魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
〇四〇〇。出港。
潜水調査船「うらしま」は、夜明け前の横須賀港を静かに離れた。
沙耶の操舵で東京湾を南南東に進む。
水上航行中は船体上部のハッチを開放し、冷たい海風がコックピットに流れ込んでいた。
凛は操縦席の横で、セラフ経由の海況データと沈没座標のソナーマッピングを並行して監視している。
後部座席のキララは、膝にステッキを抱えて黙っていた。
普段の軽口がない。
三人とも、これから何が見つかるか分からない海底に向かっていることの重みを、それぞれの形で飲み込んでいた。
〇五三〇。沈没座標の上空に到達。
凛が船外に固定したセラフのセンサーが、海底八十メートルからの定常波を検知している。
信号強度は前回のROV調査時と変わらない。
脈動は続いている。
「潜航準備。ハッチ閉鎖」
沙耶の簡潔な号令で、上部ハッチが油圧で閉じた。
密閉音。
酸素残量計のデジタル表示が点灯する。
六時間十二分。
これが、三人の命の残量だ。
「バラストタンク注水開始。潜航する」
ゴボゴボという鈍い音と共に、船体が海面下に沈んでいく。
窓の外が青から紺、紺から黒へと変わっていく。
水深二十メートル。四十メートル。六十メートル。
外部照明を点灯。白い光が、暗黒の海中を切り裂いた。
水深八十メートル。
照明の先に、巨大な影が浮かび上がった。
要塞の残骸だ。
横倒しで海底に着底した巨大なプラットフォームが、まるで座礁した鯨のように暗い海底を占拠している。
チタン装甲の表面は海洋生物の付着で斑に変色し、一部は腐食で崩落して内部構造が剥き出しになっていた。
凛があの夜、スプリンクラーの水を浴びながらサーバーを破壊した場所。
たった二週間前のことだが、海はもう、要塞を自らの一部として飲み込み始めていた。
「メインサーバー室への進入口を探す。要塞が横倒しになっているから、当時の床面が今は壁面になっている。方向感覚を失わないように注意してくれ」
沙耶が操舵しながら言った。
凛はROVの映像と現在のソナーデータを照合し、進入ルートを指示した。
あの夜、凛とキララが搬入ドックから侵入した経路は、要塞の傾斜と沈没で完全に圧壊している。
代わりに、要塞の外壁が腐食で崩落した箇所から、内部に直接アクセスできる開口部を特定した。
沙耶は潜水船を慎重に操舵し、崩落した外壁の隙間から要塞の内部へと滑り込ませた。
船体の両側を、ひしゃげた鉄骨と崩れたコンクリートが挟む。
金属の残骸が船殻を擦り、不快な軋み音が響く。
進入から八分。
照明の先に、メインサーバー室の空間が広がった。
横倒しになったサーバーラック群が、海底の泥に半ば埋もれて散乱している。
スプリンクラーの水で水没した室内は、今や完全に海水で満たされ、腐食した電子基板の破片が水中を漂っていた。
凛の目が、崩れたラックの隙間に見える円形の金属面を捉えた。
「あれだ。ハッチ」
直径約二メートルの円形ハッチ。
要塞が横倒しになったことで、元の「床面」にあったハッチは現在、ほぼ垂直の「壁面」として露出している。
表面には厚い藻が付着しているが、ハッチの輪郭と、縁に設置された赤い手動レバーははっきりと確認できた。
「船外活動を開始する。凛、準備はいいか」
「ええ」
凛と沙耶は後部の与圧室で潜水服に着替えた。
調査船に付属していた旧型の大気圧潜水服だ。
硬質の外殻と関節部の可動ジョイントで構成され、内部は一気圧に保たれるため、減圧症のリスクがない。
その代わり、動きは鈍重で、指先の自由度は低い。
凛はグローブの中で指を動かした。
この潜水服の分厚いグローブ越しでは、普段の精密作業は不可能だ。
必要な操作は、全てハッチのレバーとマニピュレーターで行うしかない。
与圧室のハッチが開き、二人は暗い海水の中へ泳ぎ出た。
ヘッドランプの白い光が、崩壊したサーバー室の残骸を照らす。
水中では音が消える。
通信は潜水服のインカムだけだ。
「凛、ハッチまでの距離十二メートル。残骸に注意して進め」
沙耶の声がインカムに響く。元海自の冷静な口調。
凛はスラスターで推進し、ラックの残骸を避けながらハッチに接近した。
ハッチの表面に手を触れる。
分厚いグローブ越しでも、微かな振動が伝わってきた。
定常波だ。
ハッチの向こう側で、何かが脈動している。
「レバーを操作する。沙耶さん、反対側を押さえて」
凛はハッチの縁の手動レバーを掴んだ。
赤い塗装が剥げ、海洋生物の付着で固くなっている。
凛は体重をかけてレバーを押し下げた。
ギギギ……と金属が軋む音が水中を伝わる。
動かない。
固着している。
「沙耶さん、マニピュレーターでレバーの根元を叩いて。固着を剥がす」
沙耶が潜水船の外部マニピュレーターを遠隔操作し、レバーの根元に軽い衝撃を与えた。
ガコンッ。
固着が外れ、レバーが一気に下がった。
ガシャンッ、という重い金属音が海中に響き渡る。
ロック解除。
ハッチの縁から、気泡が一列に噴き出した。
内部に残っていた空気だ。
ハッチの内側は、完全に水没していなかった。
少なくとも一部に空気が残存している。
「開ける」
凛はハッチの縁に指をかけ、引いた。
重い。
水圧と自重で、一人の力では動かない。
沙耶が凛の横に並び、二人で同時にハッチを引いた。
ギギギギ……ッ!
金属の悲鳴。
ハッチが、数センチだけ開いた。
その瞬間、隙間から紫色の光が噴出した。
凛の潜水服のセンサーが警告音を鳴らす。
魔力密度が、計測限界を超えている。
紫色の光は海水の中を拡散し、周囲の視界を染め上げていく。
ヘッドランプの白い光が、紫に呑まれて消える。
「凛! 魔力濃度が異常値だ! 潜水服の電子系が干渉を受けている!」
沙耶のインカムにノイズが混じり始めた。
「分かっている。もう少し開ける。中を確認する」
凛は歯を食いしばり、ハッチをさらに引いた。
数センチが、十センチに。
十センチが、二十センチに。
隙間から溢れ出す紫色の光の中に、凛はヘッドランプの残光を差し向けた。
ハッチの向こう側。
崩壊したサーバー室とは全く異なる空間が、そこにあった。
壁面がコンクリートや金属ではない。
半透明の、有機的な質感を持つ素材で構成されている。
紫色の光脈が、壁面の中を血管のように走っている。
脈動している。
機械と生体の融合。
区画そのものが、一つの巨大な生命維持装置だった。
その中央に、半透明のカプセルがある。
カプセルの中に、人間が一人、横たわっていた。
無数のケーブルと管に繋がれ、目を閉じている。
長い黒髪が、カプセルの液体の中でゆっくりと揺れていた。
年齢は三十代半ばに見える。
だが、十二年間、老化が止まっている。
凛は、その顔を知っていた。
写真でしか見たことのない顔。
結衣がベッドの脇の小さなフォトフレームに入れて、ずっと大切にしていた一枚の写真。
葛城理沙。
凛の、母親だった。
「……いた」
凛のインカムから、掠れた声が漏れた。
「いたよ。生きてる。母さんが、ここにいる」
潜水船の中で通信を聞いていたキララが、何かを言おうとして、やめた。
インカムの向こうで、凛の呼吸だけが荒く聞こえていた。
紫色の光が、暗い海底を静かに照らし続けている。
十二年ぶりの再会は、水深八十メートルの暗黒の中で、分厚い潜水服とカプセルの壁に隔てられたまま、果たされた。
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