魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第20話

 紫色の光に満たされた隠し区画の中で、凛は母のカプセルの前に立っていた。

 

 大気圧潜水服のヘルメットの内側が、凛の呼気で曇る。

 

 視界を確保するためにデフォッガーが作動し、白い曇りが拭われた。

 

 カプセルの壁面は半透明で、内部に満たされた透明な液体の中に、理沙の身体が浮かんでいる。

 

 目を閉じている。

 

 表情は穏やかだ。苦痛の兆候はない。

 

 カプセルの外壁に手を触れた。

 

 潜水服のグローブ越しでも、内部から伝わる微弱な振動が分かる。

 

 心臓の鼓動に同期した、規則正しい脈動。

 

 生きている。

 

 凛は感情を押し込め、分析に集中した。

 

 カプセルの構造を観察する。

 

 外壁は、要塞の他の区画で使われていたチタン合金やコンクリートとは全く異なる素材で構成されている。

 

 半透明で、弾力がある。

 

 光脈が壁面の内部を走り、紫色の魔力が循環している。

 

 生体に近い組織だが、完全な生体ではない。

 

 人工的に設計された、機械と生体の中間のような素材。

 

 理沙の研究ノートに記されていた「魔力の人工循環系」の、最も極端な実装形態。

 

 理沙自身の身体を中核として、循環系が物理的に構築されている。

 

 カプセルは理沙を保護しているのではない。

 

 カプセルそのものが、理沙の魔力を受けて稼働する巨大な循環装置であり、理沙はその中心に組み込まれた「心臓」だ。

 

 凛はカプセルの外壁を丹念に調べ、一つのインターフェースポートを見つけた。

 

 メインサーバーへの接続に使われていた、太い光ファイバーのコネクタだ。

 

 ケーブルは切断されている。

 

 凛がメインサーバーを破壊した時に、サーバー側の接続点が水没して断線したのだ。

 

 だが、カプセル側のコネクタは無傷で残っている。

 

「沙耶さん。カプセルの外壁にインターフェースポートがある。サーバーへの接続コネクタだ。ケーブルは断線しているが、ポートは生きている」

 

「それで何ができる」

 

「今は何もできない。だが、ここに通信モジュールを接続すれば、カプセルの制御系に外部からアクセスできる可能性がある」

 

 凛はカプセルの全周を確認した。

 

 外壁にひび割れが走っている箇所が三つ。

 

 ROVで観測した時よりも、亀裂が広がっている。

 

 亀裂の縁から、紫色の魔力が微かに漏出していた。

 

「カプセルの外壁が劣化している。サーバーからの制御信号が途絶えたことで、カプセルの自己修復機能が低下しているんだ。このままでは、外壁が完全に崩壊して、理沙の魔力が制御なしに外部へ放出される」

 

「それは、どういうことになる」

 

「結衣に起きたのと同じことが、桁違いのスケールで起きる。結衣の魔力は理沙の十分の一。理沙の魔力が暴走すれば、東京湾の海水を沸騰させるレベルのエネルギーが放出される可能性がある」

 

 インカムの向こうで、キララの声が割り込んだ。

 

「凛、それっていつ起きるの」

 

「カプセルの劣化速度から推算する」

 

 凛はヘッドランプで亀裂の縁を照らし、携帯端末のカメラで撮影した。

 

 亀裂の幅。縁の変色パターン。漏出する魔力の強度。

 

 複数の亀裂の進行度を比較し、劣化の速度を推定する。

 

「最も大きい亀裂の進行速度は、一日あたり約〇・三ミリ。外壁の残存厚みは最薄部で約四ミリ。……十三日前後で外壁が貫通する計算になる」

 

「二週間弱」

 

「ええ。それまでに対策を講じなければ、暴走が始まる」

 

 凛はカプセルの前で立ち止まり、潜水服のグローブを外壁に押し当てた。

 

 母の心臓の鼓動が、グローブ越しに伝わってくる。

 

 六十二拍。規則正しい。

 

 安定した生命の鼓動だ。

 

 だが、その安定を維持しているカプセルが、日に日に崩壊していく。

 

 凛はカプセルの周囲をさらに調べた。

 

 外壁に接続されたケーブルや管は、全てカプセルの内部機構と一体化している。

 

 物理的に切り離すことは、カプセルの生命維持機能を破壊することと同義だ。

 

 つまり、理沙をカプセルから取り出して地上に運ぶことは、現時点ではできない。

 

 取り出せば、理沙の生命維持が途絶え、同時に制御を失った魔力が暴走する。

 

 かといって、このまま放置すれば、カプセルが劣化して同じ結果になる。

 

「凛。作業時間の残りは」

 

 沙耶の声が、凛を現実に引き戻した。

 

「酸素残量から逆算して、海底での残り時間はあと四十分だ。必要なデータを取って帰るぞ」

 

「分かった」

 

 凛はカプセルの外壁のインターフェースポートの規格と寸法を計測し、端末に記録した。

 

 亀裂の位置と進行度を全てマッピングし、写真に残した。

 

 カプセルの外壁の素材を微量サンプリングするために、サバイバルナイフの先端で亀裂の縁のごく薄い破片を採取し、密閉サンプルバッグに収納した。

 

 区画の全体構造を、ヘッドランプとセンサーで三次元スキャンした。

 

 壁面の光脈の分布パターン。魔力の循環方向。カプセルとの接続点。

 

 全てのデータを携帯端末に記録していく。

 

 作業の合間に、凛はもう一度だけカプセルの壁面に顔を近づけた。

 

 理沙の顔が、半透明の壁越しに、すぐそこにある。

 

 三十代半ばの女性の顔。

 

 凛と結衣の面影がある。いや、逆だ。凛と結衣が、この顔の面影を持っている。

 

 凛は何も言わなかった。

 

 言いたいことは山ほどあった。

 

 なぜ私たちを実験に使った。なぜ一人で止めようとした。なぜ十二年間も沈んでいた。

 

 だが、分厚い潜水服のヘルメットと、カプセルの壁と、十二年間の沈黙を隔てて、声は届かない。

 

 凛は手をカプセルから離した。

 

「データ取得完了。浮上する」

 

 凛と沙耶は隠し区画を出て、ハッチを再び閉じた。

 

 完全には閉まらなかった。

 

 ハッチの縁に海洋生物が噛み込んでおり、五センチほどの隙間が残る。

 

 そこから紫色の光が細く漏れていた。

 

 二人は潜水船に戻り、与圧室でヘルメットを外した。

 

 凛の顔は蒼白だった。

 

 寒さだけではない。

 

「凛、大丈夫?」

 

 キララが後部座席から身を乗り出した。

 

「大丈夫だ。問題は、時間がないこと」

 

 凛は操縦席に座り、端末を開いた。

 

 記録したデータを画面に展開する。

 

「カプセルの外壁が持つのは十三日前後。それまでに、理沙の魔力を制御する代替手段を構築しなければ、東京湾で暴走が起きる」

 

「代替手段って、何があるの」

 

「メインサーバーが担っていた役割を、別の手段で代行する。理沙の魔力を受け取り、安全に分散して放散するシステム。原理的には、結衣のコンバーターと同じことを、桁違いのスケールでやる必要がある」

 

 沙耶がバラストタンクの排水を始めながら言った。

 

「コンバーターを作り直すのか」

 

「作り直す時間はない。既にあるものを使う」

 

 凛の指が、端末の画面を切り替えた。

 

 世界地図。

 

 四千八百の青い点が、各国の上空に散らばっている。

 

「セラフのネットワーク。これを、魔力の分配器として転用する」

 

「探知用のドローンを、エネルギーの放散装置に変えるってこと?」

 

「ええ。一機あたりの放散能力は微弱だが、四千八百機が同時に稼働すれば、理沙の魔力を処理できる総量に達する。計算上は」

 

「計算上は、ね」

 

 キララが呟いた。

 

「でも、理沙さんのカプセルからセラフのネットワークに、どうやって魔力を中継するの。サーバーはもう沈んでるのよ」

 

「中継器が要る。カプセルのインターフェースポートに接続し、魔力をセラフのネットワークプロトコルに変換して送信できるデバイス」

 

 凛はポーチの中に手を入れた。

 

 指先が、一つの金属の塊に触れる。

 

 アーキテクトの通信モジュール。

 

 あの夜から、ずっと持ち歩いているデバイス。

 

 セラフのネットワーク再構築に使い、世界中のコンバーターにファームウェアを配信し、全ての管理コマンドの認証キーとして機能してきた、唯一の管理者権限デバイス。

 

 これをカプセルに接続して中継器にすれば、理論上は機能する。

 

 だが、このモジュールを海底に設置した時点で、凛はシステムへの全ての特権アクセスを失う。

 

 セラフのネットワークの管理も、コンバーターの制御も、一切の管理者コマンドが実行できなくなる。

 

 管理者が、本当の意味で消える。

 

 凛はモジュールをポーチの中に戻した。

 

 潜水船はゆっくりと浮上を始めていた。

 

 水深六十メートル。四十メートル。二十メートル。

 

 窓の外が、黒から紺、紺から青へと明るくなっていく。

 

 海面を突き破り、朝の光がコックピットに差し込んだ。

 

 十二月の太陽が、冷たい海面を白く照らしている。

 

 凛は上部ハッチを開け、潮風を肺一杯に吸い込んだ。

 

 十三日。

 

 それが、母の命と、東京湾の安全と、凛自身の管理者としての立場の、全てのタイムリミットだった。




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