魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
凛が目を覚ましたのは、廊下の長椅子の上だった。
首を寝違えた鈍い痛みと、右腕の裂傷が放つ鋭い熱。
二つの痛覚が、意識を強制的に浮上させた。
窓から差し込む光の角度が変わっている。
午後だ。
凛は携帯端末を確認した。
午後二時十七分。
約五時間、眠っていた。
隣の長椅子にキララはいない。
代わりに、病院の薄い毛布が凛の肩にかけられていた。
凛は毛布を畳んで長椅子の端に置き、結衣の病室に入った。
結衣は目を開けていた。
ベッドの上半身が少しだけ起こされ、枕に頭を預けて窓の外を見ている。
凛が入ってきたことに気づき、ゆっくりと首を動かした。
「おねえちゃん」
声はまだ掠れていた。
だが、数時間前の空気だけが漏れるような弱々しさはない。
「その格好……なに、それ。ピンクの……ドレス?」
結衣の視線が、凛の身なりを上から下まで辿った。
海水で重くなり、血と泥の染みが斑に残るパステルピンクのフリルドレス。
腰の大きなリボンは半分ちぎれ、背中の天使の羽のイミテーションは片方が失われている。
その下には清掃員の作業服。
足元は泥だらけのブーツ。
どこからどう見ても、正気の人間の服装ではなかった。
「……長い話だ」
凛は結衣のベッドの傍らの椅子に座った。
「あなたが寝ている間に、色々あった」
「色々って?」
「本当に、長い話」
結衣は凛の顔をじっと見つめた。
「おねえちゃん。今、普通にしゃべってる」
「何が」
「お嬢様しゃべり。やめたの?」
凛は一瞬、口を開きかけて、閉じた。
昨夜、コンバーターにファームウェアを転送し、結衣の魔力排出が完了するのを見届けた後。
凛は結衣の手に触れて、一言だけ素の声で呟いた。
「戻って来い、結衣」
あの瞬間から、お嬢様口調が出ていない。
意図して切り替えたのではなかった。
妹が目を覚ましたら、妹を演じる理由がなくなった。
それだけのことだった。
「……やめた、というか。お前が起きてるのに、お前のふりをしても意味がない」
「私のふり?」
「あの口調は、お前が好きだった魔法少女の喋り方だ。ドレスも、お前が着たがっていたやつだ。お前がいない間、私がお前の代わりに着て、お前の代わりに喋っていた」
結衣は凛の顔を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……知ってるよ」
「知ってるって、何を」
「眠ってる間、おねえちゃんの声が時々聞こえてた。変なお嬢様しゃべりで、誰かと喧嘩してるみたいな声」
凛は絶句した。
半年間、毎晩のように怪物を殺しながら、妹の口調で独り言のように喋り続けていた。
戦闘中の通信も、セラフへの命令も、キララとの会話も、全て結衣の口調で。
それが、昏睡中の結衣に聞こえていた。
「似合わないなって、ずっと思ってた」
結衣は薄く笑った。
「おねえちゃんは理系でしょ。あんな甘ったるい喋り方、全然合ってない」
「……お前に言われると、反論できない」
「でも」
結衣の声が、少しだけ真剣になった。
「あの声が聞こえるたびに、なんか安心した。おねえちゃんが生きてるんだなって。私のために頑張ってくれてるんだなって。中身は全然分かんなかったけど」
凛は何も言えなかった。
点滴のラインが揺れる微かな音だけが、病室に響いていた。
廊下から、スニーカーの足音が近づいてきた。
キララが病室のドアを開けて入ってくる。
パステルイエローのドレスは脱ぎ、病院の売店で買ったらしい無地のTシャツとジャージに着替えていた。
手にはコンビニの袋を二つ提げている。
「あ、起きてたのね。二人とも」
キララは袋をベッドサイドのテーブルに置いた。
「おにぎりと水とあんぱん。売店、これくらいしかなかったわ」
「星野さん、あなた、どこへ……」
「救急外来に行ってきたの。あなたが寝てる間にね。私も肩を打撲してたから、湿布もらってきた」
キララは凛の右腕を指差した。
「で、外来の看護師さんに、もう一人けが人がいるって言っておいたから。この後、処置室に行きなさいよ」
「……勝手なことを」
「勝手はお互い様でしょ」
キララは結衣に向かって小さく手を振った。
「初めまして、結衣ちゃん。星野キララ。あなたのお姉さんに振り回されてる、元エリートの魔法少女よ」
結衣はキララと凛を交互に見て、少し驚いた顔をした。
「おねえちゃんに、友達いたの?」
「友達じゃない。共犯者だ」
「同じようなものよ」
キララはおにぎりの包装を開けながら言った。
凛は黙っておにぎりを一つ手に取った。
一口齧った瞬間、胃が痛いほどの勢いで食物を要求してきて、凛は自分でも驚くほどの速度で二つ目に手を伸ばしていた。
「……おねえちゃん、すごい食べ方」
「黙って見てろ」
三つ目を頬張りながら、凛は携帯端末を開いた。
世界中のコンバーターの稼働状況。
三千二百基全てがファームウェアの書き換えを完了し、排出モードで稼働している。
各国の病院から、原因不明の回復報告が断続的にネットニュースに上がり始めていた。
『世界各地で魔力飽和病の患者が一斉に容態好転』
『WHO、未知の自然寛解現象として緊急調査チームを編成』
原因不明、と書かれている。
当然だ。
魔法少女のシステムは一般社会から完全に秘匿されている。
だが、患者の回復は現実だ。
世界中の病室で、結衣と同じように目を覚ましている人間がいる。
その全員の体内から、凛が書き換えたファームウェアによって、暴走魔力が排出されている。
凛はニュースを閉じ、端末で別の情報を確認した。
セラフ網から配信されている歪魔の残存座標データ。
東京都内に十七体。
弱体化しているが、一般市民にとっては致命的な脅威であることに変わりない。
キララがおにぎりを食べ終え、凛の端末を覗き込んだ。
「歪魔、まだ残ってるのね」
「生産は止まっている。だが、既存の個体は残存している。エネルギー供給が断たれた個体から順に弱体化していくが、完全消滅までは数ヶ月かかる」
「じゃあ、誰かが倒さないと」
「ええ。だが、システムが止まった今、魔法少女たちに歪魔の座標を知らせる手段がない。セラフの端末は全て停止している」
「セラフを再起動できないの?」
凛はおにぎりの最後の一口を飲み込んだ。
「できる。セラフはただの機械だ。メインサーバーが死んで演算リソースを失っただけで、ハードウェアは世界中に散らばったまま残っている」
「じゃあ、ファームウェアを書き換えて再起動すれば……」
「搾取モジュールを削除して、探知と通信の機能だけを残した新しいファームウェアを書く必要がある。それをアーキテクトの通信モジュールで配信して、スリープ中の端末を叩き起こす」
凛は端末を閉じ、窓の外を見た。
「やることが山ほどある」
「おねえちゃん」
結衣がベッドの上から声をかけた。
「なに」
「おねえちゃん、学校行ってないでしょ。半年以上」
凛の手が止まった。
学校。
その単語が、あまりにも場違いで、凛の思考回路が一瞬フリーズした。
「行ってない。行く暇がなかった」
「私も。入院する前から不登校だったし」
「知ってる」
「私が元気になったら、二人で行こうよ。学校」
凛は結衣を見た。
怪物を殺し、システムを潰し、海底からサーバーを沈め、世界中の患者を救った十六歳に向かって、双子の妹が「学校に行こう」と言っている。
凛は何を返していいか分からなかった。
「……お前がもう少し歩けるようになったら、考える」
「約束ね」
「約束じゃない。検討だ」
「おねえちゃんの検討って、やるってことでしょ」
キララが横から笑った。
「結衣ちゃん、お姉さんのこと、よく分かってるわね」
「双子だもん」
凛はおにぎりの包装紙をゴミ袋に入れ、立ち上がった。
「処置室に行ってくる。右腕を縫ってもらう」
「やっと行く気になったのね」
キララが呆れた顔をした。
「あとで戻る。セラフのファームウェアを書かなきゃいけない」
凛は病室を出た。
廊下を歩きながら、端末を開いた。
ストレージからコピーしたセラフのファームウェア構造。
搾取モジュールの特定と分離。探知・通信モジュールの抽出。
新しいファームウェアの設計が、凛の頭の中で組み上がり始めていた。
処置室の前で足を止め、ドアをノックする。
看護師に右腕の傷を見せると、即座に眉をひそめられた。
「これ、いつの傷? 化膿しかけてるわよ。何で今まで放置してたの」
「忙しかった」
「忙しいって……あなた、いくつ?」
「十六」
看護師は深い溜息をついて、消毒液と縫合キットを準備し始めた。
七針。
局所麻酔の注射が効くまでの間、凛は端末でセラフのファームウェアのモジュール構成図を見ていた。
縫合の痛みは、チョーカーで首を絞められた時に比べれば、取るに足らなかった。
処置室を出る頃には、ファームウェアの基本設計が頭の中で完成していた。
凛は結衣の病室に戻り、ベッドサイドの椅子に座って、ノートPCを開いた。
コードを書き始める。
結衣はベッドの上から、凛のタイピングを見ていた。
「おねえちゃん」
「なに」
「帰ってきてくれて、ありがとう」
凛の指が一瞬だけ止まり、すぐに動き出した。
「礼を言われることはしていない」
「してるよ。私を助けてくれた」
「当然のことをしただけだ」
「うん。おねえちゃんにとっては当然なんだよね。それが、すごいなって思う」
凛は答えなかった。
画面の上で、新しいファームウェアのコードが一行ずつ積み上がっていく。
搾取のないセラフ。
探知と通信だけの、純粋な防衛ツール。
壊す仕事は終わった。
ここからは、造る仕事だ。
打鍵音が、静かな病室に規則正しく響いた。
その音を聞きながら、結衣はゆっくりと目を閉じた。
今度は、魔力に蝕まれた昏睡ではない。
穏やかな、ただの午睡だった。
窓の外では、十二月の午後の陽光が、東京の街を暖かく照らしていた。
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