魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
横須賀のドックに帰投した後、凛は潜水船の中で十二時間、端末に向かい続けた。
海底で取得したデータの解析だ。
カプセルの外壁から採取した素材サンプル。
三次元スキャンで再構成した隠し区画の構造モデル。
亀裂の分布マップ。魔力の循環パターン。インターフェースポートの規格。
沙耶が差し入れたおにぎりが、手つかずで操縦席の横に置かれていた。
凛が最初に取り組んだのは、セラフのファームウェアの改修だった。
現在のセラフは、歪魔の探知と魔法少女への通信という二つの機能だけを持っている。
ここに三つ目の機能を追加する。
魔力エネルギーの受信と大気中への放散。
原理は単純だ。
セラフのセンサーアレイは、元々理沙が自身の魔力を計測するために設計したSQUID系のセンサーだ。
魔力を検出する能力がある以上、逆方向に――魔力を受信し、変換する能力もハードウェア上は備えている。
問題は出力側だ。
検出したエネルギーを大気中に放散するには、センサーアレイを逆位相で駆動させ、受信した魔力を熱と電磁波に変換して放出する回路を、ファームウェア上で構築する必要がある。
凛は理沙の論文と研究ノートを参照しながら、センサーアレイの逆位相駆動のパラメータを計算した。
各セラフの放散能力は、一機あたり理沙の魔力出力の約〇・〇三パーセント。
四千八百機の合計で、約百四十四パーセント。
処理能力が生成量を上回る。
理論上は成立する。
だが、理論と実装の間には常に隙間がある。
四千八百機のセラフが完全に同期して放散を行わなければ、一部の機体に負荷が集中して焼損する可能性がある。
同期のためには、中継器からの精密なタイミング信号が必要だ。
アーキテクトの通信モジュールにその機能があるかどうかを、凛は回路図レベルで確認した。
モジュールの内部には、メインサーバーとの双方向通信のために、ナノ秒精度のクロック同期回路が実装されている。
この同期回路を流用すれば、四千八百機のセラフに対して精密なタイミング信号を配信できる。
できる。
凛はファームウェアのコードを書き上げ、テスト用のセラフ端末一機に転送してベンチテストを行った。
逆位相駆動が正常に動作し、微量の魔力エネルギーが熱として放散されるのを確認した。
技術的な問題は、解決した。
残っているのは、決断だけだ。
*
翌朝、凛は病院に戻った。
結衣の病室。
結衣は車椅子に座って、窓の外を見ていた。
凛が入ってくると振り返り、凛の顔をじっと見た。
「おねえちゃん、寝てないでしょ」
「三時間は寝た」
「嘘。目の下、真っ黒だよ」
凛は結衣のベッドの傍らの椅子に座った。
ノートPCを開き、海底で撮影した映像を表示した。
「結衣。見せたいものがある」
結衣は車椅子をベッドサイドに寄せ、画面を覗き込んだ。
紫色の光に満ちた隠し区画。
半透明のカプセル。
その中に横たわる、長い黒髪の女性。
結衣の手が、画面の上で止まった。
「……お母さん」
「ええ。生きている。カプセルの中で、十二年間眠り続けている」
結衣は画面から目を離さなかった。
凛は、結衣に全てを話した。
理沙が先天的な魔力保有者であったこと。
その魔力がシステム全体のエネルギー源であったこと。
凛がメインサーバーを破壊したことで制御が失われ、カプセルが劣化し始めていること。
十三日以内にカプセルが崩壊すれば、理沙の魔力が暴走すること。
それを防ぐために、セラフのネットワークを魔力の分配器として転用する計画。
そして、そのためにはアーキテクトの通信モジュールを中継器として海底のカプセルに設置する必要があること。
設置した時点で、凛はシステムへの管理者権限を完全に失うこと。
結衣は全てを聞き終えた後、しばらく黙っていた。
「おねえちゃん。一つ聞いていい」
「何」
「管理者権限がなくなったら、困ることって何」
凛は少し考えた。
「セラフのネットワークに対して、管理者コマンドが実行できなくなる。ファームウェアの一斉更新、緊急停止、パラメータの変更。そういった操作が、全てできなくなる」
「今のセラフのネットワークって、おねえちゃんが管理しないと動かないの」
「いいや。分散型のプロトコルで自律稼働している。私がいなくても動く設計にした」
「じゃあ、困らないんじゃないの」
凛の手が、一瞬だけ止まった。
結衣の指摘は、正確だった。
凛がセラフのネットワークを設計した時、意図したのは「管理者がいなくても回る仕組み」だった。
中央集権ではなく、分散型。
管理者が君臨するピラミッドではなく、各自が判断し、各自が行動するフラットなインフラ。
その設計思想に従えば、管理者権限の放棄は、設計の完成を意味する。
管理者がいなくなって初めて、本当の分散型になる。
だが。
「困らないかと言われれば、困らない。だが、手放すのは……簡単じゃない」
凛は自分の言葉に、少し驚いた。
論理的には、手放すべきだと分かっている。
結衣の言う通り、困ることはない。
セラフのネットワークは自律稼働する。世界中の魔法少女たちは、凛の管理なしに自分たちで運用を続けるだろう。
それでも、手放すことに抵抗を感じている。
この半年間、凛が世界と繋がっていた唯一の接点が、あのモジュールだった。
Fランクの魔力しか持たない凛が、システムに対抗し、サーバーを沈め、世界中のコンバーターを書き換え、セラフを再起動できたのは、あのモジュールが管理者権限という「力」を与えてくれたからだ。
それを手放すことは、凛がまた、何の力も持たないただの十六歳に戻ることを意味する。
「おねえちゃん」
結衣が、凛の手に自分の手を重ねた。
「怖いの?」
凛は妹の顔を見た。
半年間、この子の命を繋ぐために走り続けた。
その間、凛は一度も立ち止まらなかった。
怖いと認める余裕がなかった。
「……怖いよ」
凛は、素直に言った。
「力を手放すのが、怖い。何もできなくなるのが怖い。もし手放した後に、何か起きた時に、もう私には対処する手段がない」
「でも、手放さなかったら、お母さんが死ぬんでしょ」
「ええ」
「じゃあ、答えは出てるよ」
結衣は凛の手を握った。
「おねえちゃんは、ずっと一人で全部背負ってきた。システムも、私の治療も、世界中のコンバーターも。でも、もう一人じゃないでしょ。キララさんも、鷹取さんもいる。世界中の魔法少女だって、おねえちゃんが作ったネットワークで繋がってる」
「結衣……」
「管理者じゃなくなっても、おねえちゃんはおねえちゃんだよ。ただの十六歳って言うけど、ただの十六歳がサーバーを沈めたんでしょ。権限がなくても、おねえちゃんの頭は変わらないじゃん」
凛は何も言えなかった。
結衣の手が、温かい。
半年前、無菌室のベッドで氷のように冷たかった手が、今は凛の掌をしっかりと握っている。
この温度を守るために、凛は走ってきた。
そして今、その手が凛の背中を押している。
凛は目を閉じた。
三秒。
目を開けた。
「分かった。やる」
凛はポーチからアーキテクトの通信モジュールを取り出し、テーブルの上に置いた。
黒い金属の塊。
小さい。掌に収まるサイズだ。
だが、この小さなデバイスが、凛をシステムの管理者たらしめていた全てだ。
「沙耶さんに連絡する。二度目の潜航の日程を組む」
凛は端末を開き、メッセージを打った。
――『セラフのファームウェア改修完了。中継器の設置準備も完了。二度目の潜航を実施したい。最短でいつ出港できるか』
返信は三分後に来た。
――『明後日。潮流の条件が合う。〇四〇〇出港。同じ手順で行く』
凛は端末を閉じた。
明後日。
カプセルの崩壊予測まで、残り十日。
凛はテーブルの上の通信モジュールを見つめた。
あと二日間だけ、こいつは凛の手の中にある。
その後は、海底の母のカプセルに接続され、永遠に凛の手から離れる。
「おねえちゃん」
「何」
「おにぎり食べなよ。沙耶さんがくれたやつ、昨日から食べてないでしょ」
凛はテーブルの端に置かれた、冷めきったおにぎりの袋を見た。
昨日の差し入れだ。
「……ああ。食べる」
凛はおにぎりの包装を開け、齧った。
冷たい。海苔が湿気ている。
だが、米の味がする。
十二月の午後の光が、病室の白い壁を暖かく照らしていた。