魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
セラフのネットワーク再構築には、三日かかった。
凛は結衣の病室を作業場にした。
ベッドサイドのテーブルにノートPCと携帯端末を並べ、アーキテクトから抜き取った通信モジュールを中枢ハブとして、世界中に散らばるセラフ端末への接続テストを繰り返した。
ファームウェアの設計は第12話の処置室で既に頭の中で完成していた。
搾取モジュールの完全削除。探知センサーと通信機能だけを残した、最小構成のファームウェア。
コードに落とし込むのに一日。テストに一日。配信準備に一日。
その間、凛の口から一度もお嬢様口調は出なかった。
素の声で端末に向かい、素の声で結衣と会話し、素の声でキララに指示を出す。
だが、三日目の夜。
通信モジュール経由で世界中のスリープ中のセラフにウェイクアップ信号を送信した瞬間、想定外のエラーが返ってきた。
約七千二百機のスリープ中の端末に信号を送り、応答があったのは四千八百機。
残りの二千四百機は、通信圏外か、ハードウェアの故障で復帰不能だった。
四千八百機。全盛期の四割。
凛はその数字を見て、思わず呟いていた。
「……足りませんわね」
口を突いて出たのは、お嬢様口調だった。
凛は自分の声に一瞬遅れて気づき、口を閉じた。
結衣がベッドの上から見ていた。
「おねえちゃん。今、戻ってたよ」
「……何が」
「お嬢様しゃべり」
凛は数秒黙った。
焦った時。想定外の事態に直面した時。
半年間染みついた戦闘モードの口調が、無意識に漏れる。
平時の凛は素の声で話す。
だが、脳が「戦闘状態」に入ると、妹の口調が自動的に起動する。
自己暗示のルーティンが、もう条件反射になっている。
「……癖だ。そのうち抜ける」
「抜けなくてもいいよ。おねえちゃんの一部だもん」
凛はその言葉に何も返さず、画面に向き直った。
四千八百機。
主要都市圏をカバーするには最低限の数だ。
足りないが、ゼロよりは遥かにましだ。
凛は四千八百機のセラフに、書き換え済みファームウェアを配信した。
探知と通信だけのセラフが、世界中で再起動していく。
モニターの世界地図に、青い点が一つずつ灯っていった。
東京。大阪。ニューヨーク。ロンドン。パリ。上海。サンパウロ。
同時に、セラフのセンサーアレイが検知した歪魔の反応が、赤い点として重なって表示された。
赤い点は、凛の予測より少なかった。
メインサーバーの停止で新たな歪魔の生産は完全に止まっている。
既存の個体も、エネルギー供給が断たれて弱体化しつつあるようだ。
だが、ゼロではない。
東京都内だけでも十七体。
次にやるべきことは明白だった。
全魔法少女に、現状を伝える。
凛は通信モジュールのブロードキャスト機能を使い、全四千八百機のセラフ経由で、全魔法少女に向けた通知文を作成し始めた。
何を書くか。
凛はキーボードの上で指を止め、数秒間考えた。
命令は書かない。
新しいシステムの規則も書かない。
必要なのは、事実だけだ。
凛は打ち始めた。
――システムは停止した。管理者は存在しない。
――ポイント制度は廃止された。歪魔を倒しても報酬は発生しない。
――歪魔は残存しているが、新たな生産は停止している。既存個体はエネルギー供給を失い、弱体化が進行中。
――魔力飽和病の患者は全員回復に向かっている。
――今後、歪魔の探知座標はセラフ端末を通じてリアルタイムで配信する。
――戦うか戦わないかは、各自の判断に委ねる。
凛はその最後の一行を書いた後、数秒間画面を見つめた。
「各自の判断に委ねる」。
この一文が、凛の設計思想の全てだ。
命令する管理者はいない。
指示を出す司令部もない。
情報だけを提供し、何をするかは使う側が決める。
凛がそう設計した。
だが、設計者の意図通りに人が動く保証はない。
誰も動かないかもしれない。報酬のない戦闘に、誰が命を懸けるのか。
凛は送信ボタンを押した。
四千八百機のセラフが、世界中の魔法少女に向けて、同じ通知を一斉に配信した。
病室に沈黙が落ちた。
結衣は眠っている。
キララは病院の売店に行っている。
凛は一人で、端末のモニターを見つめていた。
応答欄は空白のままだ。
一分が過ぎた。
二分。
三分。
応答がない。
凛の胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
当然だ。
報酬なし。指揮系統なし。システムの庇護なし。
そんな条件で命を懸けて歪魔と戦う理由が、誰にある。
凛の設計した「管理者のいないネットワーク」は、管理者がいないがゆえに、誰も動かない空っぽの箱になるのかもしれない。
四分。
五分。
端末の画面に、一件の応答が表示された。
発信元は、東京都内。
テキスト一行。
『了解。渋谷の歪魔、今から叩く』
凛は画面を凝視した。
発信者の情報を確認する。
Cランク。十七歳。個人名は匿名。
知らない魔法少女だった。
凛が名前も顔も知らない、東京のどこかにいる一人の少女が、報酬なしで、命令なしで、自分の判断で歪魔を倒しに行くと宣言している。
七分後、二件目の応答が来た。
大阪から。
『うちの近所に一体おる。近所のおばちゃんの犬が怯えとったやつ、こいつやったんか。片付ける』
九分後、三件目。ニューヨーク。
『No orders needed. Just tell me where. I'll handle the rest.』
十一分後、四件目。ロンドン。五件目。ベルリン。六件目。ソウル。
応答が加速し始めた。
凛の端末の画面を、テキストが次々と埋めていく。
『座標データを受信した。近隣の魔法少女と連絡を取り、エリアを分担する』
『ポイントなしでも戦う理由がある。私の街を守る。それだけで十分だ』
『システムの真実を知りたい。詳細情報を送ってくれ』
『二度と誰かに指図されたくない。でも、座標は使わせてもらう』
『仲間と合流した。三人で東京湾岸エリアを担当する。探知データの継続配信を頼む』
三十分後、応答は百件を超えた。
一時間後、三百件。
世界中の魔法少女たちが、凛の通知文を読み、自分の判断で動き始めている。
命令されたからではない。
報酬があるからではない。
ただ、情報を得て、自分で考え、自分で決めた。
凛は画面から目を離し、天井を見上げた。
胸の奥の冷たいものが、溶けていた。
代わりに、凛自身でもうまく名前をつけられない、温かい何かがそこにあった。
キララが病室に戻ってきた。
手にはいつものコンビニの袋。
「どう? 反応あった?」
「三百件以上」
「え? もうそんなに?」
キララが端末を覗き込み、流れ続ける応答のテキストを読んだ。
「凛。あなた、笑ってる」
「笑ってない」
「笑ってるわよ。口角、上がってる」
凛は意識して表情を戻そうとしたが、戻らなかった。
「……この人たちは、私が設計した通りに動いているわけじゃない」
「え?」
「私は情報を提供しただけだ。でも、返ってきた応答の中身は、私が想定していなかったものばかりだ。エリアの分担。近隣との連携。相互支援の提案。私が設計したのは、座標データの配信だけなのに」
「それって、嬉しいの? 想定外って、普通あなた嫌がるでしょ」
「嫌がる想定外と、嬉しい想定外がある。これは後者だ」
凛は端末を置いた。
「私が作ったのは器だけだ。中身は、使う人たちが勝手に入れ始めている。管理者がいないから、使う側が自分たちで考えて動いている。それが、私が作りたかったものだ」
キララはコンビニの袋からおにぎりを取り出し、凛に投げた。
「はい。食べなさい。笑いながら働く凛なんて初めて見たから、記念に栄養補給」
凛はおにぎりを受け取り、包装を開けた。
鮭。
齧りながら、端末の画面に目を戻す。
応答はまだ増え続けていた。
世界地図の上で、赤い点が消え始めた。
最初に消えたのは、渋谷の一点。
あの匿名のCランクの少女が、宣言通りに歪魔を仕留めたのだ。
続いて、大阪。ニューヨーク。ロンドン。
赤い点が、一つずつ消えていく。
凛はそれを見ながら、おにぎりを食べた。
一人で怪物を殺し、一人でサーバーを沈め、一人で海底から母の居場所を見つけた少女。
だが、世界中の歪魔を一人で倒すことはできない。
凛にできたのは、戦う人たちに地図を渡すことだけだ。
地図を手にした人たちが、自分の足で歩き出している。
凛の知らない場所で、凛の知らない顔の少女たちが、自分の意志で戦っている。
管理者のいないネットワーク。
凛はその設計を信じた。
そして今、設計者の予想を超えて、ネットワークは動き始めていた。
午後の病室に、打鍵音と、おにぎりを咀嚼する音と、端末の通知音が重なっている。
結衣がベッドの上で薄目を開けた。
「おねえちゃん、何の音?」
「世界中から、返事が来てる」
「いい返事?」
「ええ。いい返事だ」
口調が、一瞬だけ戻った。
凛は気づいて、小さく舌打ちした。
結衣が笑った。
「おねえちゃん、嬉しい時も出るんだね。お嬢様しゃべり」
「……黙ってろ」
凛はおにぎりの残りを口に押し込み、キーボードに向き直った。
探知データのリアルタイム共有プロトコル。
エリアごとの歪魔分布のヒートマップ生成モジュール。
複数の魔法少女が同じ歪魔に向かわないための座標重複排除ロジック。
管理者のいないネットワークを、使う側がより使いやすくするための、裏方の仕事。
地味で、地道で、誰にも見えない仕事。
だが、凛の指先は、あの夜よりも速くキーボードを叩いていた。
壊す時の速度ではない。
造る時の速度だ。