魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第26話

 横須賀のドック。

 

 凛と沙耶は、潜水船の後部貨物スペースに追加の酸素ボンベを積み込んでいた。

 

「標準装備のボンベ二本で六時間。追加の三本で、合計十五時間まで延長できる」

 

 沙耶がボンベの固定ベルトを締めながら言った。

 

「十五時間。だが、潜航と浮上にそれぞれ一時間かかる。海底での実質滞在可能時間は十三時間だ」

 

「十三時間で覚醒が来なかった場合は」

 

「一度浮上して酸素を補充し、再潜航する。その間、カプセルは無人になる。スパイクが来れば、モジュールが耐えるかどうかは運次第だ」

 

 運。

 

 凛が最も嫌う言葉だった。

 

 だが、覚醒のタイミングは凛には制御できない。

 

「もう一つ、問題がある」

 

 沙耶が潜水服のグローブを手に取った。

 

「お前は逆位相の干渉を起こすために、カプセルに素手で触れる必要があると言った。だが、水深八十メートルの海中で大気圧潜水服を着ている限り、素手で外に触れることはできない」

 

 凛はそのことを、昨夜から考え続けていた。

 

 大気圧潜水服は、内部を一気圧に保つことで減圧症を防ぐ設計だ。

 

 硬質の外殻が全身を覆い、関節部の可動ジョイントで動きを確保している。

 

 グローブも硬質だ。指先の感覚はほぼない。

 

 この状態では、理沙の魔力の波形をリアルタイムで感知することは不可能だ。

 

 逆位相の干渉には、ミリ秒単位の位相同期が必要になる。

 

 波形を「感じ」ながら、自分の魔力を調整し続けなければならない。

 

 グローブ越しでは、それができない。

 

「グローブの右手だけを外す」

 

 凛は言った。

 

 沙耶が振り返った。

 

「正気か」

 

「右手の外殻を外し、薄手の防水手袋だけでカプセルに触れる。素手に近い感覚を確保する」

 

「水深八十メートルだぞ。大気圧潜水服の外殻を外したら、その部分だけ海水圧がかかる。九気圧だ。手が潰れる」

 

「潰れない。手首の関節ジョイントから先を外すだけだ。前腕までの外殻は維持する。手首のジョイント部にはシールゴムが入っている。外殻を外しても、シールゴムが水密を保てば、内部の気圧は維持される」

 

「シールゴムだけで九気圧に耐えるのか」

 

「耐えない。だから、手首のシールゴムの外側に、ホースバンドを二重に締めて補強する。完全な水密は維持できないが、浸水速度を最小限に抑えられる」

 

 沙耶は腕を組んだ。

 

「浸水速度を最小限に抑える、というのは、ゼロにはできないということだ」

 

「ええ。ゆっくりと浸水する。時間が経てば、右手は海水に浸かる」

 

「水温は」

 

「水深八十メートルの東京湾の水温は、この時期で約八度」

 

「八度の海水に手を浸し続けて、何時間もつ」

 

「冷水浸漬の生理学的データでは、八度の水に手を浸した場合、約三十分で手指の感覚が著しく低下し、約一時間で微細な運動制御が困難になる」

 

「魔力の位相制御は、微細な運動制御の極致だろう」

 

「ええ。だから、浸水が始まってから使える時間は、長くても一時間弱だ」

 

 沙耶は黙った。

 

 潜航に一時間。海底まで降りてカプセルに取りつくのに三十分。

 

 そこから右手のグローブを外し、シールの処理をして、カプセルに素手で触れる。

 

 浸水が始まってから一時間弱。

 

 その一時間の間に、理沙の覚醒が起きなければ、凛は指先の感覚を失い、位相制御ができなくなる。

 

 一度浮上して手を温め直し、再潜航することは可能だが、その間にスパイクが来ればモジュールは耐えられない可能性がある。

 

「凛。一つ提案がある」

 

 沙耶が潜水服の内装パネルを開いた。

 

「この旧型の大気圧潜水服には、緊急時の手指保温のために、グローブの内側に電熱線が組み込まれている。消費電力が大きいから、通常は使わない。だが、右手の外殻を外した状態で、前腕部の電熱線だけ活かせば、手首から上を温め続けることで、手指への血流を維持できるかもしれない」

 

「どの程度延長できる」

 

「分からん。元々は外殻内部の結露防止用の補助ヒーターだ。指先を直接温めるわけじゃない。だが、ないよりはましだ」

 

「やろう」

 

 凛は潜水服の右腕部を分解し、電熱線の回路を確認した。

 

 外殻の内側に蛇行して配置された極細のニクロム線。

 

 電源は潜水服のメインバッテリーから取っている。

 

 右手の外殻を外しても、前腕部の電熱線は機能する。

 

 凛は回路を最適化し、手首付近の電熱線の密度を上げるように配線を変更した。

 

 局所的に発熱量を上げ、手首の動脈を温めることで、指先への血流維持を最大化する。

 

 これで、浸水後の有効時間を一時間半から二時間程度にまで延長できる可能性がある。

 

 可能性だ。保証ではない。

 

 だが、凛が持っている手札は、これで全てだった。

 

     *

 

 出港の前夜。

 

 凛は病院に戻り、結衣の病室で準備をしていた。

 

 端末でセラフ網のデータを最終確認する。

 

 定常波の周期は、一時間十分にまで短縮していた。

 

 覚醒は確実に近づいている。

 

 スパイクの発生頻度は、過去二十四時間で三回。

 

 いずれも通信モジュールの負荷は八十五パーセント前後で収まっている。

 

 だが、回を重ねるごとにピーク値が微増している。

 

 次のスパイクが九十五パーセントを超えれば、モジュールの安全マージンはほぼゼロになる。

 

 キララが病室に入ってきた。

 

「明日の出港、〇四〇〇でしょ。私も行くわよ」

 

「当然だ。前回と同じ配置。キララは船内で通信と緊急浮上を担当」

 

「また保険ね」

 

「最も重要な保険だ。今回は特に」

 

 凛はキララを見た。

 

「今回、私は船外でカプセルに取りついたまま動けなくなる。位相干渉を維持している間、私は一切の身動きが取れない。もし要塞の残骸が崩落して私が巻き込まれた場合、あるいは潜水服に重大なトラブルが起きた場合、私を助けに来られるのはキララだけだ」

 

「沙耶さんは」

 

「沙耶さんには潜水船の操縦を任せる。船を手放すわけにはいかない。帰りの足がなくなる」

 

「つまり、私が潜水服なしで海に飛び込む可能性があるってこと」

 

「Sランクの魔力で身体を強化すれば、短時間なら水深八十メートルの水圧に耐えられる。理論上は」

 

「理論上って言い方、やめてくれない? 毎回それで死にかけてるじゃない」

 

 凛は少しだけ笑った。

 

「死にかけたけど、死んでない」

 

「今回も死なないでよ」

 

「死なない」

 

 凛はそう言い切って、端末を閉じた。

 

 結衣がベッドの上から、二人のやり取りを聞いていた。

 

「おねえちゃん」

 

「何」

 

「お母さんが目を覚ましたら、最初に何て言うの」

 

 凛は少し考えた。

 

 怒りたいことは山ほどある。

 

 なぜ実験に使った。なぜ一人で止めようとした。なぜ十二年も沈んでいた。

 

 だが、結衣が以前に言った言葉を思い出した。

 

 「怒っていいからね。私の分も」

 

 怒る権利はある。

 

 だが、最初に言うべき言葉は、怒りではない。

 

「……たぶん、名前を呼ぶ」

 

「名前?」

 

「お母さん、じゃなくて。葛城理沙、って。本人に確認する。あなたが本当に葛城理沙なのかどうか」

 

 結衣は少し呆れた顔をした。

 

「おねえちゃんらしいね。それ」

 

「検証は大事だ」

 

「うん。でも、名前を呼んだ後は?」

 

 凛は窓の外を見た。

 

 夜空に星は見えない。東京の光害だ。

 

「その後のことは、母さんが目を覚ましてから考える」

 

 凛はベッドの縁に手を置き、結衣の指に触れた。

 

「行ってくる」

 

「行ってらっしゃい」

 

 結衣の指が、凛の指を軽く握り返した。

 

 温かい。

 

 凛はその温度を記憶に刻み、病室を出た。

 

 廊下でキララが待っていた。

 

 二人は夜の病院を出て、横須賀行きの最終電車に乗った。

 

 車内はほぼ空だった。

 

 向かい合わせの席に座り、二人とも黙っている。

 

 電車の振動が、規則正しく身体を揺らす。

 

 キララが目を閉じて仮眠を取り始めた。

 

 凛は端末を開き、セラフ網のデータを眺めていた。

 

 定常波の周期。一時間五分。

 

 さらに短くなっている。

 

 凛は端末を閉じ、自分の右手を見た。

 

 明日、この手でカプセルに触れる。

 

 母の心臓の鼓動を、素肌で感じる。

 

 そして、母の魔力と逆位相で共鳴する。

 

 Fランクの、百円ライターの火花しか出せない手。

 

 だが、その手には、母が刻んだ精度がある。

 

 壊すためではなく、鎮めるための精度。

 

 電車が横須賀に近づくにつれて、窓の外に海の気配が漂い始めた。

 

 潮の匂い。

 

 三度目の海だ。

 

 凛は窓に額を預け、目を閉じた。

 

 短い眠りの中で、凛は夢を見なかった。




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