魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第22話

 二度目の潜航の朝。

 

 〇四〇〇。横須賀。

 

 「うらしま」のコックピットで、凛は最終チェックを行っていた。

 

 セラフのファームウェア改修版は、四千八百機全てに配信済みだ。

 

 ただし、魔力放散機能はまだ起動していない。

 

 中継器であるアーキテクトの通信モジュールがカプセルに接続され、同期信号の配信が始まった時点で、全機が一斉に放散モードへ移行するよう設計してある。

 

 つまり、凛がモジュールをカプセルに差し込んだ瞬間が、全てのスイッチだ。

 

 凛はポーチの中の通信モジュールに指先で触れた。

 

 最後の確認。

 

 このモジュールを手放した後、セラフのネットワークに何か問題が起きた場合、凛には管理者コマンドを発行する手段がなくなる。

 

 だが、ネットワークは自律稼働する設計だ。

 

 各セラフ端末は、隣接する端末同士で自動的にデータを中継し、一部の端末が脱落しても網全体が維持されるメッシュ構造になっている。

 

 ファームウェアの更新も、管理者権限なしに端末間のピアツーピア通信で伝播できるプロトコルを、凛は昨日のうちに実装し終えていた。

 

 管理者がいなくても、ネットワークは自分自身を維持し、更新し続ける。

 

 凛がいなくても回る仕組み。

 

 設計通りだ。

 

「出港する」

 

 沙耶の声で、船が動き始めた。

 

     *

 

 〇六一五。沈没座標。

 

 潜航開始。

 

 水深が増すにつれて、前回と同じ暗黒が窓の外を覆っていく。

 

 だが、水深六十メートルを過ぎたあたりで、前回とは違う異変があった。

 

 窓の外の海水が、薄く紫色に発光している。

 

「前回はこんな光、なかったわよね」

 

 キララが窓に顔を近づけた。

 

「カプセルの亀裂からの魔力漏出が、前回より増加している」

 

 凛はセラフのセンサーデータを確認した。

 

 定常波の強度が、十日前の計測時の一・四倍に上がっている。

 

 亀裂の進行は、凛の予測通りか、わずかに速い。

 

「残り日数は」

 

「当初の推定より一日から二日短い可能性がある。実質、八日から九日」

 

 沙耶が操舵しながら低く呟いた。

 

「今日中に設置を完了させないとまずいな」

 

 水深八十メートル。

 

 要塞の残骸が、前回よりも強い紫色の光に包まれて浮かび上がった。

 

 チタン装甲の腐食がさらに進んでいる。

 

 前回進入した外壁の開口部も、周囲が崩落して広がっていた。

 

 沙耶が潜水船を慎重に操舵し、要塞内部に進入する。

 

 メインサーバー室を経由し、隠し区画のハッチまで到達した。

 

 前回閉め切れなかったハッチの隙間から、紫色の光が脈動しながら漏れている。

 

 光量は明らかに増していた。

 

「船外活動を開始する」

 

 凛と沙耶が潜水服を着込み、与圧室から海中に出た。

 

 紫色の光が、前回よりも強い。

 

 潜水服の外殻が、魔力の干渉で微かに帯電しているのが分かる。

 

 ヘッドランプの光が紫に呑まれ、視界が悪い。

 

 凛はハッチの隙間に手をかけ、沙耶と二人で引き開けた。

 

 前回よりも軽い。

 

 ハッチの金属が、魔力の腐食で脆くなっている。

 

 ヒンジがミシリと軋み、ハッチが大きく開いた。

 

 隠し区画の内部は、紫色の光で完全に飽和していた。

 

 壁面の光脈が、十日前の数倍の強度で脈動している。

 

 カプセルの外壁の亀裂が、肉眼ではっきりと確認できた。

 

 最も大きい亀裂は、長さ三十センチ以上に成長している。

 

 亀裂の縁から、紫色の魔力が間欠泉のように噴き出していた。

 

 凛はカプセルに接近した。

 

 壁面の向こうに、理沙の顔が見える。

 

 変わっていない。

 

 十日前と同じ、穏やかな表情で眠り続けている。

 

 だが、カプセルの液体の色が変わっていた。

 

 透明だったものが、薄い紫色に染まっている。

 

 魔力の濃度が内部でも上昇している。

 

「凛、作業を始めろ。時間がない」

 

 沙耶の声がインカムに入る。

 

「分かっている」

 

 凛はカプセルの外壁にあるインターフェースポートの前に移動した。

 

 前回確認した太い光ファイバーのコネクタ。

 

 メインサーバーへの接続に使われていたポートだ。

 

 ケーブルは切断されているが、ポートの受け口は健在。

 

 凛はポーチを開き、アーキテクトの通信モジュールを取り出した。

 

 潜水服の分厚いグローブで、小さな金属の塊を慎重に掴む。

 

 凛はこのモジュールの接続コネクタを、カプセルのポート規格に物理的に適合させるためのアダプタを、昨日のうちに3Dプリンタで製作していた。

 

 モジュールにアダプタを装着する。

 

 グローブの指先が、わずかに震えた。

 

 寒さのせいではない。

 

 これを差し込んだら、もう戻れない。

 

 凛は一秒だけ目を閉じた。

 

 結衣の声が、頭の中で響いた。

 

 管理者じゃなくなっても、おねえちゃんはおねえちゃんだよ。

 

 目を開けた。

 

 モジュールをコネクタに差し込んだ。

 

 カチャリ、という小さな音が、潜水服のグローブ越しに伝わった。

 

 接続完了。

 

 モジュールの表面に、小さな青いLEDが点灯した。

 

 通信モジュールがカプセルの制御系と接続を確立し、魔力エネルギーの受信を開始している。

 

 同時に、モジュールのクロック同期回路が起動し、世界中の四千八百機のセラフに向けてタイミング信号の配信を始めた。

 

 凛の携帯端末に、セラフ網からの応答が殺到する。

 

 一機、十機、百機、千機。

 

 四千八百機のセラフが、一斉に魔力放散モードへ移行していく。

 

 カプセルから漏出する魔力が、通信モジュールを経由してセラフ網に分配され、世界中のドローンから大気中に微量ずつ放散され始めた。

 

 カプセルの亀裂から噴き出していた紫色の光が、目に見えて弱まっていく。

 

 内部の魔力が外部へ排出されることで、カプセルにかかる内圧が低下している。

 

 亀裂の進行が、止まった。

 

 壁面の光脈の脈動が、暴走的な激しさから、穏やかなリズムへと変わっていく。

 

「凛、数値は」

 

 キララの声がインカムに入る。

 

「カプセル内部の魔力密度、低下中。セラフ網の放散処理速度が生成速度を上回っている。理論通りだ」

 

 凛は端末の数値を確認しながら、カプセルの壁面に手を触れた。

 

 脈動が安定している。

 

 理沙の心拍と同期した、規則正しいリズム。

 

 暴走の兆候はない。

 

 システムが、機能している。

 

 凛はカプセルの壁面から手を離した。

 

 通信モジュールの青いLEDが、海底の暗闇の中で静かに点滅し続けている。

 

 もう、凛の手の中にはない。

 

 管理者権限は、海底のカプセルと共に、ここに残る。

 

 凛はインターフェースポートから目を離し、カプセルの壁面越しに理沙の顔を見た。

 

 穏やかな寝顔。

 

 十二年間変わらない顔。

 

 凛は分厚いグローブをカプセルの壁に押し当てた。

 

 何かを言おうとして、やめた。

 

 言葉は、母が目を覚ました時に取っておく。

 

「……作業完了。帰る」

 

 凛はカプセルに背を向け、ハッチへと泳ぎ出した。

 

 沙耶が黙って凛の横に並び、二人で隠し区画を出た。

 

 ハッチを閉じる。

 

 今度は完全に閉まった。

 

 金属の亀裂は進んでいたが、内圧が低下したことで外壁への負荷が減り、ハッチの歪みがわずかに戻っていた。

 

 二人は潜水船に戻り、浮上を開始した。

 

 水深が浅くなるにつれて、紫色の光が薄れていく。

 

 窓の外が、紫から紺、紺から青へ。

 

 海面を突き破った時、朝の光がコックピットに差し込んだ。

 

 凛は端末を確認した。

 

 セラフ網の稼働状況。

 

 四千八百機、全機正常稼働。

 

 魔力放散処理、安定。

 

 通信モジュール、正常動作中。

 

 管理者権限ステータス:無効。

 

 凛はその最後の一行を見つめ、端末を閉じた。

 

「終わったの?」

 

 キララが聞いた。

 

「終わった」

 

 凛は上部ハッチを開け、十二月の海風を吸い込んだ。

 

 冷たい。

 

 だが、清々しい。

 

 ポーチの中が軽い。

 

 あのモジュールの重さが消えている。

 

 掌に収まる程度の、小さな金属の塊。

 

 だが、それが消えたことで、凛の身体全体が少しだけ軽くなった気がした。

 

 横須賀の港が、冬の朝日に照らされて白く光っていた。




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