魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第11話

 結衣の体内魔力が正常値に戻るまで、十四時間かかった。

 

 その間、凛はベッドの傍らから一歩も動かなかった。

 

 生体情報モニターの数値を三十秒ごとに携帯端末で記録し、魔力排出量の減衰曲線をリアルタイムでプロットし続けた。

 

 排出量は指数関数的に減少していく。

 

 体内の暴走魔力が減れば、排出される量も減る。

 

 数学的には漸近線に近づくだけで、完全なゼロにはならない。

 

 だが、生体が自力で代謝できる微量にまで低下すれば、それは実質的な治癒と同義だ。

 

 午前十一時。

 

 光ファイバーケーブルの末端から放散される紫色の光が、肉眼では確認できないレベルにまで弱まった。

 

 凛はコンバーターのパルス発生器を手動で停止させた。

 

 排出プロセスの終了。

 

 結衣の体内に残存する魔力は、通常の魔法少女の基礎代謝量を下回っている。

 

 フィードバックループのパルスは、ファームウェアの書き換えで無効化済みだ。

 

 暴走を再起動させる信号は、もう発信されない。

 

 凛は結衣の腕から光ファイバーのインターフェースを一本ずつ取り外した。

 

 静脈に差し込まれていた極細のコネクタを抜くたびに、小さな血の珠が浮かぶ。

 

 凛は持参したアルコール綿で丁寧に止血し、医療用テープで固定した。

 

 最後の一本を抜き終えた時、結衣の指が微かに動いた。

 

 凛の手が止まった。

 

 結衣の瞼が、震えている。

 

 薄く、ゆっくりと、目が開いた。

 

 焦点の合わない瞳が、無菌室の白い天井を映す。

 

 唇が動いた。

 

 声にならない声。

 

 空気だけが漏れる。

 

 凛は結衣の顔の横に膝をつき、耳を近づけた。

 

「……おねえ、ちゃん……?」

 

 かすれた、しかし確かに結衣の声だった。

 

 凛は何も言えなかった。

 

 喉の奥が詰まって、言葉が出ない。

 

 お嬢様口調が出てこない。

 

 模倣すべき妹の声が、今、目の前で本物として響いている。

 

 凛は結衣の手を両手で包み、額をその手の甲に押し当てた。

 

 グローブは外したままだった。

 

 擦過傷と裂傷だらけの掌が、妹の細い指に触れている。

 

 凛の肩が、一度だけ、小さく震えた。

 

 それだけだった。

 

 泣き崩れることはしなかった。

 

 数秒後、凛は顔を上げ、いつもの冷徹な表情に戻った。

 

 ただ、目の縁だけが僅かに赤い。

 

「おはよう、結衣。長い間、寝ていましたのよ」

 

 お嬢様口調が、戻った。

 

 だが、その声のトーンは、怪物を殺す時の絶対零度とは全く違っていた。

 

     *

 

 病室の外で、キララが壁にもたれて座っていた。

 

 パステルイエローのドレスは海水で縮み、泥と塩の白い跡がまだらに残っている。

 

 ステッキは膝の上に横たえられ、先端の星形の装飾が割れていた。

 

 凛が病室から出てきた。

 

「目が覚めましたわ」

 

「……そう」

 

 キララは立ち上がり、病室の窓越しに結衣の顔を見た。

 

 まだ目を開けているのがやっとという状態だが、先ほどまでの死人のような蒼白さは消えている。

 

「よかったわね」

 

 キララの声は、素朴だった。

 

 Sランクのエリートの虚勢も、反逆者の気負いもない。

 

 ただ、隣にいる人間が安堵している姿を見て、自分も安堵している、それだけの声だった。

 

「星野さん」

 

 凛は廊下の壁にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。

 

「メインサーバーは破壊しましたわ。ですが、それで全てが終わったわけではありませんの」

 

「分かってるわよ」

 

 キララは腕を組んだ。

 

「サーバーが止まったら、世界中のコンバーターも止まる。結衣ちゃんと同じように、魔力飽和病の患者が世界中にいるんでしょ。あの人たちのコンバーターも、今は排出口が塞がった状態ってこと」

 

「ええ。結衣に使ったのと同じファームウェアの書き換えを、世界中のコンバーターに対して実行する必要がありますわ」

 

 凛は携帯端末を取り出した。

 

 画面には、ストレージからコピーした運用ログの一部が表示されている。

 

 世界中に設置された搾取コンバーターのネットワーク構成図。

 

 各国の病院、研究施設、軍事基地。

 

 コンバーターの総数は、ログに記録されている範囲だけで、三千二百基。

 

「三千二百人分のファームウェアを、個別に書き換える時間はありませんわ。ですが、コンバーターのネットワークには、メインサーバーからの一斉アップデート機能が実装されていましたの」

 

「メインサーバーはもう沈んでるわよ」

 

「ええ。ですから、代替のサーバーを立てますの」

 

 凛は端末を操作し、アーキテクトから抜き取った通信モジュールの設定画面を表示した。

 

「このモジュールには、メインサーバーの認証キーが物理的に焼き込まれていますわ。アーキテクトはサーバーの管理者アバターでしたから、サーバーと同等の権限を持っている。このモジュールを使って、書き換え済みファームウェアの一斉配信コマンドを送信すれば、世界中のコンバーターに同時にアップデートが適用されますの」

 

「それって、あなたの携帯端末一つでできるの?」

 

「通信モジュールの送信出力では、直接世界中に届きませんわ。ですが、病院の地下にはまだ中継設備が生きていますの。海底ケーブルとの接続点は、要塞ではなく病院側にありますから」

 

 凛は廊下を歩き出した。

 

「地下に降りますわよ。中継設備を使って、一斉配信を実行しますの」

 

「また地下? さっき死にかけたばかりじゃない」

 

「今度は敵がいませんわ。システムは死んでいますから」

 

 二人は再び、業務用エレベーターシャフトを降りた。

 

 地下ボイラー室。

 

 数時間前に凛がキュービクルを爆破し、執行者を破壊した空間だ。

 

 焼け焦げた金属の残骸と、アークブラストで黒ずんだ壁面がそのまま残っている。

 

 非常用電源で最低限の照明だけが点いている。

 

 凛は防爆扉の奥にあった中継設備室に入った。

 

 海底ケーブルとの接続ハブが、ラックに収められている。

 

 設備自体は、要塞側のサーバーが停止した影響で待機状態に入っているが、ハードウェアは生きていた。

 

 凛はアーキテクトの通信モジュールを接続ハブのポートに差し込み、携帯端末からコマンドを入力した。

 

 書き換え済みファームウェアのバイナリデータ。

 

 配信先:全コンバーター(三千二百基)。

 

 認証キー:アーキテクトの管理者権限。

 

 配信モード:一斉アップデート。

 

 凛は実行キーの上で、一瞬だけ指を止めた。

 

 このコマンドが正常に実行されれば、世界中の魔力飽和病の患者が、結衣と同じプロセスで治癒に向かう。

 

 だが、もしファームウェアのコードに凛が見落としたバグがあれば。

 

 三千二百人の患者に、予期しない影響が出る。

 

 凛はコードを再度確認した。

 

 変更箇所は一つだけ。

 

 魔力飽和閾値のパラメータを、デフォルト値からゼロに書き換えただけだ。

 

 他のコードには一切手を加えていない。

 

 最小限の変更。

 

 最小限のリスク。

 

 それでも、ゼロではない。

 

 凛は実行キーを押した。

 

 画面にプログレスバーが表示される。

 

 配信開始。

 

 一基、十基、百基。

 

 応答が返ってくる。

 

 各国のコンバーターが、一斉にファームウェアを受信し、書き換えを実行している。

 

 五百基。千基。二千基。

 

 端末の画面に、世界地図が表示された。

 

 各コンバーターの位置が、赤い点として地図上にプロットされている。

 

 ファームウェアの適用が完了したコンバーターから、赤い点が青に変わっていく。

 

 北米。ヨーロッパ。アジア。アフリカ。

 

 赤い点が、一つずつ、青に塗り替えられていく。

 

 三千基。三千百基。三千二百基。

 

 全基、適用完了。

 

 凛は端末を閉じた。

 

 中継設備室の薄暗い照明の下で、ゆっくりと息を吐いた。

 

「終わりましたわ」

 

 キララが、凛の隣に立っていた。

 

「本当に……終わったの?」

 

「システムは死にましたわ。サーバーは海の底。世界中のコンバーターは排出モードに切り替わりましたの。これから数時間から数十時間で、全ての患者の暴走魔力が排出されていきますわ」

 

 凛は壁にもたれた。

 

 全身の疲労が、一気に押し寄せてくる。

 

 右腕の裂傷が熱を持って疼く。

 

 左掌の擦過傷は、グローブの中で血が固まって皮膚に張り付いている。

 

 首元の痣。全身の打撲。海水で冷え切った足先の感覚はまだ戻らない。

 

 魔力Fランクの生身が一晩で支払った代償の全てが、静かな地下室の中で、遠慮なく主張し始めていた。

 

「葛城さん」

 

 キララが、凛の顔を覗き込んだ。

 

「病院にいるんだから、あなたもちゃんと診てもらいなさいよ。その腕、縫わないとだめでしょ」

 

「……そうですわね」

 

 凛は薄く笑った。

 

 妹の口調ではない。

 

 だが、絶対零度でもない。

 

 どこにも分類できない、ただの十六歳の少女の、疲れ切った笑みだった。

 

 二人は地下から階段を上がり、病棟のロビーに出た。

 

 早朝の病院は、夜勤と日勤の交代時間で、職員がまばらに行き交っている。

 

 海水で濡れた作業服と、泥だらけの魔法少女のドレスを着た二人の少女が、何食わぬ顔でロビーを横切る。

 

 すれ違った看護師が、二度見して目を丸くした。

 

 凛はそれを完全に無視して、第四病棟への廊下を歩いた。

 

 結衣の病室のドアの前で、足が止まる。

 

 窓越しに見える結衣は、まだ目を閉じている。

 

 だが、その表情は穏やかだった。

 

 生体情報モニターの数値は、全て正常範囲に収まっている。

 

 凛は廊下の長椅子に腰を下ろした。

 

 隣にキララが座った。

 

 二人とも、何も言わなかった。

 

 廊下の窓から差し込む朝の光が、パステルピンクとパステルイエローの、ひどく汚れた二つのドレスを照らしていた。

 

 凛は目を閉じた。

 

 数秒後、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 

 キララは隣で眠り始めた凛の横顔を見て、少しだけ驚いた。

 

 寝顔は、怪物を殺す冷徹な殺人マシンでも、狂気の物理演算を回す理系の悪魔でもなかった。

 

 ただの、疲れ切った十六歳の女の子だった。

 

 キララはステッキを膝に抱え、自分も目を閉じた。

 

 病院の廊下に、二人分の静かな寝息だけが残った。




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