魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第24話

 通信モジュール設置から十日目の夜。

 

 凛は結衣の病室で、セラフ網のデータを眺めていた。

 

 放散パラメータの最適化アルゴリズムは順調に機能している。

 

 地表付近の残留魔力密度の増加率は、導入前の約六割にまで抑制されていた。

 

 完全なゼロにはできないが、推定影響時間は四十年から六十年以上に延伸された。

 

 凛がその数値を確認した直後、別のデータ項目が目に入った。

 

 カプセルの定常波パターン。

 

 凛は画面を拡大した。

 

 定常波の周波数が変動している。

 

 これまで〇・〇八ヘルツで完全に一定だった脈動の周期が、過去十二時間で〇・〇七九に変化していた。

 

 数値としてはほぼ誤差の範囲だ。

 

 だが、十二年間一度も変動しなかった定常波が動いた。

 

 凛は過去のデータログと照合した。

 

 変動が始まったのは、通信モジュールの設置後だ。

 

 魔力放散によってカプセル内の魔力濃度が低下し始めてから、この変化が生じている。

 

 理沙の脳は、十二年間、自身の暴走魔力に浸かった状態で眠っていた。

 

 高濃度の魔力が脳神経に作用し、意識を深い昏睡に閉じ込めていたとすれば。

 

 魔力濃度の低下は、脳への抑圧の減少を意味する。

 

 覚醒の兆候かもしれない。

 

 凛は端末を握りしめた。

 

 結衣に話すべきか。

 

 まだ推測だ。期待を持たせて裏切ることは、凛が最も嫌う行為だ。

 

 だが、凛は研究ノートの一文を思い出していた。

 

 理沙自身の言葉。

 

 「私はこの子たちにしたことの代償を払わなければならない」

 

 母は覚醒しようとしている。

 

 代償を払うために。

 

 凛は端末を閉じず、定常波のモニタリングを継続した。

 

     *

 

 十二日目。

 

 周波数変動に、明確なパターンが現れた。

 

 約三時間周期で、〇・〇七八から〇・〇八二の間を規則正しく往復している。

 

 凛はその波形を見た瞬間、結衣の覚醒時のデータを思い出した。

 

 結衣が昏睡から目を覚ます過程で、脳波モニターに記録されていた変動パターン。

 

 結衣の場合は約二時間周期で、レム睡眠とノンレム睡眠に似た交互パターンを示していた。

 

 理沙の三時間周期は、結衣よりも遅い。

 

 だが、パターンの形状は酷似している。

 

 深い昏睡から、睡眠状態への移行。

 

 覚醒の前段階だ。

 

 凛は結衣に話した。

 

「お母さんの脳の活動パターンが変わり始めている」

 

 結衣は車椅子からモニターを覗き込んだ。

 

「目を覚ますの?」

 

「分からない。まだ睡眠状態の中での変動だ。ここから覚醒に至るかどうかは予測できない」

 

「でも、可能性はあるんでしょ」

 

「ある。結衣が目を覚ました時と似たパターンが出ている」

 

 結衣はしばらく画面を見つめていた。

 

 波形が、三時間かけてゆっくりと山を描き、谷に落ち、また昇っていく。

 

 母の脳が、十二年の眠りの中で、浮き沈みを繰り返している。

 

「おねえちゃん」

 

「何」

 

「私が目を覚ます前、夢を見てた。ずっと暗い水の中にいる夢。息はできるのに、身体が動かない。声が聞こえるのに、返事ができない」

 

 凛は結衣を見た。

 

 結衣はこの話を、今まで一度もしたことがなかった。

 

「おねえちゃんの声が聞こえてた。変なお嬢様しゃべりで、誰かと喧嘩してるみたいな声。あの声が聞こえるたびに、水面が少しだけ近くなった気がした」

 

 結衣はモニターの波形に目を戻した。

 

「お母さんにも、何か聞こえてるのかな。海の底で」

 

 凛は答えなかった。

 

 科学的な根拠のない推測には応じない。

 

 それが凛の原則だった。

 

 だが、端末を握る指先が、僅かに力を込めていた。

 

     *

 

 十四日目。

 

 定常波の周期が、二時間にまで短縮した。

 

 加速している。

 

 同時に、凛が注視していた別の数値にも変動が出始めた。

 

 通信モジュールの処理負荷だ。

 

 カプセルからの魔力出力が、定常波の周期変動に連動して増減するようになっていた。

 

 脳が浅い睡眠に入るタイミングで、出力が一時的に跳ね上がる。

 

 意識が浮上しかけるたびに、身体が魔力を多く放出する。

 

 セラフ網の放散処理は追随できていた。

 

 四千八百機の総処理能力には、まだ余裕がある。

 

 だが、中継器である通信モジュールの負荷は、ピーク時に七十八パーセントに達していた。

 

 十日前は六十二パーセントだった。

 

 出力変動がさらに大きくなれば、モジュールの設計限界を超える。

 

 モジュールがダウンすれば、セラフ網への同期信号が途絶え、放散処理が停止し、カプセルの内圧が急上昇する。

 

 母が目を覚ますことが、そのまま破局のトリガーになりかねない。

 

 凛の胸の奥で、二つの感情がぶつかっていた。

 

 母の覚醒を望んでいる。

 

 だが、覚醒の瞬間が最も危険だ。

 

 感情に浸っている暇はない。

 

 対策が要る。

 

 通信モジュールの負荷を下げる方法。

 

 現在のセラフ網は、通信モジュールからのグローバルな同期信号に依存して放散タイミングを制御している。

 

 全機が完全に同期することで、負荷の偏りを防いでいる。

 

 だが、この方式は同期信号を配信する通信モジュールに処理負荷が集中する設計でもある。

 

 完全同期から、緩やかな同期に切り替える。

 

 各端末が隣接端末同士でローカルに同期を取り、全体としてはグローバルな同期を必要としない、階層型の分散同期プロトコル。

 

 グローバルな時計がなくても、隣の端末と息を合わせるだけで、網全体が協調する。

 

 鳥の群れが、指揮者なしに隊列を維持するのと同じ原理だ。

 

 凛はコードを書き始めた。

 

 おにぎりを齧りながら。

 

 結衣がベッドの上から見ていた。

 

「おねえちゃん、また寝ないつもりでしょ」

 

「寝る。コードが書き終わったら」

 

「いつ終わるの」

 

「分からない」

 

「じゃあ、寝ないってことじゃん」

 

 凛は答えなかった。

 

 キーボードを叩く音だけが、夜の病室に響いた。

 

     *

 

 二日間かかった。

 

 テストを含めて三日。

 

 更新パッケージのピアツーピア伝播に十六時間。

 

 十九日目の朝、分散同期プロトコルが全機に適用された。

 

 通信モジュールのピーク時負荷が、七十八パーセントから五十一パーセントに低下した。

 

 二十七ポイントのマージンを確保。

 

 凛は端末の数値を確認し、椅子の背にもたれた。

 

 三日間で五時間しか寝ていない。

 

 目の奥が熱い。

 

 右腕の裂傷が、睡眠不足で治りが遅くなっている。

 

 結衣がベッドの上からペットボトルの水を差し出した。

 

「飲みなよ」

 

 凛は受け取り、半分を一気に飲んだ。

 

「おねえちゃん。お母さんの波形、また変わったよ」

 

 凛は端末を確認した。

 

 定常波の周期。

 

 一時間半。

 

 三日前の二時間から、さらに短縮していた。

 

 覚醒が近い。

 

 凛はペットボトルを置き、端末を握り直した。

 

 母は海底で目を覚まそうとしている。

 

 そして、母が目を覚ます瞬間が、最大のスパイクを生む。

 

 分散同期プロトコルで通信モジュールの負荷は下げた。

 

 だが、覚醒時のスパイクがこれまでの変動と同じ規模で済む保証はない。

 

 睡眠中の出力変動と、意識が完全に浮上する瞬間の出力は、別次元のものになる可能性がある。

 

 もし覚醒時のスパイクが通信モジュールの限界を超えたら。

 

 凛は端末を閉じた。

 

 窓の外に目を向ける。

 

 十二月の空は青い。

 

 その空のどこかを、セラフのドローンが飛んでいる。

 

 凛が書いたプロトコルで自律的に同期し、魔力を放散し、残留濃度を計測し、パラメータを調整している。

 

 管理者のいないネットワーク。

 

 だが、そのネットワークの命綱は、海底のカプセルに設置された、たった一つの通信モジュールに繋がっている。

 

 そのモジュールが、母の覚醒に耐えられるかどうか。

 

 凛には分からない。

 

 分からないことがあるのは悪いことじゃない、と結衣は言った。

 

 分からないから調べる。

 

 だが、この問題は調べても答えが出ない。

 

 覚醒のスパイクの規模は、起きてみるまで分からない。

 

 凛にできるのは、スパイクが来た瞬間に備えて、あらゆる手を打っておくことだけだ。

 

 あらゆる手。

 

 凛は自分の右手を見た。

 

 左掌の擦過傷の上に、新しい水ぶくれができていた。キーボードの叩きすぎだ。

 

 その手の指先に、母の実験が刻んだ精度がある。

 

 出力はゴミ。だが、精度だけは世界一。

 

 それが、母の暴走を鎮めるための最後の手札になるかもしれない。

 

 凛はまだ、その手札を切る決断をしていなかった。

 

 だが、手札があることは、分かっていた。

 

 結衣の穏やかな寝息が聞こえる。

 

 病室のモニターの片隅で、定常波の波形が緩やかに上下している。

 

 母の心臓の鼓動と、娘の呼吸が、同じリズムで揺れていた。

 

 凛はそれに気づかないまま、目を閉じた。

 

 眠りは、三分で来た。




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