魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
通信モジュール設置から十日目の夜。
凛は結衣の病室で、セラフ網のデータを眺めていた。
放散パラメータの最適化アルゴリズムは順調に機能している。
地表付近の残留魔力密度の増加率は、導入前の約六割にまで抑制されていた。
完全なゼロにはできないが、推定影響時間は四十年から六十年以上に延伸された。
凛がその数値を確認した直後、別のデータ項目が目に入った。
カプセルの定常波パターン。
凛は画面を拡大した。
定常波の周波数が変動している。
これまで〇・〇八ヘルツで完全に一定だった脈動の周期が、過去十二時間で〇・〇七九に変化していた。
数値としてはほぼ誤差の範囲だ。
だが、十二年間一度も変動しなかった定常波が動いた。
凛は過去のデータログと照合した。
変動が始まったのは、通信モジュールの設置後だ。
魔力放散によってカプセル内の魔力濃度が低下し始めてから、この変化が生じている。
理沙の脳は、十二年間、自身の暴走魔力に浸かった状態で眠っていた。
高濃度の魔力が脳神経に作用し、意識を深い昏睡に閉じ込めていたとすれば。
魔力濃度の低下は、脳への抑圧の減少を意味する。
覚醒の兆候かもしれない。
凛は端末を握りしめた。
結衣に話すべきか。
まだ推測だ。期待を持たせて裏切ることは、凛が最も嫌う行為だ。
だが、凛は研究ノートの一文を思い出していた。
理沙自身の言葉。
「私はこの子たちにしたことの代償を払わなければならない」
母は覚醒しようとしている。
代償を払うために。
凛は端末を閉じず、定常波のモニタリングを継続した。
*
十二日目。
周波数変動に、明確なパターンが現れた。
約三時間周期で、〇・〇七八から〇・〇八二の間を規則正しく往復している。
凛はその波形を見た瞬間、結衣の覚醒時のデータを思い出した。
結衣が昏睡から目を覚ます過程で、脳波モニターに記録されていた変動パターン。
結衣の場合は約二時間周期で、レム睡眠とノンレム睡眠に似た交互パターンを示していた。
理沙の三時間周期は、結衣よりも遅い。
だが、パターンの形状は酷似している。
深い昏睡から、睡眠状態への移行。
覚醒の前段階だ。
凛は結衣に話した。
「お母さんの脳の活動パターンが変わり始めている」
結衣は車椅子からモニターを覗き込んだ。
「目を覚ますの?」
「分からない。まだ睡眠状態の中での変動だ。ここから覚醒に至るかどうかは予測できない」
「でも、可能性はあるんでしょ」
「ある。結衣が目を覚ました時と似たパターンが出ている」
結衣はしばらく画面を見つめていた。
波形が、三時間かけてゆっくりと山を描き、谷に落ち、また昇っていく。
母の脳が、十二年の眠りの中で、浮き沈みを繰り返している。
「おねえちゃん」
「何」
「私が目を覚ます前、夢を見てた。ずっと暗い水の中にいる夢。息はできるのに、身体が動かない。声が聞こえるのに、返事ができない」
凛は結衣を見た。
結衣はこの話を、今まで一度もしたことがなかった。
「おねえちゃんの声が聞こえてた。変なお嬢様しゃべりで、誰かと喧嘩してるみたいな声。あの声が聞こえるたびに、水面が少しだけ近くなった気がした」
結衣はモニターの波形に目を戻した。
「お母さんにも、何か聞こえてるのかな。海の底で」
凛は答えなかった。
科学的な根拠のない推測には応じない。
それが凛の原則だった。
だが、端末を握る指先が、僅かに力を込めていた。
*
十四日目。
定常波の周期が、二時間にまで短縮した。
加速している。
同時に、凛が注視していた別の数値にも変動が出始めた。
通信モジュールの処理負荷だ。
カプセルからの魔力出力が、定常波の周期変動に連動して増減するようになっていた。
脳が浅い睡眠に入るタイミングで、出力が一時的に跳ね上がる。
意識が浮上しかけるたびに、身体が魔力を多く放出する。
セラフ網の放散処理は追随できていた。
四千八百機の総処理能力には、まだ余裕がある。
だが、中継器である通信モジュールの負荷は、ピーク時に七十八パーセントに達していた。
十日前は六十二パーセントだった。
出力変動がさらに大きくなれば、モジュールの設計限界を超える。
モジュールがダウンすれば、セラフ網への同期信号が途絶え、放散処理が停止し、カプセルの内圧が急上昇する。
母が目を覚ますことが、そのまま破局のトリガーになりかねない。
凛の胸の奥で、二つの感情がぶつかっていた。
母の覚醒を望んでいる。
だが、覚醒の瞬間が最も危険だ。
感情に浸っている暇はない。
対策が要る。
通信モジュールの負荷を下げる方法。
現在のセラフ網は、通信モジュールからのグローバルな同期信号に依存して放散タイミングを制御している。
全機が完全に同期することで、負荷の偏りを防いでいる。
だが、この方式は同期信号を配信する通信モジュールに処理負荷が集中する設計でもある。
完全同期から、緩やかな同期に切り替える。
各端末が隣接端末同士でローカルに同期を取り、全体としてはグローバルな同期を必要としない、階層型の分散同期プロトコル。
グローバルな時計がなくても、隣の端末と息を合わせるだけで、網全体が協調する。
鳥の群れが、指揮者なしに隊列を維持するのと同じ原理だ。
凛はコードを書き始めた。
おにぎりを齧りながら。
結衣がベッドの上から見ていた。
「おねえちゃん、また寝ないつもりでしょ」
「寝る。コードが書き終わったら」
「いつ終わるの」
「分からない」
「じゃあ、寝ないってことじゃん」
凛は答えなかった。
キーボードを叩く音だけが、夜の病室に響いた。
*
二日間かかった。
テストを含めて三日。
更新パッケージのピアツーピア伝播に十六時間。
十九日目の朝、分散同期プロトコルが全機に適用された。
通信モジュールのピーク時負荷が、七十八パーセントから五十一パーセントに低下した。
二十七ポイントのマージンを確保。
凛は端末の数値を確認し、椅子の背にもたれた。
三日間で五時間しか寝ていない。
目の奥が熱い。
右腕の裂傷が、睡眠不足で治りが遅くなっている。
結衣がベッドの上からペットボトルの水を差し出した。
「飲みなよ」
凛は受け取り、半分を一気に飲んだ。
「おねえちゃん。お母さんの波形、また変わったよ」
凛は端末を確認した。
定常波の周期。
一時間半。
三日前の二時間から、さらに短縮していた。
覚醒が近い。
凛はペットボトルを置き、端末を握り直した。
母は海底で目を覚まそうとしている。
そして、母が目を覚ます瞬間が、最大のスパイクを生む。
分散同期プロトコルで通信モジュールの負荷は下げた。
だが、覚醒時のスパイクがこれまでの変動と同じ規模で済む保証はない。
睡眠中の出力変動と、意識が完全に浮上する瞬間の出力は、別次元のものになる可能性がある。
もし覚醒時のスパイクが通信モジュールの限界を超えたら。
凛は端末を閉じた。
窓の外に目を向ける。
十二月の空は青い。
その空のどこかを、セラフのドローンが飛んでいる。
凛が書いたプロトコルで自律的に同期し、魔力を放散し、残留濃度を計測し、パラメータを調整している。
管理者のいないネットワーク。
だが、そのネットワークの命綱は、海底のカプセルに設置された、たった一つの通信モジュールに繋がっている。
そのモジュールが、母の覚醒に耐えられるかどうか。
凛には分からない。
分からないことがあるのは悪いことじゃない、と結衣は言った。
分からないから調べる。
だが、この問題は調べても答えが出ない。
覚醒のスパイクの規模は、起きてみるまで分からない。
凛にできるのは、スパイクが来た瞬間に備えて、あらゆる手を打っておくことだけだ。
あらゆる手。
凛は自分の右手を見た。
左掌の擦過傷の上に、新しい水ぶくれができていた。キーボードの叩きすぎだ。
その手の指先に、母の実験が刻んだ精度がある。
出力はゴミ。だが、精度だけは世界一。
それが、母の暴走を鎮めるための最後の手札になるかもしれない。
凛はまだ、その手札を切る決断をしていなかった。
だが、手札があることは、分かっていた。
結衣の穏やかな寝息が聞こえる。
病室のモニターの片隅で、定常波の波形が緩やかに上下している。
母の心臓の鼓動と、娘の呼吸が、同じリズムで揺れていた。
凛はそれに気づかないまま、目を閉じた。
眠りは、三分で来た。
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