。
どうでもよかった。
結局、この戦争はそういうものだ。BETAが来る前も、来てからも、人間は人間の足を引っ張り続けている。大東亜共栄圏の盟主を自任しながら、亜細亜を守るといいながらデータを同盟国に隠す。
その間にも、前線では人が死ぬ。
橘が守ろうとした者たちが、守ろうとした機体が、今夜、政治の道具として燃やされた。
「……最後に、空を。」
炎の熱の中で、橘は空を見ようとした。
格納庫の天井しか見えなかった。燃えている天井。しかし橘の目には、別のものが映っていた。
高度一万二千メートルの、青い空。
音の壁を破る瞬間の、あの静寂。
かつてそこに、帝國空軍四十一機が並んでいた。
橘壮一郎は、静かに目を閉じた。
―――
昭和五十年四月。甘粛省・酒泉基地にて、原因不明の大規模爆発が発生。
数日後、防衛戦力を失った戦線にBETA大規模群が到来。前線突破を許した。
帝國陸軍は後退を余儀なくされ、酒泉は放棄された。
核が三発、投下された。
生きて帰れ、と橘は言い続けた。
しかし彼自身は、帰れなかった。
この世界に、主人公はいない。
1982年