魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
病院の地下。
あの夜、凛がキュービクルを爆破し、執行者を破壊した空間だ。
焼け焦げた壁面と、アークブラストで溶けた金属の残骸はそのまま残っている。
非常用電源で最低限の照明だけが点いた薄暗い地下を、凛は一人で歩いていた。
目的地は、防爆扉の奥にあった中継設備室ではない。
その手前、通路の壁面に埋め込まれた、目立たない鉄製のファイリングキャビネットだ。
凛がこのキャビネットの存在に気づいたのは、セラフのネットワーク再構築のために中継設備室に通っていた三日間のことだった。
通路の壁面に、周囲のコンクリートとは異なる色合いの補修痕がある。
後から壁を開けて何かを埋め込み、再び塞いだ痕跡。
凛は補修痕の位置と大きさから、壁の内部に金属製の収納体が存在すると推測し、サバイバルナイフで補修モルタルの薄い層を剥がした。
その下から現れたのが、このキャビネットだった。
鍵はかかっていなかった。
というより、鍵穴自体が存在しない。
引き出しの取っ手を引くだけで開く、古い事務用品だ。
中に入っていたのは、三冊のノート。
大学ノートではない。実験用のラボノートだ。
耐水性のハードカバー。ページは糸綴じで、抜き取りや差し替えができない構造になっている。
研究不正を防ぐために、正式な実験記録に使われる書式だ。
凛は三冊のノートを病室に持ち帰り、一冊目から読み始めた。
筆跡は一貫して同じ人物のもの。
癖のある右上がりの文字。数式の書き方に独特の記法がある。
ノートの最初のページに、名前が書かれていた。
葛城理沙。
一冊目のノートは、研究の初期段階を記録していた。
日付は十五年前。凛と結衣が生まれる一年前だ。
理沙は自身の身体に発現した魔力の計測から研究を始めている。
体表面からの魔力放射パターン。体内での魔力循環の周期と振幅。感情の変化に伴う出力の変動。
全てが、自分自身を被験体とした一人称の記録だった。
理沙の魔力は、通常の人間には検出できない。
既存の物理計測器では反応しない。
だが、理沙は独自の検出装置を設計していた。
超伝導量子干渉計(SQUID)を改造し、通常の磁場計測では拾えない極微弱な場の揺らぎを検出するセンサーだ。
このセンサーの設計図が、ノートの十五ページから三十二ページにかけて詳細に記されている。
凛はその設計図を見て、息を呑んだ。
セラフのセンサーアレイの基本構造と、原理が同一だった。
セラフの歪魔探知機能は、理沙が自分の魔力を計測するために設計したセンサーが起源だったのだ。
一冊目のノートの後半には、防衛装備庁との共同研究が始まった経緯が記されていた。
理沙の論文が学内の研究報告会で発表された際、出席していた防衛装備庁の技官が関心を示した。
「未知のエネルギー場を検出し、制御する技術」は、軍事的な応用可能性がある。
防衛省は、ARC-00というプロジェクトコードで予算を割り当て、理沙の研究を支援し始めた。
理沙のノートには、その技官とのやり取りが断片的に記録されている。
技官は理沙の研究に対して、二つの要求を出していた。
第一に、魔力の人工的な増幅手法の確立。
第二に、魔力を帯びた生体兵器の開発可能性の検討。
理沙は第一の要求には応じたが、第二の要求は拒否した、とノートに書かれている。
二冊目のノートは、凛と結衣が生まれた後の記録だった。
理沙の筆跡は変わらないが、文章の密度が上がっている。
時間に追われている人間の書き方だった。
双子の出産。
出産直後の魔力検査。
二人の新生児の体内に、母体由来の微弱な魔力が残存していることを理沙は確認した。
通常であれば、新生児の免疫系が異物として排除し、数週間で消失するはずの量だ。
だが、理沙はここで実験を行った。
免疫系が未成熟な新生児期に、外部から追加の魔力を注入することで、魔力を生体に定着させる試み。
ノートには、注入量と手順が詳細に記録されている。
被験体001。結衣。
注入量は段階的に増加され、最終的に理沙自身の魔力の約十分の一に相当する量が定着した。
結衣の身体は魔力を拒絶せず、自然に循環系を形成した。
被験体002。凛。
同じ手順で注入を試みたが、凛の身体は魔力の大部分を拒絶した。
注入量の九十九パーセント以上が排出され、定着したのはごく微量。
だが、理沙はその微量の残存魔力が、凛の神経系に通常とは異なる形で統合されていることに気づいた。
ノートにはこう記されている。
「002の残存魔力は、運動神経と感覚神経のシナプス接合部に集中的に分布している。出力は測定限界以下だが、神経伝達の精度が生理的限界を超えて向上している。これは注入実験の副産物であり、意図した結果ではない」
凛はそのページを何度も読み返した。
自分のFランクの正体。
異常な精度。
保護継電器の接点をミリ単位で焼き切った指先。
それは才能でも、努力の成果でも、システムからの恩恵でもなかった。
生後数週間の自分に母が注入した魔力の、予期されなかった副作用だった。
三冊目のノート。
日付は、理沙が「事故死」する二年前から始まっている。
筆跡が乱れ始めていた。
理沙は、結衣の体内に定着した魔力が、年齢と共に増幅し始めていることに気づいた。
当初は安定していた循環系が、結衣の成長に伴って出力を増大させている。
理沙の想定を超える速度で。
このままでは、結衣の魔力が臨界点を超え、暴走する。
魔力飽和。
母自身がその理論を構築し、娘の身体にその種を植え付けてしまった。
理沙は結衣の暴走を防ぐために、制御装置を設計し始めた。
外部フィードバック機構。
結衣の魔力を監視し、閾値を超えそうになったら排出させる装置。
これが、搾取コンバーターの原型だった。
だが、ノートの記述はここから急速に暗くなっていく。
防衛装備庁の技官が、理沙の制御装置に目をつけた。
魔力を排出するのではなく、回収する。
回収した魔力をエネルギー源として、生体兵器を開発する。
理沙が拒否していた第二の要求が、結衣の暴走リスクを利用する形で、再び持ち上がった。
ノートの記述は断片的になっていく。
理沙と技官の間で何があったのか、詳細は書かれていない。
だが、結果だけが記されている。
理沙は装置の設計を技官に奪われた。
技官は、理沙の制御装置を改造し、搾取と兵器生産のためのシステムへと変貌させた。
それがARC-00の最終形態――魔法少女のシステムの原型だった。
三冊目のノートの最後のページ。
理沙の筆跡が、最後の数行だけ大きく乱れている。
「実験は成功した。だが、私はこの子たちにしたことの代償を払わなければならない。システムは私が止める。私が造ったものは、私が壊す」
日付は、理沙が「事故死」した日の前日。
その翌日、理沙は消えた。
戸籍上は事故死。
だが、遺体は発見されていない。
凛はノートを閉じた。
病室の窓から、夕暮れの光が差し込んでいる。
結衣は眠っていた。
凛は三冊のノートをテーブルの上に並べ、その背表紙を見つめた。
母は自分の魔力を研究し、その理論を実証するために娘を実験に使い、その成果を国家に奪われ、制御を失ったシステムを止めるために単独で立ち向かい、そして消えた。
止められなかったのか。
それとも、止めようとして、逆にシステムに取り込まれたのか。
答えは、海底にある。
凛は沙耶に連絡を入れた。
――『電子系統の整備に入る。明日、横須賀に向かう』
返信は即座に来た。
――『了解。ドックで待つ』
凛は端末を閉じ、眠っている結衣の手に、一瞬だけ指先を触れた。
明後日、海に潜る。
十二年前に母が沈んだ場所へ。