魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
〇四〇〇。三度目の出港。
横須賀を出た「うらしま」は、冬の東京湾を南南東に進んだ。
コックピットの空気は、前回と同じ油と潮の匂いだ。
だが、凛の内側の温度は違っていた。
一度目は、未知への探索だった。
二度目は、設置作業だった。
三度目は、母との対面だ。
〇五四五。沈没座標上空。
凛はセラフのセンサーデータを確認した。
定常波の周期は、五十八分にまで短縮している。
昨夜の時点で一時間五分だった。
加速している。
「スパイクの発生状況は」
沙耶が聞いた。
「過去十二時間で五回。最大のモジュール負荷は八十九パーセント。前回のピークより四ポイント下がっている」
「分散同期プロトコルの効果か」
「ええ。だが、覚醒時のスパイクがこれまでと同じ規模で済む保証はない。意識が完全に浮上する瞬間は、睡眠中のスパイクとは別次元の出力になる可能性がある」
凛は端末を閉じた。
「潜航する」
ハッチが閉まり、バラストタンクに海水が注ぎ込まれる。
船体が海面下に沈んでいく。
水深が増すにつれ、窓の外の海水が紫色の光を帯び始めた。
前回よりも浅い深度から紫が見える。
カプセルからの魔力漏出が、さらに増している。
水深八十メートル。
要塞の残骸が、紫色の霧の中から浮かび上がった。
チタン装甲の腐食はさらに進み、外壁の一部が完全に崩落して、内部の鉄骨が剥き出しになっている。
要塞全体が、海に還ろうとしていた。
沙耶が潜水船を操舵し、前回と同じルートで要塞内部に進入する。
メインサーバー室を通過。
崩壊したラックの残骸の間を抜け、隠し区画のハッチに到達した。
「船外活動を開始する」
凛と沙耶が与圧室で潜水服を着込む。
凛は右手のグローブの外殻を外した。
手首のシールゴムが露出する。
その上から、ステンレス製のホースバンドを二重に締め込んだ。
沙耶が工具で増し締めする。
ゴムとバンドの間に、僅かな空気の層が残る。
この空気層が尽きた時、海水が手首の隙間から浸入し始める。
凛は右手に薄手の防水手袋をはめた。
ラテックス製。厚さ〇・三ミリ。
感覚は、ほぼ素手に近い。
「行くぞ」
与圧室のハッチが開き、二人は海中に出た。
紫色の光が、前回よりも濃い。
凛のヘッドランプの白い光が、紫に呑まれて数メートル先で消える。
ハッチを開ける。
隠し区画の内部は、紫色の光で完全に飽和していた。
壁面の光脈が、前回の倍以上の強度で脈動している。
カプセルの亀裂は、凛が通信モジュールを設置した時よりも、やや閉じていた。
内圧の低下で自己修復が進んだのだ。
だが、外壁全体に細かいひび割れのネットワークが広がっている。
大きな亀裂は閉じたが、微細な損傷は蓄積し続けている。
長期的な安定には程遠い。
カプセルのインターフェースポートに、凛が前回設置した通信モジュールの青いLEDが点滅していた。
正常稼働中。
凛はカプセルに接近した。
壁面越しに、理沙の顔が見える。
変わっていない。
穏やかな寝顔。
だが、前回と一つだけ違うことがあった。
理沙の眼球が、閉じた瞼の下で動いている。
急速眼球運動。
レム睡眠だ。
夢を見ている。
「沙耶さん。カプセルに取りつく。私が位相干渉を開始したら、潜水船に戻って待機していてくれ。私の身体が動かなくなるから、心配しないように」
「了解。異常があればインカムで呼べ」
沙耶が泳ぎ去り、潜水船に戻っていく。
凛は一人になった。
水深八十メートルの暗黒の海底で、紫色の光に包まれたカプセルの前に、凛は浮かんでいた。
右手を伸ばした。
ラテックスの防水手袋を通して、カプセルの外壁に指先が触れる。
振動が伝わってきた。
前回、分厚いグローブ越しに感じた微かな脈動とは、比較にならない鮮明さだった。
理沙の心臓の鼓動。
六十拍。規則正しい。
だが、その鼓動に重なるように、もう一つの波形が感じ取れた。
魔力の脈動だ。
心拍よりもずっと周期が長い。約五十五分間隔で、強弱を繰り返している。
定常波のリアルタイムの波形。
センサーのデータで見ていた数字が、今、指先の皮膚を通して直接流れ込んでくる。
凛は目を閉じた。
視覚を遮断し、指先の感覚だけに集中する。
波形を読む。
理沙の魔力は、正弦波に近い滑らかな波形を持っていた。
だが、完全な正弦波ではない。
ピークの手前で微かに波形が歪む。
高調波成分が乗っている。
意識が浮上しかけるたびに、この高調波成分が増幅され、スパイクを生んでいるのだ。
凛は自分の魔力を、右手の指先に集中させた。
Fランク。
百円ライターの火花。
出力はゴミ。
だが、凛の指先には、母の実験が刻んだ異常な精度がある。
理沙の波形を感じ取りながら、その波形の逆位相を、リアルタイムで生成する。
山が来れば谷を。谷が来れば山を。
ミリ秒単位で追随し、母の魔力の振動を打ち消していく。
チリッ、と指先に微かな熱が生じた。
凛のFランクの魔力が、カプセルの外壁を通して理沙の魔力と接触した瞬間だ。
二つの波が干渉を始める。
同じ起源を持つ魔力。同じ基底周波数。
凛の波が理沙の波と正確に逆位相で重なった箇所から、魔力の振幅がスッと減衰した。
効いている。
凛の端末にデータが届く。
通信モジュールの処理負荷が、七十二パーセントから五十八パーセントに低下した。
理沙の魔力出力そのものが、約二十パーセント減衰している。
計算通りだ。
凛は息を吐いた。
だが、ここからが本番だ。
干渉を維持し続けなければならない。
理沙の波形は一定ではない。
心拍の変動、呼吸の変動、脳の活動パターンの変動。
全てが波形に影響を与え、位相を微妙にずらしていく。
凛は、そのずれをリアルタイムで感知し、自分の出力の位相を追従させ続けなければならない。
一秒たりとも、指先の集中を途切れさせることはできない。
時間が流れ始めた。
十分。三十分。一時間。
凛は指先の感覚だけの世界にいた。
理沙の魔力の波形が、凛の意識の全てを占めている。
母の心臓の鼓動。
母の呼吸のリズム。
母の脳の、覚醒に向かう緩やかな浮上。
それらが全て、波形として凛の指先に伝わってくる。
十二年間、写真でしか知らなかった母。
その生命の振動を、今、凛は自分の皮膚で感じている。
理沙の波形が変動するたびに、凛の魔力が追従する。
母の鼓動に合わせて、娘の魔力が静かに脈打つ。
逆位相。打ち消し合う関係。
だが、打ち消し合うことで、二つの波は一つのシステムとして共鳴していた。
一時間半が経過した。
右手の手首に、冷たさが忍び寄ってきた。
シールゴムとホースバンドの隙間から、海水が浸入し始めている。
八度の海水が、ラテックスの手袋の外側を這い上がってくる。
指先の感覚が、わずかに鈍くなった。
凛は前腕部の電熱線のスイッチを入れた。
手首の動脈付近にじんわりとした温もりが広がる。
指先への血流が維持される。
感覚が戻った。
だが、長くはもたない。
浸水は続いている。
電熱線の温もりは、冷却の速度を遅らせているだけだ。
二時間。
指先の感覚が、再び薄れ始めた。
海水が手袋の中にまで浸入している。
冷たい。
指先が痺れる。
波形の解像度が落ちていく。
理沙の魔力の微細な変動が、読み取りにくくなっている。
位相のずれが大きくなり始めた。
通信モジュールの負荷が、五十八パーセントから六十五パーセントに上昇した。
干渉の効率が落ちている。
あとどのくらい持つか。
三十分か。一時間か。
凛は歯を食いしばった。
指先から感覚が消えていく恐怖と戦いながら、波形への集中を維持する。
その時。
理沙の波形が、唐突に変わった。
これまでの緩やかな正弦波が、急激に振幅を増し始めた。
高調波成分が一気に膨れ上がる。
スパイクだ。
しかも、これまでとは桁が違う。
通信モジュールの負荷が、六十五パーセントから一瞬で八十二パーセントに跳ね上がった。
凛は全神経を指先に集中させた。
痺れた指。鈍くなった感覚。
その中で、必死に波形を追う。
逆位相を合わせる。
ずれる。合わせる。またずれる。
指先の精度が、冷えによって確実に低下している。
モジュール負荷、八十七パーセント。
九十パーセント。
凛の干渉が、追いつかなくなっている。
理沙の魔力が、覚醒に向かって奔流のように膨れ上がっていく。
そして。
カプセルの内側で、理沙の瞼が震えた。
凛の指先が、波形の中に、これまでとは全く異なるパターンを感知した。
睡眠の波形ではない。
覚醒の波形だ。
理沙の意識が、十二年の眠りの底から、浮上を始めた。
読んでくださってありがとうございます。楽しんでいただけたなら幸いです。
励みになりますので、よろしければ感想・高評価・お気に入りなど、よろしくお願いします。