魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
紫色の光に満たされた隠し区画の中で、凛は母のカプセルの前に立っていた。
大気圧潜水服のヘルメットの内側が、凛の呼気で曇る。
視界を確保するためにデフォッガーが作動し、白い曇りが拭われた。
カプセルの壁面は半透明で、内部に満たされた透明な液体の中に、理沙の身体が浮かんでいる。
目を閉じている。
表情は穏やかだ。苦痛の兆候はない。
カプセルの外壁に手を触れた。
潜水服のグローブ越しでも、内部から伝わる微弱な振動が分かる。
心臓の鼓動に同期した、規則正しい脈動。
生きている。
凛は感情を押し込め、分析に集中した。
カプセルの構造を観察する。
外壁は、要塞の他の区画で使われていたチタン合金やコンクリートとは全く異なる素材で構成されている。
半透明で、弾力がある。
光脈が壁面の内部を走り、紫色の魔力が循環している。
生体に近い組織だが、完全な生体ではない。
人工的に設計された、機械と生体の中間のような素材。
理沙の研究ノートに記されていた「魔力の人工循環系」の、最も極端な実装形態。
理沙自身の身体を中核として、循環系が物理的に構築されている。
カプセルは理沙を保護しているのではない。
カプセルそのものが、理沙の魔力を受けて稼働する巨大な循環装置であり、理沙はその中心に組み込まれた「心臓」だ。
凛はカプセルの外壁を丹念に調べ、一つのインターフェースポートを見つけた。
メインサーバーへの接続に使われていた、太い光ファイバーのコネクタだ。
ケーブルは切断されている。
凛がメインサーバーを破壊した時に、サーバー側の接続点が水没して断線したのだ。
だが、カプセル側のコネクタは無傷で残っている。
「沙耶さん。カプセルの外壁にインターフェースポートがある。サーバーへの接続コネクタだ。ケーブルは断線しているが、ポートは生きている」
「それで何ができる」
「今は何もできない。だが、ここに通信モジュールを接続すれば、カプセルの制御系に外部からアクセスできる可能性がある」
凛はカプセルの全周を確認した。
外壁にひび割れが走っている箇所が三つ。
ROVで観測した時よりも、亀裂が広がっている。
亀裂の縁から、紫色の魔力が微かに漏出していた。
「カプセルの外壁が劣化している。サーバーからの制御信号が途絶えたことで、カプセルの自己修復機能が低下しているんだ。このままでは、外壁が完全に崩壊して、理沙の魔力が制御なしに外部へ放出される」
「それは、どういうことになる」
「結衣に起きたのと同じことが、桁違いのスケールで起きる。結衣の魔力は理沙の十分の一。理沙の魔力が暴走すれば、東京湾の海水を沸騰させるレベルのエネルギーが放出される可能性がある」
インカムの向こうで、キララの声が割り込んだ。
「凛、それっていつ起きるの」
「カプセルの劣化速度から推算する」
凛はヘッドランプで亀裂の縁を照らし、携帯端末のカメラで撮影した。
亀裂の幅。縁の変色パターン。漏出する魔力の強度。
複数の亀裂の進行度を比較し、劣化の速度を推定する。
「最も大きい亀裂の進行速度は、一日あたり約〇・三ミリ。外壁の残存厚みは最薄部で約四ミリ。……十三日前後で外壁が貫通する計算になる」
「二週間弱」
「ええ。それまでに対策を講じなければ、暴走が始まる」
凛はカプセルの前で立ち止まり、潜水服のグローブを外壁に押し当てた。
母の心臓の鼓動が、グローブ越しに伝わってくる。
六十二拍。規則正しい。
安定した生命の鼓動だ。
だが、その安定を維持しているカプセルが、日に日に崩壊していく。
凛はカプセルの周囲をさらに調べた。
外壁に接続されたケーブルや管は、全てカプセルの内部機構と一体化している。
物理的に切り離すことは、カプセルの生命維持機能を破壊することと同義だ。
つまり、理沙をカプセルから取り出して地上に運ぶことは、現時点ではできない。
取り出せば、理沙の生命維持が途絶え、同時に制御を失った魔力が暴走する。
かといって、このまま放置すれば、カプセルが劣化して同じ結果になる。
「凛。作業時間の残りは」
沙耶の声が、凛を現実に引き戻した。
「酸素残量から逆算して、海底での残り時間はあと四十分だ。必要なデータを取って帰るぞ」
「分かった」
凛はカプセルの外壁のインターフェースポートの規格と寸法を計測し、端末に記録した。
亀裂の位置と進行度を全てマッピングし、写真に残した。
カプセルの外壁の素材を微量サンプリングするために、サバイバルナイフの先端で亀裂の縁のごく薄い破片を採取し、密閉サンプルバッグに収納した。
区画の全体構造を、ヘッドランプとセンサーで三次元スキャンした。
壁面の光脈の分布パターン。魔力の循環方向。カプセルとの接続点。
全てのデータを携帯端末に記録していく。
作業の合間に、凛はもう一度だけカプセルの壁面に顔を近づけた。
理沙の顔が、半透明の壁越しに、すぐそこにある。
三十代半ばの女性の顔。
凛と結衣の面影がある。いや、逆だ。凛と結衣が、この顔の面影を持っている。
凛は何も言わなかった。
言いたいことは山ほどあった。
なぜ私たちを実験に使った。なぜ一人で止めようとした。なぜ十二年間も沈んでいた。
だが、分厚い潜水服のヘルメットと、カプセルの壁と、十二年間の沈黙を隔てて、声は届かない。
凛は手をカプセルから離した。
「データ取得完了。浮上する」
凛と沙耶は隠し区画を出て、ハッチを再び閉じた。
完全には閉まらなかった。
ハッチの縁に海洋生物が噛み込んでおり、五センチほどの隙間が残る。
そこから紫色の光が細く漏れていた。
二人は潜水船に戻り、与圧室でヘルメットを外した。
凛の顔は蒼白だった。
寒さだけではない。
「凛、大丈夫?」
キララが後部座席から身を乗り出した。
「大丈夫だ。問題は、時間がないこと」
凛は操縦席に座り、端末を開いた。
記録したデータを画面に展開する。
「カプセルの外壁が持つのは十三日前後。それまでに、理沙の魔力を制御する代替手段を構築しなければ、東京湾で暴走が起きる」
「代替手段って、何があるの」
「メインサーバーが担っていた役割を、別の手段で代行する。理沙の魔力を受け取り、安全に分散して放散するシステム。原理的には、結衣のコンバーターと同じことを、桁違いのスケールでやる必要がある」
沙耶がバラストタンクの排水を始めながら言った。
「コンバーターを作り直すのか」
「作り直す時間はない。既にあるものを使う」
凛の指が、端末の画面を切り替えた。
世界地図。
四千八百の青い点が、各国の上空に散らばっている。
「セラフのネットワーク。これを、魔力の分配器として転用する」
「探知用のドローンを、エネルギーの放散装置に変えるってこと?」
「ええ。一機あたりの放散能力は微弱だが、四千八百機が同時に稼働すれば、理沙の魔力を処理できる総量に達する。計算上は」
「計算上は、ね」
キララが呟いた。
「でも、理沙さんのカプセルからセラフのネットワークに、どうやって魔力を中継するの。サーバーはもう沈んでるのよ」
「中継器が要る。カプセルのインターフェースポートに接続し、魔力をセラフのネットワークプロトコルに変換して送信できるデバイス」
凛はポーチの中に手を入れた。
指先が、一つの金属の塊に触れる。
アーキテクトの通信モジュール。
あの夜から、ずっと持ち歩いているデバイス。
セラフのネットワーク再構築に使い、世界中のコンバーターにファームウェアを配信し、全ての管理コマンドの認証キーとして機能してきた、唯一の管理者権限デバイス。
これをカプセルに接続して中継器にすれば、理論上は機能する。
だが、このモジュールを海底に設置した時点で、凛はシステムへの全ての特権アクセスを失う。
セラフのネットワークの管理も、コンバーターの制御も、一切の管理者コマンドが実行できなくなる。
管理者が、本当の意味で消える。
凛はモジュールをポーチの中に戻した。
潜水船はゆっくりと浮上を始めていた。
水深六十メートル。四十メートル。二十メートル。
窓の外が、黒から紺、紺から青へと明るくなっていく。
海面を突き破り、朝の光がコックピットに差し込んだ。
十二月の太陽が、冷たい海面を白く照らしている。
凛は上部ハッチを開け、潮風を肺一杯に吸い込んだ。
十三日。
それが、母の命と、東京湾の安全と、凛自身の管理者としての立場の、全てのタイムリミットだった。
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