魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第27話

 〇四〇〇。三度目の出港。

 

 横須賀を出た「うらしま」は、冬の東京湾を南南東に進んだ。

 

 コックピットの空気は、前回と同じ油と潮の匂いだ。

 

 だが、凛の内側の温度は違っていた。

 

 一度目は、未知への探索だった。

 

 二度目は、設置作業だった。

 

 三度目は、母との対面だ。

 

 〇五四五。沈没座標上空。

 

 凛はセラフのセンサーデータを確認した。

 

 定常波の周期は、五十八分にまで短縮している。

 

 昨夜の時点で一時間五分だった。

 

 加速している。

 

「スパイクの発生状況は」

 

 沙耶が聞いた。

 

「過去十二時間で五回。最大のモジュール負荷は八十九パーセント。前回のピークより四ポイント下がっている」

 

「分散同期プロトコルの効果か」

 

「ええ。だが、覚醒時のスパイクがこれまでと同じ規模で済む保証はない。意識が完全に浮上する瞬間は、睡眠中のスパイクとは別次元の出力になる可能性がある」

 

 凛は端末を閉じた。

 

「潜航する」

 

 ハッチが閉まり、バラストタンクに海水が注ぎ込まれる。

 

 船体が海面下に沈んでいく。

 

 水深が増すにつれ、窓の外の海水が紫色の光を帯び始めた。

 

 前回よりも浅い深度から紫が見える。

 

 カプセルからの魔力漏出が、さらに増している。

 

 水深八十メートル。

 

 要塞の残骸が、紫色の霧の中から浮かび上がった。

 

 チタン装甲の腐食はさらに進み、外壁の一部が完全に崩落して、内部の鉄骨が剥き出しになっている。

 

 要塞全体が、海に還ろうとしていた。

 

 沙耶が潜水船を操舵し、前回と同じルートで要塞内部に進入する。

 

 メインサーバー室を通過。

 

 崩壊したラックの残骸の間を抜け、隠し区画のハッチに到達した。

 

「船外活動を開始する」

 

 凛と沙耶が与圧室で潜水服を着込む。

 

 凛は右手のグローブの外殻を外した。

 

 手首のシールゴムが露出する。

 

 その上から、ステンレス製のホースバンドを二重に締め込んだ。

 

 沙耶が工具で増し締めする。

 

 ゴムとバンドの間に、僅かな空気の層が残る。

 

 この空気層が尽きた時、海水が手首の隙間から浸入し始める。

 

 凛は右手に薄手の防水手袋をはめた。

 

 ラテックス製。厚さ〇・三ミリ。

 

 感覚は、ほぼ素手に近い。

 

「行くぞ」

 

 与圧室のハッチが開き、二人は海中に出た。

 

 紫色の光が、前回よりも濃い。

 

 凛のヘッドランプの白い光が、紫に呑まれて数メートル先で消える。

 

 ハッチを開ける。

 

 隠し区画の内部は、紫色の光で完全に飽和していた。

 

 壁面の光脈が、前回の倍以上の強度で脈動している。

 

 カプセルの亀裂は、凛が通信モジュールを設置した時よりも、やや閉じていた。

 

 内圧の低下で自己修復が進んだのだ。

 

 だが、外壁全体に細かいひび割れのネットワークが広がっている。

 

 大きな亀裂は閉じたが、微細な損傷は蓄積し続けている。

 

 長期的な安定には程遠い。

 

 カプセルのインターフェースポートに、凛が前回設置した通信モジュールの青いLEDが点滅していた。

 

 正常稼働中。

 

 凛はカプセルに接近した。

 

 壁面越しに、理沙の顔が見える。

 

 変わっていない。

 

 穏やかな寝顔。

 

 だが、前回と一つだけ違うことがあった。

 

 理沙の眼球が、閉じた瞼の下で動いている。

 

 急速眼球運動。

 

 レム睡眠だ。

 

 夢を見ている。

 

「沙耶さん。カプセルに取りつく。私が位相干渉を開始したら、潜水船に戻って待機していてくれ。私の身体が動かなくなるから、心配しないように」

 

「了解。異常があればインカムで呼べ」

 

 沙耶が泳ぎ去り、潜水船に戻っていく。

 

 凛は一人になった。

 

 水深八十メートルの暗黒の海底で、紫色の光に包まれたカプセルの前に、凛は浮かんでいた。

 

 右手を伸ばした。

 

 ラテックスの防水手袋を通して、カプセルの外壁に指先が触れる。

 

 振動が伝わってきた。

 

 前回、分厚いグローブ越しに感じた微かな脈動とは、比較にならない鮮明さだった。

 

 理沙の心臓の鼓動。

 

 六十拍。規則正しい。

 

 だが、その鼓動に重なるように、もう一つの波形が感じ取れた。

 

 魔力の脈動だ。

 

 心拍よりもずっと周期が長い。約五十五分間隔で、強弱を繰り返している。

 

 定常波のリアルタイムの波形。

 

 センサーのデータで見ていた数字が、今、指先の皮膚を通して直接流れ込んでくる。

 

 凛は目を閉じた。

 

 視覚を遮断し、指先の感覚だけに集中する。

 

 波形を読む。

 

 理沙の魔力は、正弦波に近い滑らかな波形を持っていた。

 

 だが、完全な正弦波ではない。

 

 ピークの手前で微かに波形が歪む。

 

 高調波成分が乗っている。

 

 意識が浮上しかけるたびに、この高調波成分が増幅され、スパイクを生んでいるのだ。

 

 凛は自分の魔力を、右手の指先に集中させた。

 

 Fランク。

 

 百円ライターの火花。

 

 出力はゴミ。

 

 だが、凛の指先には、母の実験が刻んだ異常な精度がある。

 

 理沙の波形を感じ取りながら、その波形の逆位相を、リアルタイムで生成する。

 

 山が来れば谷を。谷が来れば山を。

 

 ミリ秒単位で追随し、母の魔力の振動を打ち消していく。

 

 チリッ、と指先に微かな熱が生じた。

 

 凛のFランクの魔力が、カプセルの外壁を通して理沙の魔力と接触した瞬間だ。

 

 二つの波が干渉を始める。

 

 同じ起源を持つ魔力。同じ基底周波数。

 

 凛の波が理沙の波と正確に逆位相で重なった箇所から、魔力の振幅がスッと減衰した。

 

 効いている。

 

 凛の端末にデータが届く。

 

 通信モジュールの処理負荷が、七十二パーセントから五十八パーセントに低下した。

 

 理沙の魔力出力そのものが、約二十パーセント減衰している。

 

 計算通りだ。

 

 凛は息を吐いた。

 

 だが、ここからが本番だ。

 

 干渉を維持し続けなければならない。

 

 理沙の波形は一定ではない。

 

 心拍の変動、呼吸の変動、脳の活動パターンの変動。

 

 全てが波形に影響を与え、位相を微妙にずらしていく。

 

 凛は、そのずれをリアルタイムで感知し、自分の出力の位相を追従させ続けなければならない。

 

 一秒たりとも、指先の集中を途切れさせることはできない。

 

 時間が流れ始めた。

 

 十分。三十分。一時間。

 

 凛は指先の感覚だけの世界にいた。

 

 理沙の魔力の波形が、凛の意識の全てを占めている。

 

 母の心臓の鼓動。

 

 母の呼吸のリズム。

 

 母の脳の、覚醒に向かう緩やかな浮上。

 

 それらが全て、波形として凛の指先に伝わってくる。

 

 十二年間、写真でしか知らなかった母。

 

 その生命の振動を、今、凛は自分の皮膚で感じている。

 

 理沙の波形が変動するたびに、凛の魔力が追従する。

 

 母の鼓動に合わせて、娘の魔力が静かに脈打つ。

 

 逆位相。打ち消し合う関係。

 

 だが、打ち消し合うことで、二つの波は一つのシステムとして共鳴していた。

 

 一時間半が経過した。

 

 右手の手首に、冷たさが忍び寄ってきた。

 

 シールゴムとホースバンドの隙間から、海水が浸入し始めている。

 

 八度の海水が、ラテックスの手袋の外側を這い上がってくる。

 

 指先の感覚が、わずかに鈍くなった。

 

 凛は前腕部の電熱線のスイッチを入れた。

 

 手首の動脈付近にじんわりとした温もりが広がる。

 

 指先への血流が維持される。

 

 感覚が戻った。

 

 だが、長くはもたない。

 

 浸水は続いている。

 

 電熱線の温もりは、冷却の速度を遅らせているだけだ。

 

 二時間。

 

 指先の感覚が、再び薄れ始めた。

 

 海水が手袋の中にまで浸入している。

 

 冷たい。

 

 指先が痺れる。

 

 波形の解像度が落ちていく。

 

 理沙の魔力の微細な変動が、読み取りにくくなっている。

 

 位相のずれが大きくなり始めた。

 

 通信モジュールの負荷が、五十八パーセントから六十五パーセントに上昇した。

 

 干渉の効率が落ちている。

 

 あとどのくらい持つか。

 

 三十分か。一時間か。

 

 凛は歯を食いしばった。

 

 指先から感覚が消えていく恐怖と戦いながら、波形への集中を維持する。

 

 その時。

 

 理沙の波形が、唐突に変わった。

 

 これまでの緩やかな正弦波が、急激に振幅を増し始めた。

 

 高調波成分が一気に膨れ上がる。

 

 スパイクだ。

 

 しかも、これまでとは桁が違う。

 

 通信モジュールの負荷が、六十五パーセントから一瞬で八十二パーセントに跳ね上がった。

 

 凛は全神経を指先に集中させた。

 

 痺れた指。鈍くなった感覚。

 

 その中で、必死に波形を追う。

 

 逆位相を合わせる。

 

 ずれる。合わせる。またずれる。

 

 指先の精度が、冷えによって確実に低下している。

 

 モジュール負荷、八十七パーセント。

 

 九十パーセント。

 

 凛の干渉が、追いつかなくなっている。

 

 理沙の魔力が、覚醒に向かって奔流のように膨れ上がっていく。

 

 そして。

 

 カプセルの内側で、理沙の瞼が震えた。

 

 凛の指先が、波形の中に、これまでとは全く異なるパターンを感知した。

 

 睡眠の波形ではない。

 

 覚醒の波形だ。

 

 理沙の意識が、十二年の眠りの底から、浮上を始めた。




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