魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
通信モジュールの設置から三日後の朝。
凛が結衣の病室で端末を開くと、セラフ網のモニタリングデータに、想定外の数値が混じっていた。
魔力放散の処理状況は安定している。
カプセルからの出力も正常範囲。
各端末のヘルスチェックも全機グリーン。
異常値は、別の項目に出ていた。
セラフのセンサーアレイが計測している、地表付近の環境魔力密度だ。
セラフ網の再起動直後、この数値はゼロに近かった。
メインサーバーが停止し、歪魔の生産が止まり、世界中の魔力循環が途絶えたのだから当然だ。
だが、通信モジュールの設置から三日間で、地表付近の魔力密度が微増している。
凛は数値を三度確認した。
誤差ではない。
増加は全てのセラフ端末で共通して観測されており、地域差がある。
凛は増加が強い地域と弱い地域を地図上にプロットした。
東京、ニューヨーク、上海、ロンドン、ムンバイ。
増加が強い地域は、全て人口密集地と一致していた。
過疎地域では、増加はほぼゼロだ。
凛の指先が、キーボードの上で止まった。
セラフが大気中に放散した魔力は、全てが消散しているわけではない。
一部が、地表付近に留まっている。
人が多い場所ほど、留まる量が多い。
理沙の論文に記されていた一文が、凛の頭の中で鳴った。
「魔力エネルギーは、生体の存在する環境において、微量が生体に取り込まれる傾向を示す」
セラフが放散した魔力を、世界中の人間が、微量ずつ吸収している。
凛は端末を閉じ、窓の外を見た。
十二月の東京の朝。通勤ラッシュの時間帯だ。
窓の下の道路を、無数の人間が歩いている。
その全員の身体に、セラフが撒いた魔力が、目に見えない粉塵のように降り積もっている。
結衣がベッドの上で目を覚ました。
「おねえちゃん、怖い顔してる」
「……少し、考えなきゃいけないことができた」
凛は結衣にデータを見せた。
結衣は画面を覗き込み、数値の意味を理解するのに数秒かかった。
「これって……セラフが撒いた魔力を、普通の人が吸い込んでるってこと?」
「ええ」
「それって、やばいの?」
「分からない。吸収量は極めて微量だ。理沙の実験で私と結衣に注入された量の数万分の一以下。この濃度で人体に何かが起きるかどうかのデータは、存在しない」
「お母さんの研究にも載ってなかった?」
「研究がそこまで進む前に、母さんは消えた」
結衣は毛布の縁を指で弄りながら、しばらく黙っていた。
「ねえ、おねえちゃん。放散を止めたらどうなるの」
「カプセルの内圧が再上昇して、亀裂の進行が再開する。母さんの魔力が暴走して、東京湾が沸く」
「じゃあ、止められないんだ」
「止められない」
「でも、続けたら、世界中の人がちょっとずつ魔力を吸い続ける」
「ええ」
結衣は窓の外を見た。
凛と同じ、通勤する人々の流れを。
「おねえちゃん。それって、お母さんと同じことをしてるんじゃないの」
凛の呼吸が、一瞬止まった。
結衣の声は責めるような調子ではなかった。
ただ、事実を指摘していた。
理沙は、自分の暴走する魔力を制御するために、世界中に魔力を分配するシステムを作った。
その結果、魔力を浴びた一部の人間に異常な適性が発現し、魔法少女のシステムが暴走し、搾取の構造が生まれた。
凛は今、理沙の暴走する魔力を制御するために、セラフ網を通じて世界中に魔力を放散している。
その結果、放散された魔力の一部が、世界中の人間に吸収されている。
規模は違う。意図も違う。
だが、構造は同じだ。
母の失敗を、娘が繰り返しかけている。
「結衣。お前の言う通りだ」
凛は認めた。
「構造的には同じことをしている。母さんが分配器を作った時と、私がセラフ網を転用した時と。暴走する魔力を外に逃がすという基本設計が同じである以上、副作用も同じ種類のものが出る」
「じゃあ、どうするの」
「増加率を抑制する。放散を止めることはできないが、放散のパラメータを最適化して、地表付近の残留濃度を最小化することはできるかもしれない」
凛は端末を開き直した。
増加率のデータを時系列でグラフ化する。
放散開始からの三日間。
増加率は緩やかだが、一定ではない。
微増傾向にある。
このペースが維持された場合、人体に検知可能な影響が出るまでの推定時間を計算する。
残留濃度の増加率。セラフ一機あたりの放散量。大気中での拡散速度。人体の吸収率。
変数が多い。
だが、セラフのセンサーデータから推定可能な範囲で最悪値を見積もると、現在のペースで四十年以上。
四十年あれば、対策の時間はある。
だが、四十年という数字に安心してはいけない。
増加率が加速する可能性がある。
理沙の魔力出力が変動すれば、放散量も変動する。
覚醒が近づいている母の魔力は、今まさに変動し始めている。
「最適化モデルを書く。セラフの放散パラメータを、地域ごとの人口密度に応じて動的に調整するアルゴリズムだ。人口が密集している地域では放散量を下げ、過疎地域に多く振り分ける。総放散量は変えず、残留濃度の分布を平滑化する」
「それって、管理者権限なしにできるの?」
キララの声が病室の入口から聞こえた。
いつの間にか来ていた。手にはコンビニの袋。
「できない。管理者コマンドは使えなくなった」
凛は振り返らずに答えた。
「だが、セラフのファームウェアは端末間のピアツーピア通信で更新できるプロトコルを実装してある。一機に手動で書き込めば、ネットワーク全体に伝播する。管理者権限がなくてもやれる。時間がかかるだけだ」
「権限、手放して後悔してる?」
「してない」
凛は即答した。
「手放したからこそ、システムが自律的に安定している。もし権限が残っていたら、私はずっとモニターに張り付いて、パラメータを手動で調整し続けていただろう。それは私が設計したものの否定だ」
キララはコンビニの袋をテーブルに置いた。
「はい。おにぎりとチョコレート。あと、結衣ちゃんにはプリン」
「ありがとう、キララさん」
結衣がプリンを受け取った。
凛はおにぎりの包装を片手で開けながら、もう片方の手でコードを書き始めた。
放散パラメータの動的調整アルゴリズム。
地域ごとの人口密度データは、セラフのセンサーが計測する環境魔力の残留パターンから逆推定できる。
残留が多い地域=人口密度が高い地域=放散量を下げるべき地域。
フィードバックループだ。
残留濃度を入力として、放散量を出力として調整する制御系。
古典的なPID制御の応用。
凛はおにぎりを齧りながらパラメータを詰めていった。
比例ゲイン。積分時間。微分時間。
過渡応答のシミュレーションを走らせ、オーバーシュートが発生しない安定条件を探る。
午後一時。コードが完成した。
テスト用のセラフ一機に転送し、放散パターンの変化を確認する。
残留濃度が、テスト機の周辺で約十二パーセント低下した。
有効だ。
凛は更新パッケージを一機のセラフに手動で書き込み、ピアツーピアプロトコルでネットワーク全体に伝播を開始した。
全機に行き渡るまで約十六時間。
その間、凛は端末を閉じ、椅子の背にもたれた。
結衣がプリンを食べながら言った。
「おねえちゃん。お母さんと同じことをしてるって言ったけど」
「うん」
「お母さんと違うところもあるよ」
「何が」
「お母さんは一人でやった。おねえちゃんは一人じゃない」
凛は結衣を見た。
結衣はプリンのカップの底をスプーンで掬いながら、何でもないことのように続けた。
「一人でやると、間違えた時に止めてくれる人がいない。おねえちゃんには、私がいるし、キララさんもいるし、鷹取さんもいる。間違えたら、言うよ。私が」
凛は何も言わなかった。
しばらく天井を見つめた後、端末を開き直した。
セラフ網のモニタリング画面。
世界地図の上に、四千八百の青い点が散らばっている。
その青い点の一つ一つが、魔力を放散し、残留濃度のデータを収集し、凛が書いたアルゴリズムに従って放散量を自律的に調整し始めている。
凛がいなくても回る仕組み。
だが、凛が見ている。
そして結衣が見ている。
間違えたら、止める人がいる。
それが、母との違いだ。
凛は端末を閉じた。
午後の病室に、静かな時間が流れた。
窓の外では、セラフのドローンが一機、東京の冬空を横切っていった。
その機体が放散する魔力は、凛のアルゴリズムによって、この人口密集地では最小量に絞られている。
完璧な解決策ではない。
だが、観察し、計測し、修正し続ける限り、最悪の結果は避けられる。
それが、母にはできなかったこと。
凛にはできること。
一人ではないから。
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