魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
横須賀。
海洋研究開発機構の廃棄ドック。
潮風と錆の匂いが充満する巨大な屋内係留池の中に、白い船体が浮かんでいた。
旧型の有人潜水調査船「うらしま」。
全長九・七メートル。耐圧殻はチタン合金製。最大潜航深度三百メートル。
二十年前に就役し、五年前に退役。スクラップ申請が出されたまま予算の都合で放置されていた個体だ。
沙耶が入手した時点では、バッテリーは完全放電、スラスターの軸受けに塩害腐食、計器類の半数が死んでいた。
沙耶が四日間で機械系統を復旧させた。
軸受けの交換。バッテリーセルの入れ替え。油圧系統のフラッシングとOリングの全数交換。
元海自の潜水艦乗りにとって、調査船の整備は勝手知ったる作業だった。
凛は五日目から電子系統に入った。
死んでいた計器類のうち、深度計と姿勢指示器は基板のコンデンサを交換して復旧。
ソナーのトランスデューサーは修理不能だったため、凛はセラフのドローン一機を船外に固定し、セラフのセンサーアレイを外部ソナーとして代用するバイパスを組んだ。
ナビゲーションは、前回の密漁艇と同じく、凛の携帯端末を潜水船の操縦系に直結する方式。
整備の最終日。
凛、キララ、沙耶の三人が、ドックの縁に座って缶コーヒーを飲んでいた。
「明日、〇四〇〇に出港する」
沙耶が缶を握りながら言った。
「潮流の関係で、沈没座標への接近は〇六〇〇前後が最適だ。潜航に一時間。海底での作業時間は酸素量から計算して最大三時間。帰還も含めて、全行程八時間を見込んでいる」
「酸素は足りるの?」
キララが尋ねた。
「三人分で六時間。予備ボンベを含めて八時間が限界だ。それ以上は潜れない」
「作業内容を確認する」
凛は端末を開き、ROVで撮影した海底の映像を表示した。
水深八十メートルに横倒しで着底した要塞の残骸。
チタン装甲は海水腐食で茶色く変色し、一部は崩落している。
凛が指差したのは、要塞の最深部――メインサーバー室のさらに下層に位置する区画だった。
「ROVのソナーが、ここに生体反応に近い熱源パターンを検知した。信号は定常波として継続的に発信されている。これが母――葛城理沙である可能性がある」
沙耶は映像を見つめた。
「仮にそこに人間がいるとして。十二年間、海底で生存しているのか」
「通常の人間なら不可能だ。だが、母は先天的な魔力保有者であり、自身の魔力でシステム全体のエネルギーを供給していた。母の魔力が自身の生体を維持している可能性はある」
「可能性、か」
「確認するまで断定はしない。だから潜る」
沙耶は頷いた。
「隠し区画へのアクセスルートは」
「メインサーバー室の床面。前回の潜航でROVが撮影した映像を解析したところ、サーバーラックが林立していた区画の床面中央に、直径二メートルの円形ハッチがある。サーバーが稼働していた時は、ラックの配置で完全に隠されていた。スプリンクラーの水没と要塞の傾斜でラックが崩れ、ハッチが露出した」
凛は映像を拡大した。
確かに、崩れ落ちたサーバーラックの残骸の間に、円形の金属製ハッチが見えている。
「このハッチの向こうが隠し区画だ。ハッチの開閉機構は電動だが、電源は死んでいる。手動での開放が必要になる」
「手動開放の手段は」
「ハッチの縁に非常用の手動レバーがある。ROVの映像で確認済みだ。ただし、要塞は完全に水没しているから、ハッチを開けた時点で隠し区画にも海水が流入する。中の生体が海水に晒されるリスクがある」
三人は黙った。
ハッチを開けなければ、中を確認できない。
だが、開ければ、中にいるかもしれない人間を海水に晒す。
「凛」
キララが口を開いた。
「中の人が……お母さんが生きているとして。十二年間、密閉された区画の中で魔力だけで生きていたんでしょ。海水が入ったら、どうなるの」
「分からない。母の生命維持が魔力に依存しているなら、海水の流入は直接的な致命傷にはならないかもしれない。だが、カプセルの生命維持機能が海水で損傷すれば、母の状態は急激に悪化する可能性がある」
「つまり、開けた瞬間が勝負ってこと」
「ええ。ハッチを開けたら、できる限り速やかに中の状態を確認し、必要な処置を行い、可能であれば母ごと浮上させる。時間との戦いになる」
沙耶が缶コーヒーを飲み干し、潰した。
「限界まで粘って三時間。海底での実作業時間は、移動を差し引いて二時間弱。その中で、ハッチ開放、区画内の調査、状態確認、処置、回収を全て終わらせる」
「きつくないか」
「きつい。だが、酸素が尽きれば全員死ぬ。時間を延ばす方法はない」
凛は端末を閉じた。
「装備を確認する。潜水船には外部マニピュレーターが二基。ハッチの手動レバー操作と、区画内の障害物除去に使える。船外活動用の潜水服は二着。私と沙耶さんが船外に出て、キララは船内で通信と緊急浮上を担当する」
「また保険要員?」
「最も重要な役割だ。もし船外活動中にトラブルが起きた場合、キララの魔力で潜水船ごと強制浮上させるのが唯一の生還手段になる」
キララは不満そうな顔をしたが、反論はしなかった。
三人はドックを出て、横須賀の薄暗い港を歩いた。
夕陽が海面をオレンジ色に染めている。
明日の朝、この海に潜る。
「鷹取さん」
凛が歩きながら言った。
「何だ」
「母が生きていた場合、あなたが聞きたいことがあるはずだ」
沙耶は数歩、無言で歩いた。
「ああ。あるさ」
「何を聞く」
「私が八年間殺してきた歪魔のコアに入っていた心臓は、誰のものだったのか。名前があるなら、知りたい」
凛は何も言わなかった。
三百人分の心臓。
その全てに名前がある。
ストレージのデータに、患者の管理番号と紐づいた情報が残っている可能性はある。
だが、暗号化されたデータベースの中だ。凛にはまだ読めない。
母が目覚めれば、暗号化キーを知っているかもしれない。
あるいは、母自身が全ての名前を記憶しているかもしれない。
夕暮れの横須賀の港に、三人の足音だけが響いていた。
翌朝、〇三三〇。
凛は暗闘のドックで目を覚ました。
潜水船の操縦席で仮眠を取っていた。
隣のシートで、沙耶が既に計器のチェックを始めている。
「起きたか」
「ええ」
「コーヒーがある。インスタントだが」
沙耶が保温ボトルを差し出した。
凛は受け取り、一口飲んだ。
苦い。砂糖が入っていない。
「出港準備を始める。キララは」
「後部座席で寝てる。〇三五〇に起こす」
凛は端末を開き、セラフのネットワーク経由で東京湾の海況データを確認した。
波高〇・五メートル。風速三メートル。潮流は南南西。
潜航には問題ない条件だ。
凛は端末を閉じ、操縦席の窓から外を見た。
ドックの隙間から、夜明け前の空が見えた。
まだ暗い。
だが、東の水平線の縁が、わずかに白み始めていた。
十二年間、海底に沈んでいた母のもとへ。
凛は冷たいインスタントコーヒーを飲み干し、電子系統の最終チェックに取りかかった。
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