魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
覚醒の波形が、凛の指先を貫いた。
これまでの睡眠中のスパイクとは、根本的に異質なエネルギーだった。
睡眠中の波形は正弦波に近い。規則的で、予測可能で、凛の位相制御が追いつく速度で変動していた。
だが、覚醒の波形は違う。
意識が深層から浮上する過程で、脳の神経ネットワークが一斉に再起動し始めている。
十二年間沈黙していたシナプスが次々と発火し、その一つ一つが魔力の波形に不規則な擾乱を加えていく。
波形が予測不能になった。
正弦波が崩れ、鋭い棘のようなスパイクが不規則に連続する。
通信モジュールの負荷。九十一パーセント。九十三パーセント。
凛の指は痺れていた。
海水が手袋の中にまで浸透し、八度の冷水が指先の感覚を奪い続けている。
電熱線の温もりは、もう手首までしか届いていない。
指先は、自分のものではないような、遠い感覚だった。
その鈍った指先で、凛は理沙の波形を追い続けていた。
逆位相を合わせる。
ずれる。
合わせ直す。
ずれる。
位相が合っている瞬間が、短くなっていく。
合わせてから次にずれるまでの時間が、三秒、二秒、一秒と縮んでいく。
覚醒の波形は、加速しながら複雑化していく。
凛の位相制御は、追従の限界に近づいていた。
モジュール負荷、九十五パーセント。
あと五パーセント。
その五パーセントが超えた瞬間、モジュールがダウンし、セラフ網への同期信号が途絶え、放散処理が停止し、カプセルの内圧が急上昇し、暴走が始まる。
指先の感覚が、さらに薄れた。
理沙の波形が、ノイズの向こうに遠ざかっていく。
追えない。
このままでは、間に合わない。
凛の脳が、極限の状態で一つの判断を下した。
追従を、やめる。
理沙の波形をリアルタイムで追いかけ、その逆位相を後追いで生成する方法は、覚醒の不規則な波形に対しては限界がある。
反応速度が足りない。
ならば、追うのではなく、先回りする。
凛は指先に残った僅かな感覚を総動員し、理沙の波形の変動パターンそのものを読み取ろうとした。
不規則に見えるスパイクの連続。
だが、完全なランダムではないはずだ。
覚醒は、脳神経の再起動プロセスだ。
神経ネットワークの再起動には、順序がある。
脳幹から始まり、視床、大脳辺縁系、大脳皮質へと、段階的に活性化していく。
各段階で発火する神経領域が異なり、それに伴う魔力の波形パターンも変わる。
凛は結衣の覚醒時のデータを思い出した。
結衣の場合も、覚醒の直前に不規則なスパイクが連続していた。
だが、その不規則に見えたスパイクには、再起動の順序に対応した段階的なパターンが含まれていたはずだ。
凛は当時のデータを詳細に解析していなかった。
結衣が無事に目を覚ましたから、解析の必要がなかったのだ。
だが、結衣の覚醒プロセスの記憶は、凛の頭の中にある。
結衣が目を覚ます直前、生体情報モニターに表示されていた脳波の変動パターン。
最初に低周波の大きなうねりが来て、次に中周波の細かい振動が重なり、最後に高周波のバーストが一気に噴出して、覚醒に至った。
三段階。
理沙の覚醒も、同じ三段階を踏むはずだ。
母と娘は、同じ魔力の起源を持っている。
脳神経と魔力の相互作用のパターンも、類似しているはずだ。
凛は、今の理沙の波形がどの段階にあるかを判定した。
低周波のうねりは既に始まっている。
中周波の振動が、重なり始めている段階だ。
次に来るのは、高周波のバースト。
覚醒の最終段階であり、最大のスパイクが発生する瞬間。
凛は追従をやめ、予測に切り替えた。
中周波の振動パターンから、高周波バーストの発生タイミングと振幅を推定する。
結衣のデータでは、中周波の振動が最大振幅に達してから約十二秒後に、高周波バーストが始まっていた。
理沙の中周波の振動は、今まさに振幅を増しつつある。
ピークまで、あと数十秒。
その十二秒後に、最大のスパイクが来る。
凛は、その瞬間に合わせて、逆位相の干渉波を事前に準備した。
追従ではなく、先制。
来るべき波形を予測し、その逆位相をあらかじめ生成しておく。
波が来た瞬間に、即座にぶつける。
反応速度ゼロの、完璧な干渉。
ただし、予測が外れれば、位相が合わず、干渉は失敗する。
失敗すれば、最大のスパイクが通信モジュールを直撃し、ダウンする。
全てが終わる。
賭けだ。
凛が最も嫌うはずのもの。
だが、データはある。
結衣のパターンとの類似性。母と娘の魔力の共通起源。三段階の再起動プロセス。
根拠のない賭けではない。
観察し、計測し、仮説を立て、検証する。
凛がずっとやってきたことと、同じだ。
ただし、検証のチャンスは一回しかない。
中周波の振動が、ピークに達した。
凛の指先が、波形の頂点を捉える。
ここから十二秒。
凛は逆位相の干渉波を、指先に溜め始めた。
Fランクの魔力。
微弱な出力。
だが、位相の精度だけは、この世界の誰よりも高い。
十秒。
八秒。
五秒。
凛は母の心臓の鼓動を感じていた。
鼓動が、速くなっている。
六十拍が、七十拍に。七十拍が、八十拍に。
覚醒が近い。
身体が、目覚めの準備をしている。
三秒。
二秒。
一秒。
来た。
理沙の魔力が、瞬間的に爆発した。
高周波バースト。
これまでのスパイクの倍以上の振幅。
脳幹から大脳皮質まで、全ての神経ネットワークが一斉に発火し、十二年分の沈黙を打ち破る覚醒の叫びが、魔力の奔流となってカプセルの外壁を震わせた。
凛は、その奔流に向けて、準備していた逆位相の干渉波を解き放った。
指先から放たれた微弱な波が、理沙の巨大な波に正面からぶつかる。
蝋燭の火で嵐に挑むような、絶望的な出力差。
だが、位相は完璧だった。
凛の波形と理沙の波形が、寸分の狂いなく逆位相で重なった。
干渉の効率が、百パーセントに限りなく近い。
振幅の差は埋められない。
だが、理沙の波形の先端――最も鋭く、最も危険なスパイクの頂点だけが、凛の干渉波によって正確に削り取られた。
モジュール負荷。
九十七パーセント。
九十八。
九十九。
九十八。
九十五。
九十一。
ピークが、通過した。
超えなかった。
通信モジュールは、限界の一パーセント手前で踏み止まった。
セラフ網は稼働し続けている。
放散処理は止まっていない。
暴走は、起きなかった。
凛の右手から、力が抜けた。
指先の感覚は、もうほとんどない。
海水に浸かり切った手は、白く冷たくなっている。
だが、カプセルの壁面から伝わる振動が、変わっていた。
脈動のリズムが、変わった。
睡眠の波形ではない。
覚醒の波形でもない。
意識を持った人間の、覚醒状態の脳波パターン。
凛はカプセルの壁面に、感覚を失いかけた指先を押し当てたまま、半透明の壁の向こうを見た。
理沙の目が、開いていた。
焦点の合わない瞳が、カプセルの液体の中で揺れている。
ゆっくりと、視線が動く。
光を追うように。
そして、カプセルの壁の向こうにいる、見知らぬ潜水服の人間の姿を捉えた。
凛のヘルメットの丸い窓。
その奥にある、十六歳の少女の顔。
理沙の唇が動いた。
カプセルの液体と壁と海水とヘルメットに隔てられて、声は届かない。
だが、唇の形は読めた。
それは名前ではなかった。
謝罪でもなかった。
理沙の唇が形作ったのは、たった二文字の日本語だった。
――「だれ」
凛の胸の奥で、何かが軋んだ。
十二年間眠り続けた母は、目の前にいる娘の顔を、知らない。
凛が四歳の時に、理沙は消えた。
四歳の幼児の顔と、十六歳の少女の顔が同じに見えるはずがない。
凛は、インカムのスイッチを切った。
沙耶にもキララにも聞かれたくなかった。
潜水服のヘルメットの中で、凛の声が震えた。
カプセルの向こうには届かない声。
凛の口が、一つの名前を形作った。
「葛城、理沙」
凛はヘルメットの中で、唇だけで言った。
言葉にならない確認作業。
本人確認。
結衣に「おねえちゃんらしい」と笑われた、あの答え。
だが、凛の目の縁は、ヘルメットの中で誰にも見えないところで、赤くなっていた。
理沙の瞳が、凛の唇の動きを追った。
自分の名前が呼ばれたことは、液体の向こうからでも分かったのかもしれない。
理沙の表情が、僅かに変わった。
困惑の中に、何か別のものが混じる。
既視感。
あるいは、記憶の断片が、十二年の泥の底から浮かび上がろうとする兆し。
理沙の唇がもう一度動いた。
今度は「だれ」ではなかった。
もっと長い動き。
凛は、一文字ずつ読み取った。
り。ん。
凛。
母が、娘の名前を思い出した。
凛はヘルメットの中で、声にならない息を吐いた。
指先の感覚は消えている。
右手は海水で凍え、白く変色している。
だが、カプセルの壁越しに、理沙の鼓動が、凛の掌に伝わり続けていた。
その鼓動は、もう暴走の気配を帯びていなかった。
覚醒した意識が、魔力を制御下に戻し始めている。
通信モジュールの負荷が、七十パーセント台にまで低下した。
安定。
凛はインカムのスイッチを入れ直した。
「……作業完了。覚醒を確認した。モジュールの負荷は安定している。帰る」
沙耶の声が返ってきた。
「了解。帰還準備に入る」
キララの声が続いた。
「凛。お母さん、目を開けたの?」
「ああ。開けた」
「何か、言ってた?」
凛は一秒だけ間を置いた。
「私の名前を、呼んだ」
インカムの向こうで、キララが何かを言いかけて、やめた。
代わりに、短く、一言だけ返ってきた。
「よかったね」
凛はカプセルから手を離した。
感覚のない右手が、ゆっくりと壁面から剥がれる。
カプセルの向こうで、理沙の目がまだ凛を見ていた。
凛はヘルメット越しに、小さく頷いた。
また来る。
その意味を込めて。
凛はカプセルに背を向け、ハッチへと泳ぎ出した。
紫色の光が、前よりも穏やかに、凛の潜水服を照らしていた。
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