魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第14話

 一週間が経った。

 

 世界地図の上の赤い点は、最盛期の三分の一にまで減少していた。

 

 歪魔の残存個体は、メインサーバーからのエネルギー供給が途絶えたことで日ごとに弱体化し、かつてのCランクの個体ですら、今では一般的な魔法少女が単独で処理できるレベルにまで落ちている。

 

 凛が構築した分散型の探知ネットワークは、予想以上に機能していた。

 

 各国の魔法少女たちが自発的にエリアを分担し、セラフの配信する座標データに基づいて効率的に掃討を進めている。

 

 中には、近隣の魔法少女同士で独自の通信グループを作り、連携作戦を組んでいるチームもあった。

 

 凛が設計したのはインフラだけだ。

 

 その上で何が起きるかは、凛の制御の外にある。

 

 だが、それでいい。

 

 管理者のいないネットワークは、凛が想定していたよりも遥かに柔軟で、遥かに逞しかった。

 

 結衣は車椅子に乗れるようになっていた。

 

 まだ自力で歩くことはできないが、上半身の力は戻り、食事も自分で摂れるようになった。

 

 担当医は回復の速さに首を傾げていた。

 

 半年間の昏睡から、わずか一週間で車椅子まで回復する症例は、医学的にはあり得ない。

 

 だが、魔力飽和病という病名自体が医学のカテゴリーに存在しない以上、回復の速さもまた、既存の医学では説明できない。

 

 凛は担当医に何も説明しなかった。

 

 説明したところで、信じる人間はいない。

 

 火曜日の午後。

 

 凛は結衣の車椅子を押して、病院の屋上に出た。

 

 十一月の東京の空は高く、冷たい風が二人の髪を揺らした。

 

 結衣は薄い病院の毛布を膝にかけ、屋上のフェンス越しに東京の街並みを眺めていた。

 

「おねえちゃん」

 

「うん」

 

「空、青いね」

 

「うん」

 

 半年間、結衣が見ることのなかった空だ。

 

 凛は車椅子のハンドルに手を置いたまま、同じ空を見上げた。

 

 あの夜、この空の下で怪物を殺し、病院の地下に潜り、海の底を這い、沈みゆく要塞の中でスプリンクラーの水に打たれていた。

 

 たった一週間前のことだ。

 

 だが、今の凛の手には、ボクシンググローブも、サバイバルナイフも、爆破ボルトもない。

 

 代わりにあるのは、ノートPCと、携帯端末と、結衣の車椅子のハンドルだけだ。

 

 右腕の裂傷は七針縫った。

 

 左掌の擦過傷は、毎日消毒してガーゼを替えている。

 

 首元の痣はまだ黄色く残っている。

 

 どれも、治る傷だった。

 

 屋上のドアが開き、キララが出てきた。

 

 手にはコンビニの袋と、もう一つ、大きな紙袋を提げている。

 

「はい、差し入れ」

 

 キララはコンビニの袋を凛に渡し、紙袋を結衣の膝に載せた。

 

「結衣ちゃんには、こっち」

 

 結衣が紙袋の中を覗き込んだ。

 

 中身は、パステルピンクのマフラーだった。

 

 柔らかいカシミア混の生地。

 

 フリルもリボンもない、シンプルなデザイン。

 

「寒いでしょ。病院の毛布だけじゃ足りないと思って」

 

「わあ……ありがとう、キララさん」

 

 結衣はマフラーを首に巻き、少しだけ頬を緩めた。

 

 凛はその光景を見て、何も言わなかった。

 

 コンビニの袋を開け、中身を確認する。

 

 おにぎり三個、ペットボトルのお茶、板チョコレート。

 

 この一週間、凛の食事はほぼ全てキララのコンビニ調達に依存していた。

 

 自分の食事のことを考える余裕がなかったのだ。

 

 キララに礼を言ったことは一度もない。

 

 凛はおにぎりの包装を開けながら、言った。

 

「キララ」

 

「何」

 

「ありがとう」

 

 キララは一瞬だけ硬直し、それから大げさに目を丸くした。

 

「え? 今なんて言った? 風が強くて聞こえなかったんだけど」

 

「二度は言わない」

 

「あっそ。聞こえなかったのに、もったいないわね」

 

 キララは笑いながら、フェンスにもたれた。

 

 三人で黙っておにぎりを食べた。

 

 冷たい風が強くなり、結衣がくしゃみをした。

 

「そろそろ中に戻る」

 

 凛は車椅子のブレーキを外し、屋上のドアに向かった。

 

 その時、凛の携帯端末が振動した。

 

 セラフのネットワークからの通知だ。

 

 凛は片手で端末を確認した。

 

 通知の内容は、歪魔の検知ではなかった。

 

 セラフ端末の一機が、通常のセンサーデータとは異なる信号を検知している。

 

 東京湾沖合。

 

 あの要塞が沈んだ座標だ。

 

 信号のパターンは、歪魔の空間歪曲反応とは一致しない。

 

 だが、セラフのセンサーが検知した以上、何らかの魔力に関連した物理現象が発生していることは確かだ。

 

 凛は信号のスペクトルデータを端末にダウンロードし、波形を確認した。

 

 低周波の、極めて微弱な定常波。

 

 周期的に強度が変動している。

 

 まるで、何かが海底で脈動しているような波形だった。

 

「葛城さん? どうしたの、顔が怖いわよ」

 

 キララが凛の表情の変化に気づいた。

 

「……東京湾の沈没座標から、微弱な信号が出ていますわ」

 

 お嬢様口調が、不意に戻った。

 

 凛は自分でそれに気づき、唇を引き結んだ。

 

 癖だ。

 

 緊張すると、戦闘モードの口調に戻る。

 

「信号って……要塞は完全に沈んだはずでしょ。サーバーも全部水没してるわ」

 

「ええ。サーバーは死んでいる。ですが、要塞の構造全てを破壊したわけではありませんの」

 

 凛は端末の画面を見つめた。

 

 あの要塞を設計し、建造し、運用していた存在。

 

 メインサーバーはシステムの頭脳だったが、頭脳を設計した者は別にいる。

 

 凛はストレージのデータを解析した一週間の間、ずっと一つの疑問を抱えていた。

 

 運用ログの中に、システムの設計思想や建造経緯に関する記述が、一切存在しなかったのだ。

 

 通常、これほど大規模なシステムには設計文書がある。

 

 仕様書。要件定義。アーキテクチャ図。テスト計画。

 

 それらが一切ない。

 

 まるで、システムが最初から完成形で存在していたかのように。

 

 あるいは、設計文書が意図的に排除されているかのように。

 

「おねえちゃん?」

 

 結衣が車椅子から凛の顔を見上げた。

 

「また怖い顔してる」

 

 凛は端末を閉じた。

 

「……何でもない。中に戻ろう」

 

 三人は屋上から病棟の中へ戻った。

 

 廊下を歩きながら、凛は思考を巡らせていた。

 

 要塞のサーバーは、システムの頭脳だった。

 

 だが、頭脳を動かしていた「意志」の出所は、まだ特定できていない。

 

 サーバーはツールだ。

 

 ツールを作り、動かし、魔力飽和病をばら撒き、歪魔を生産し、魔法少女を搾取する仕組みを設計した存在が、どこかにいる。

 

 それが人間なのか、別の何かなのかすら、分からない。

 

 要塞の海底から発信されている微弱な定常波。

 

 それが沈没した機器の残留信号に過ぎないのか、それとも、凛がまだ把握していない何かが海底で動いているのか。

 

 今の凛には判断するデータが足りない。

 

 だが、データが足りないからといって、見なかったことにはできない。

 

 結衣の病室に戻り、凛は結衣をベッドに移す手伝いをした。

 

 結衣はベッドに横になり、新しいマフラーを首に巻いたまま目を閉じた。

 

 午後の陽光が、病室の白い壁を暖かく照らしている。

 

 キララが小声で言った。

 

「今の信号のこと、気になるんでしょ」

 

「ええ」

 

「調べるの?」

 

「調べなければなりませんわ」

 

 また口調が戻っている。

 

 凛は小さく舌打ちした。

 

「調べなければならない、と思う」

 

 言い直した。

 

 ぎこちない。

 

 半年間染みついた癖は、簡単には抜けない。

 

「一人で行く気?」

 

「行かない。海底の調査には潜水装備がいるし、もし何かがあった場合、私一人では対処できない。準備が必要だ」

 

「準備って、またあのオンボロ潜水艇?」

 

「あれは沈んだ。別の手段を考える」

 

 凛はベッドの傍らの椅子に座り、ノートPCを開いた。

 

 東京湾沖合の海底地形図。

 

 沈没座標の水深と海流データ。

 

 そして、セラフが検知した定常波の詳細なスペクトル解析。

 

 画面の光が、凛の顔を青白く照らす。

 

 その横顔を、キララは黙って見ていた。

 

「ねえ、葛城さん」

 

「凛でいい」

 

「え?」

 

「名前。凛でいい。あなたのことも名前で呼んでるんだから、対等にしないと気持ちが悪い」

 

 キララは少しだけ笑った。

 

「じゃあ、凛」

 

「何」

 

「あなたは、怖くないの」

 

 凛の指がキーボードの上で止まった。

 

「怖いに決まってる」

 

 凛は画面を見つめたまま言った。

 

「あの夜はずっと怖かった。首を絞められた時も、海に潜った時も、スプリンクラーの水を浴びながらサーバーが壊れるのを待っていた時も。全部、怖かった」

 

「……そうは見えなかったわよ」

 

「見えないようにしていただけだ。怖がっている暇があったら、次の手を考えた方がいい。それだけのことだった」

 

 凛は画面のスペクトル解析データに目を戻した。

 

「でも今は、あの夜とは違う。一人じゃないから」

 

 キララは何も言わなかった。

 

 ただ、凛の隣の長椅子に腰を下ろし、自分の端末を取り出した。

 

「私にも、そのスペクトルデータ送って。見方は分からないけど、二人で見た方が早いでしょ」

 

 凛はデータを転送した。

 

 二つの端末の画面に、同じ波形が表示される。

 

 東京湾の海底から発信される、微弱な定常波。

 

 その正体は、まだ分からない。

 

 だが、凛はもう知っている。

 

 分からないものを前にした時、最初にやるべきことは、怯えることでも、見なかったことにすることでもない。

 

 観察し、計測し、仮説を立て、検証する。

 

 物理法則は変わらない。

 

 それが怪物であろうと、海底の信号であろうと、まだ見ぬ何かであろうと。

 

 論理は、常に味方だ。

 

 結衣の穏やかな寝息。

 

 キララが端末を操作する微かな音。

 

 午後の病室に、三人分の静かな時間が流れていた。

 

 窓の外では、セラフのドローンが一機、東京の秋空を横切っていく。

 

 小さなチタン合金の機体が、夕陽を反射してきらりと光った。

 

 もう、魔法の皮は被っていない。

 

 フクロウの姿をした神秘的な妖精ではなく、ローターとカメラレンズを持つ、ただの機械だ。

 

 だが、その機械が映し出す空の青さは、嘘偽りのない本物だった。




評価バーの色ずっと無色なの草
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