研究室の空気は、今日も今日とて火薬の匂いがしそうなくらいにパチパチと爆ぜている。
デスクに広げた古い文献の文字を追おうとしても、背後から飛んでくる罵声の鋭さに、どうしても思考が細切れに分断されてしまう。
「ですから!ソニアさんの論文を汚い手で雑に扱わないでくださいって言ってるんです、このデカ女!」
「はあ?整理してるだけなんだけど。背が届かないからっていちいち足伸ばして時間をかけすぎるチビ助のか・わ・り・に!」
一つ年下で可愛い後輩のレイナと、ずっと側にいてくれた幼馴染みたいなルリナ。
二人とも、外では立派な肩書きを持って尊敬されているはずなのに、どうして私の前だとこうも子供っぽくなっちゃうのかな。……正直、さっきから同じ行を5回は読み直してる。
「……ねえ、ちょっとだけ静かにしてくれない?」
最初は努めて優しく、諭すように声をかけた。けれど、二人は「まかせて!すぐにこのクソ生意気なガキを黙らせるから!」「あなたが言われてるんですよ!ソニアさんに迷惑をかけてる自覚がないんですか!」と私を置き去りにして言い合いを加速させる。
私のなかで、何かがぷつりと音を立てて切れた。ゆっくりと椅子を回転させ、二人の間に割って入る。
顔にはとびきりの笑顔を貼り付けたけれど、頬の筋肉がピクピクと引き攣っているのが自分でもわかった。二人はそれを察して、アーボックに睨まれたケロマツみたいに硬直してる。
「……あのね。私、一週間以内にこの論文を書き上げなきゃいけないの。わかるよね?」
一歩、二人に歩み寄る。
「というわけで。今から一週間、一切の喧嘩を禁止します。……もし守れたら、ご褒美に私が一日デートしてあげる。二人とも守れたら別々の日に行くし、片方だけだったら、その子とだけ。……ね? 私、二人と『楽しく』お出かけしたいな」
効果は抜群だった。さっきまで血管が浮き出るほど怒鳴り合っていた二人が、一瞬で顔を真っ赤に染め上げ、信じられないほどのスピードで互いから距離を取った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ソニアさんと二人きりでデート。
その至高のご褒美を想像しただけで脳がとろけそうになるけれど、私は即座に正気を取り戻す。
別日とはいえ、あの女がソニアさんと二人で歩くなんて万死に値する。絶対に阻止しなければならない。
条件は「喧嘩をしないこと」。
つまり、自分は清廉潔白を貫き、あの女を言葉ではなく態度で一方的に煽り倒し、ソニアさんの目の前で発狂・又は声を荒げさせて脱落させればいい。
二日目。
昨日は私もルリナも牽制し合って動かなかったけど、今日は違う。私は、ソニアさんのソファに図々しく座って紅茶を飲んでいるルリナの側に座り、わざとらしく自分の肌を指でなぞってみせる。
モデル(笑)を自称するルリナの視線がこっちを向いたのを確認して、これ以上ないくらいの憐れみを込めた視線を、彼女の顔面に突き刺した。
(……お気の毒に。ソニアさんとのデートが控えているのに、そんなに肌が荒れていて大丈夫ですか? 隠しきれていない隈が、なんだかすごく『おばさん臭い』ですよ)
声には出さない。ただ、指先で自分の若々しい頬を強調し、彼女の全身を値踏みするように舐め回してから、フッと鼻で笑ってやる。
ルリナの額に特大の青筋が浮かぶ。あからさまな侮辱に彼女の指先がプルプルと震え、今にも「このガキ!!」と叫び出しそうなのを、彼女は血が出るほど唇を噛んで堪えている。
ぐぬぬ、と喉の奥から空気が漏れる音。引き攣った笑顔。
なんですか、これは!?最っ高に気持ちいい。
言葉で罵るよりも、相手がプライドをズタズタにされながら無言で耐え忍ぶ姿を見る方が、何倍も興奮する。ああ、今日はすっきり眠れそうです。
三日目。
私がソニアさんから頂いたお菓子を食べようと近づいた瞬間、ルリナが目の前で、お菓子をこれ見よがしに一口で平らげた。
「あんたには一生回ってこないわよ」と言わんばかりの、あの勝ち誇ったドヤ顔。見下したような薄ら笑い。
……っ、この、クソ女……!
言い返したい。喉元まで、こいつ以外には言うこともないであろう罵倒の言葉が出かかっている。けれど、ここで喋ったらデートが消える。
私は必死で奥歯を噛み締めて、ニコォ、と顔面が割れそうなほどの作り笑顔で返してやった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
地獄のような六日間が過ぎた。
会話はない。あるのは、視線による刺し合いと、嫌がらせのようなジェスチャーの応酬だけ。
四日目はルリナの体型や最近のバトル戦績を、世間話に混ぜて弄って満喫したけれど、五日目は身長や配信時の態度のことを遠回しに言われ、逆に私がキレかけた。あなたにする必要がないだけで、他の人にはその配信通りに接してますよ……!
六日目は、お互いにイライラしすぎて目線すら合わせなかった。これ以上煽り合うと限界が来ると察したからだ。
そして迎えた、運命の七日目、午後11時59分。
ソニアさんは「2人ともよく頑張ったね!」と無邪気に喜んでいるけれど、私たちの耳にはもう何も届かない。
視界の中心には掛け時計。数字が減るたび、命を削る刻みを見せる。
10、9、8……。
心臓の鼓動がうるさい。隣のルリナの呼吸も荒くなっているのが分かる。
5、4、3……。
指先の感覚がなくなるほど拳を握りしめる。
2、1……0。
時計の針が、重なり合う。
「――死ねええええええ!!バカ! アホ! 短足!性格ブス! 根暗!陰キャ!クソチビ! ストーカー女!!」
沈黙を破ったのはルリナの絶叫だった。それを合図に、私のなかで煮えくり返っていたドロドロの鬱憤が一気に決壊する。
「うるさーーーーい!! そっちこそモデルの皮を被ったカビゴンのくせに!! それにどの口が言ってるんですか!この煽りカスのデブ女!! あなたにデートなんて100年早いんだから諦めてください!ソニアさんの隣は私の指定席なんですー!バーーカ!!」
「なんですって!!この貧乳ドクター!!私がその生意気な口を縫い合わせてあげる!!」
「やってみなさいよ!! 一週間分の利子をつけてボコボコにしてあげます!!」
一週間の自制なんてクソ食らえだ。私はルリナの胸ぐらを掴み、ルリナは私の頬をちぎらんばかりの力で引っ張る。
髪の毛が乱れようが服が破れようが構わない。この一週間、言いたくても言えなかった罵詈雑言を全部、脳のフィルターを通さずにぶちまけてやる。
「ちょっ、ちょっと! 2人とも、友情とか生まれなかったの!? 待って、危ないから!!」
ソニアさんの悲鳴が遠くで聞こえるけれど、今日だけは、もう止まらない。
髪を振り乱して、顔を真っ赤にして、いい大人が「バーカ!」「お前がバーカ!」と掴み合う。
ああ、やっぱりこっちの方が性に合ってる。
私は、頬を引き千切られそうな激痛に悶えながら、最高に晴れやかな気分で、ルリナの無駄に長い脛を思い切り蹴飛ばしてやった。