魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第10話

 スプリンクラーの水が、絶え間なく降り注いでいる。

 

 沈みゆく要塞のメインサーバー室。

 

 六十四基の量子演算コアが全基停止し、世界を支配していたシステムの頭脳は物理的に死んだ。

 

 だが、凛の指先は止まっていなかった。

 

 銀色のデータストレージラックの保守パネルを開き、携帯端末をデータポートに物理ケーブルで直結している。

 

 防水ケーシングに守られた十六基のソリッドステートドライブは無事だ。

 

 端末のターミナルに、ディレクトリ構造が表示される。

 

 凛の目が、膨大なファイルツリーの中を走った。

 

 暗号化されたファイル群。

 

 だが、メインサーバーが停止した今、暗号化キーを管理していた演算コアも死んでいる。

 

 ストレージ上の暗号化ファイルは、鍵を失った金庫と同じだ。

 

 正攻法では開けられない。

 

 凛はファイルツリーの末端を丹念に調べた。

 

 暗号化されたメインデータベースの傍らに、平文のログファイルが散在している。

 

 システムの運用ログ。

 

 メンテナンス記録。

 

 そして――搾取コンバーターのファームウェア更新履歴。

 

 凛の指が止まった。

 

 ファームウェアの更新パッケージは、コンバーターの実機に直接転送するために、暗号化されていない生のバイナリとして保存されていた。

 

 コンバーターが暗号化されたファイルを受け取っても、演算能力の低い組み込みプロセッサでは復号に時間がかかりすぎるからだ。

 

 セラフのドローンの帰還座標と同じ構図。

 

 末端デバイスの性能制約が、セキュリティの穴を生む。

 

 凛はファームウェアのバイナリをダンプし、構造を読み始めた。

 

 コンバーターの制御コード。

 

 その中に、『魔力飽和状態の維持プロセス』のパラメータが記述されていた。

 

 患者の体内の魔力濃度を監視し、一定値以下に下がると微弱な電磁パルスを照射して魔力の暴走を再起動させるフィードバックループ。

 

 これが、魔力飽和病の正体だった。

 

 病ではない。

 

 コンバーターが意図的に維持している人工的な状態だ。

 

 コンバーターが停止すれば、フィードバックループも止まる。

 

 だが、既に暴走を始めた体内の魔力は、慣性で暴走を続ける。

 

 凛が病院でコンバーターの基板を破壊した時点で、結衣の体内ではフィードバックループが停止し、同時に魔力の排出口も塞がれた。

 

 暴走の再起動パルスは止まったが、既に暴走している魔力は排出先を失って蓄積し続けている。

 

 四十八時間で致死量に達する。

 

 凛はファームウェアのコードをさらに掘り進めた。

 

 フィードバックループの制御パラメータの中に、一つの変数があった。

 

 『魔力飽和閾値(しきいち)』。

 

 この値を境に、コンバーターは患者の魔力濃度を監視している。

 

 閾値以上なら搾取モード。閾値以下なら再起動パルスを照射して暴走を維持。

 

 だが、この閾値をゼロに書き換えたファームウェアをコンバーターに上書きしたらどうなるか。

 

 コンバーターは、患者の魔力濃度がゼロ以上である限り、搾取モードを維持する。

 

 つまり、体内の暴走魔力を際限なく吸い出し続ける。

 

 排出口が全開になる。

 

 暴走している魔力が全て排出されれば、体内の魔力濃度は正常値まで低下する。

 

 フィードバックループの再起動パルスはファームウェアの書き換えで無効化されているから、暴走は再発しない。

 

 理論上は、これで魔力飽和病は解除される。

 

 だが、問題がある。

 

 コンバーターの実機は、凛が病院で基板を物理的に破壊した。

 

 ファームウェアを書き換えるべきハードウェアが、既に存在しない。

 

 凛は歯を食いしばった。

 

 自分で壊した。

 

 結衣を搾取から解放するために、あの基板にドライバーを突き立てた。

 

 それが今、結衣を救う手段を奪っている。

 

「葛城さん、要塞がさらに傾いてきてるわ。早く脱出しないと……」

 

 キララの声が、スプリンクラーの水音に混じって響いた。

 

 床を流れる海水の水位が、膝から腰にまで上昇している。

 

 要塞の沈没が加速していた。

 

 凛はストレージから携帯端末を引き抜き、防水ポーチに収納した。

 

 ファームウェアのバイナリデータは端末にコピー済みだ。

 

 あとは、このデータを実行するためのハードウェアを確保すればいい。

 

 凛は立ち上がり、サーバー室を見渡した。

 

 水没が進むフロアの中で、彼女の視線が一点に止まった。

 

 アーキテクトの残骸。

 

 スプリンクラーの水に打たれ、機能を停止した管理者のアバターが、サーバーラックの間に前のめりに倒れている。

 

 凛はアーキテクトの残骸に歩み寄り、膝をついた。

 

 背面の装甲パネルを、サバイバルナイフでこじ開ける。

 

 内部構造が露出した。

 

 病院の地下で倒した執行者とは異なり、アーキテクトの内部には超伝導コイルだけでなく、高性能な組み込みプロセッサと通信モジュールが搭載されていた。

 

 管理者のアバターとして、サーバーとの双方向通信と自律的な判断を行うために、末端デバイスとしては破格の演算能力を持っている。

 

 そして、その通信モジュールのアーキテクチャは、搾取コンバーターと同一のシステムが製造したものだ。

 

 コンバーターへのファームウェア転送機能が、このモジュールに実装されている可能性がある。

 

 凛はアーキテクトの通信モジュールを基板ごと引き抜いた。

 

 携帯端末とジャンパーワイヤーで接続する。

 

 保守用のシリアルポートからファームウェアの転送コマンドを叩く。

 

 通信モジュールが応答した。

 

 転送プロトコルが生きている。

 

 このモジュールを使えば、書き換えたファームウェアを、病院のコンバーターに無線で転送できる。

 

 だが、コンバーターの基板は物理的に破壊されている。

 

 転送先のハードウェアが死んでいるなら、ファームウェアを送っても意味がない。

 

 凛の思考が、一瞬だけ停止した。

 

 水位が腰を超え、冷たい海水が腹部を浸す。

 

 時間がない。

 

 凛は破壊したコンバーターの構造を思い出した。

 

 電動ドライバーで基板の中央を貫いた。

 

 メインプロセッサは確実に破壊した。

 

 だが、基板の全てを破壊したわけではない。

 

 コンバーターの基板上には、メインプロセッサの他に、通信用のサブモジュールと、電磁パルス発生器の駆動回路が実装されていた。

 

 凛がドライバーを突き立てたのは基板の中央。

 

 メインプロセッサの位置だ。

 

 基板の端に実装された通信サブモジュールと、パルス発生器の駆動回路は、物理的に損傷を免れている可能性がある。

 

 通信サブモジュールが生きていれば、外部からファームウェアを受信できる。

 

 パルス発生器の駆動回路が生きていれば、書き換えられたファームウェアの指示に従って、魔力の排出プロセスを実行できる。

 

 可能性の話だ。

 

 確証はない。

 

 だが、やるしかなかった。

 

「星野さん、脱出しますわ」

 

 凛は通信モジュールをタクティカルポーチに収納し、立ち上がった。

 

「病院に戻りますの。結衣のコンバーターに、書き換えたファームウェアを転送しますわ」

 

「コンバーターって、あなたが壊したあの機械でしょ!? 動くの!?」

 

「全部は壊していませんわ。基板の端の回路が生きていれば、動く可能性がありますの」

 

「可能性って……」

 

「他に手はありませんの」

 

 凛の声は平坦だったが、キララはその奥に、鉄のような意志を聞き取った。

 

 二人は水没が進むサーバー室を抜け、傾斜した通路を逆流する海水に逆らいながら上層へと向かった。

 

 搬入ドックは完全に水没していた。

 

 潜水艇への帰還は不可能だ。

 

 だが、要塞の傾斜によって上層の外壁に亀裂が生じ、そこから外海が見えている。

 

 凛はタクティカルハーネスから残っていた高張力ワイヤーを引き出し、亀裂の縁の鉄骨にアンカーを打ち込んだ。

 

「飛び込みますわよ」

 

「正気!?」

 

「要塞が完全に沈む前に、離れなければ渦に巻き込まれますの」

 

 凛はワイヤーを腰に巻き、キララの腰にも回して固定した。

 

 二人は亀裂から暗い海面へと身を投げた。

 

 冷たい海水が全身を包む。

 

 要塞の沈没が生み出す引き波に抗いながら、凛は外海に向かって泳いだ。

 

 数分後、二人は要塞から十分に離れた海面で浮かんでいた。

 

 振り返ると、魔法少女のシステムを支配していた巨大な海上プラットフォームが、ゆっくりと海中へ没していくところだった。

 

 光学迷彩のパネルが剥がれ落ち、むき出しのチタン装甲が海水に呑まれていく。

 

 警報はもう鳴っていない。

 

 システムが死んだからだ。

 

 最後のチタンの柱が海面下に消え、大きな渦と泡だけが残った。

 

 凛はそれを見届けると、東京の夜景が光る方角へ顔を向けた。

 

「星野さん。一つ、お願いがありますの」

 

「何よ」

 

「ここから病院まで、空を飛びなさいな」

 

 キララは一瞬、耳を疑った。

 

「飛べって……対空レーダーは? 魔力探知は?」

 

「全てメインサーバーで制御されていましたわ。サーバーが死んだ今、探知網は機能していませんの」

 

 キララは海面に浮かびながら、自分の掌を見た。

 

 残存魔力は僅かだ。

 

 だが、二人分の体重を運ぶだけなら、Sランクの底力で何とかなる。

 

「……あなた、本当に計算ずくね。最初から最後まで」

 

「褒め言葉として受け取っておきますわ」

 

 キララはステッキを掲げ、残存魔力を全て注ぎ込んだ。

 

 パステルイエローの淡い光が、暗い海面を照らす。

 

 二人の身体がゆっくりと海面から浮き上がり、東京の夜空へと舞い上がった。

 

 凛は、キララに掴まりながら夜風を受けていた。

 

 パステルピンクのフリルドレスは、海水で重く、血と泥と石灰の汚れが洗い流されて、元の色に少しだけ近づいている。

 

 妹が着るはずだったドレス。

 

 妹が憧れた、空を飛ぶ魔法少女の姿。

 

 凛は今、そのドレスを着たまま、魔法で空を飛んでいる。

 

 自分の力ではない。

 

 隣にいるこの馬鹿なエリートの力だ。

 

 凛は、何も言わなかった。

 

 ただ、ポーチの中の通信モジュールを、グローブ越しに強く握りしめた。

 

 コンバーターの基板が生きているかどうか、確証はない。

 

 だが、凛は物理法則を信じている。

 

 ドライバーの刃が貫いたのは基板の中央。

 

 端の回路までは、届いていないはずだ。

 

 二十分後、二人は大学病院の屋上に降り立った。

 

 キララの魔力が尽き、着地の瞬間に二人とも屋上のコンクリートに転がった。

 

 凛は転がった勢いのまま立ち上がり、屋上の非常口から病棟の階段を駆け下りた。

 

 第四病棟。特別隔離フロア。

 

 先ほどキララの魔力波長で開けた隔壁扉は、システムの停止によってロック機構が解除され、開いたままだった。

 

 無菌個室。ルームプレート『04-A』。

 

 結衣は、まだ眠っていた。

 

 生体情報モニターの数値は、数時間前より明らかに悪化している。

 

 心拍数の上昇。体温の微上昇。血中酸素濃度の低下。

 

 体内で暴走する魔力が、少しずつ結衣の身体を内側から蝕んでいる。

 

 凛は破壊したコンバーターの筐体に歩み寄った。

 

 白亜の外装は剥がされたまま、内部の電磁コイルと光ファイバーが露出している。

 

 基板の中央には、凛が突き立てた電動ドライバーの痕跡が残っていた。

 

 メインプロセッサは完全に破壊されている。

 

 だが、基板の右端。

 

 通信サブモジュールの小さなチップと、その隣のパルス発生器の駆動IC。

 

 ドライバーの刃は、そこまで届いていなかった。

 

 チップの表面に損傷はない。

 

 はんだ付けの接合部にも、亀裂は見当たらない。

 

 凛はポーチからアーキテクトの通信モジュールを取り出し、携帯端末に接続した。

 

 書き換え済みのファームウェアバイナリを、通信モジュール経由でコンバーターの通信サブモジュールへ無線転送する。

 

 転送コマンドを実行。

 

 端末の画面に、プログレスバーが表示された。

 

 〇パーセント。十パーセント。二十五パーセント。

 

 通信サブモジュールが応答している。

 

 生きていた。

 

 五十パーセント。七十五パーセント。

 

 凛は端末の画面を見つめたまま、微動だにしなかった。

 

 九十パーセント。九十五パーセント。

 

 百パーセント。

 

 転送完了。

 

 コンバーターのパルス発生器が、書き換えられたファームウェアの指示に従って起動した。

 

 魔力飽和閾値、ゼロ。

 

 搾取モードが全開になる。

 

 結衣の体内で暴走していた魔力が、光ファイバーケーブルを通じて急速に排出され始めた。

 

 紫色の光の脈動が、先ほどまでの弱々しいものから、激しく力強いものへと変わる。

 

 排出先のメインサーバーは既に存在しない。

 

 だが、光ファイバーの末端は開放されたままだ。

 

 魔力は光ファイバーの中を伝わり、切断された末端から、ただの熱と光として空気中に放散されていく。

 

 行き場のないエネルギーが、無害な形で散逸する。

 

 生体情報モニターの数値が、ゆっくりと変化し始めた。

 

 心拍数が、下がっていく。

 

 体温が、正常値に近づいていく。

 

 血中酸素濃度が、上昇する。

 

 結衣の眉間に刻まれていた苦痛の皺が、少しずつ緩んでいく。

 

 凛はベッドの傍らに膝をつき、グローブを外した。

 

 妹の手に、自分の手を重ねた。

 

 先ほどよりも、少しだけ温かい。

 

 凛の唇が、微かに震えた。

 

 お嬢様口調ではない。

 

 妹の模倣でもない。

 

 凛自身の、素の声が、かすれた吐息と共に漏れた。

 

「……戻って来い、結衣」

 

 スプリンクラーの水でも、海水でも洗い流せなかった血と泥の匂いが、無菌室の清潔な空気の中で、ひどく場違いに漂っていた。

 

 東の窓から、夜明けの光が差し込み始めている。

 

 最弱の魔法少女の、最も長い夜が、終わろうとしていた。

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