魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第28話

 覚醒の波形が、凛の指先を貫いた。

 

 これまでの睡眠中のスパイクとは、根本的に異質なエネルギーだった。

 

 睡眠中の波形は正弦波に近い。規則的で、予測可能で、凛の位相制御が追いつく速度で変動していた。

 

 だが、覚醒の波形は違う。

 

 意識が深層から浮上する過程で、脳の神経ネットワークが一斉に再起動し始めている。

 

 十二年間沈黙していたシナプスが次々と発火し、その一つ一つが魔力の波形に不規則な擾乱を加えていく。

 

 波形が予測不能になった。

 

 正弦波が崩れ、鋭い棘のようなスパイクが不規則に連続する。

 

 通信モジュールの負荷。九十一パーセント。九十三パーセント。

 

 凛の指は痺れていた。

 

 海水が手袋の中にまで浸透し、八度の冷水が指先の感覚を奪い続けている。

 

 電熱線の温もりは、もう手首までしか届いていない。

 

 指先は、自分のものではないような、遠い感覚だった。

 

 その鈍った指先で、凛は理沙の波形を追い続けていた。

 

 逆位相を合わせる。

 

 ずれる。

 

 合わせ直す。

 

 ずれる。

 

 位相が合っている瞬間が、短くなっていく。

 

 合わせてから次にずれるまでの時間が、三秒、二秒、一秒と縮んでいく。

 

 覚醒の波形は、加速しながら複雑化していく。

 

 凛の位相制御は、追従の限界に近づいていた。

 

 モジュール負荷、九十五パーセント。

 

 あと五パーセント。

 

 その五パーセントが超えた瞬間、モジュールがダウンし、セラフ網への同期信号が途絶え、放散処理が停止し、カプセルの内圧が急上昇し、暴走が始まる。

 

 指先の感覚が、さらに薄れた。

 

 理沙の波形が、ノイズの向こうに遠ざかっていく。

 

 追えない。

 

 このままでは、間に合わない。

 

 凛の脳が、極限の状態で一つの判断を下した。

 

 追従を、やめる。

 

 理沙の波形をリアルタイムで追いかけ、その逆位相を後追いで生成する方法は、覚醒の不規則な波形に対しては限界がある。

 

 反応速度が足りない。

 

 ならば、追うのではなく、先回りする。

 

 凛は指先に残った僅かな感覚を総動員し、理沙の波形の変動パターンそのものを読み取ろうとした。

 

 不規則に見えるスパイクの連続。

 

 だが、完全なランダムではないはずだ。

 

 覚醒は、脳神経の再起動プロセスだ。

 

 神経ネットワークの再起動には、順序がある。

 

 脳幹から始まり、視床、大脳辺縁系、大脳皮質へと、段階的に活性化していく。

 

 各段階で発火する神経領域が異なり、それに伴う魔力の波形パターンも変わる。

 

 凛は結衣の覚醒時のデータを思い出した。

 

 結衣の場合も、覚醒の直前に不規則なスパイクが連続していた。

 

 だが、その不規則に見えたスパイクには、再起動の順序に対応した段階的なパターンが含まれていたはずだ。

 

 凛は当時のデータを詳細に解析していなかった。

 

 結衣が無事に目を覚ましたから、解析の必要がなかったのだ。

 

 だが、結衣の覚醒プロセスの記憶は、凛の頭の中にある。

 

 結衣が目を覚ます直前、生体情報モニターに表示されていた脳波の変動パターン。

 

 最初に低周波の大きなうねりが来て、次に中周波の細かい振動が重なり、最後に高周波のバーストが一気に噴出して、覚醒に至った。

 

 三段階。

 

 理沙の覚醒も、同じ三段階を踏むはずだ。

 

 母と娘は、同じ魔力の起源を持っている。

 

 脳神経と魔力の相互作用のパターンも、類似しているはずだ。

 

 凛は、今の理沙の波形がどの段階にあるかを判定した。

 

 低周波のうねりは既に始まっている。

 

 中周波の振動が、重なり始めている段階だ。

 

 次に来るのは、高周波のバースト。

 

 覚醒の最終段階であり、最大のスパイクが発生する瞬間。

 

 凛は追従をやめ、予測に切り替えた。

 

 中周波の振動パターンから、高周波バーストの発生タイミングと振幅を推定する。

 

 結衣のデータでは、中周波の振動が最大振幅に達してから約十二秒後に、高周波バーストが始まっていた。

 

 理沙の中周波の振動は、今まさに振幅を増しつつある。

 

 ピークまで、あと数十秒。

 

 その十二秒後に、最大のスパイクが来る。

 

 凛は、その瞬間に合わせて、逆位相の干渉波を事前に準備した。

 

 追従ではなく、先制。

 

 来るべき波形を予測し、その逆位相をあらかじめ生成しておく。

 

 波が来た瞬間に、即座にぶつける。

 

 反応速度ゼロの、完璧な干渉。

 

 ただし、予測が外れれば、位相が合わず、干渉は失敗する。

 

 失敗すれば、最大のスパイクが通信モジュールを直撃し、ダウンする。

 

 全てが終わる。

 

 賭けだ。

 

 凛が最も嫌うはずのもの。

 

 だが、データはある。

 

 結衣のパターンとの類似性。母と娘の魔力の共通起源。三段階の再起動プロセス。

 

 根拠のない賭けではない。

 

 観察し、計測し、仮説を立て、検証する。

 

 凛がずっとやってきたことと、同じだ。

 

 ただし、検証のチャンスは一回しかない。

 

 中周波の振動が、ピークに達した。

 

 凛の指先が、波形の頂点を捉える。

 

 ここから十二秒。

 

 凛は逆位相の干渉波を、指先に溜め始めた。

 

 Fランクの魔力。

 

 微弱な出力。

 

 だが、位相の精度だけは、この世界の誰よりも高い。

 

 十秒。

 

 八秒。

 

 五秒。

 

 凛は母の心臓の鼓動を感じていた。

 

 鼓動が、速くなっている。

 

 六十拍が、七十拍に。七十拍が、八十拍に。

 

 覚醒が近い。

 

 身体が、目覚めの準備をしている。

 

 三秒。

 

 二秒。

 

 一秒。

 

 来た。

 

 理沙の魔力が、瞬間的に爆発した。

 

 高周波バースト。

 

 これまでのスパイクの倍以上の振幅。

 

 脳幹から大脳皮質まで、全ての神経ネットワークが一斉に発火し、十二年分の沈黙を打ち破る覚醒の叫びが、魔力の奔流となってカプセルの外壁を震わせた。

 

 凛は、その奔流に向けて、準備していた逆位相の干渉波を解き放った。

 

 指先から放たれた微弱な波が、理沙の巨大な波に正面からぶつかる。

 

 蝋燭の火で嵐に挑むような、絶望的な出力差。

 

 だが、位相は完璧だった。

 

 凛の波形と理沙の波形が、寸分の狂いなく逆位相で重なった。

 

 干渉の効率が、百パーセントに限りなく近い。

 

 振幅の差は埋められない。

 

 だが、理沙の波形の先端――最も鋭く、最も危険なスパイクの頂点だけが、凛の干渉波によって正確に削り取られた。

 

 モジュール負荷。

 

 九十七パーセント。

 

 九十八。

 

 九十九。

 

 九十八。

 

 九十五。

 

 九十一。

 

 ピークが、通過した。

 

 超えなかった。

 

 通信モジュールは、限界の一パーセント手前で踏み止まった。

 

 セラフ網は稼働し続けている。

 

 放散処理は止まっていない。

 

 暴走は、起きなかった。

 

 凛の右手から、力が抜けた。

 

 指先の感覚は、もうほとんどない。

 

 海水に浸かり切った手は、白く冷たくなっている。

 

 だが、カプセルの壁面から伝わる振動が、変わっていた。

 

 脈動のリズムが、変わった。

 

 睡眠の波形ではない。

 

 覚醒の波形でもない。

 

 意識を持った人間の、覚醒状態の脳波パターン。

 

 凛はカプセルの壁面に、感覚を失いかけた指先を押し当てたまま、半透明の壁の向こうを見た。

 

 理沙の目が、開いていた。

 

 焦点の合わない瞳が、カプセルの液体の中で揺れている。

 

 ゆっくりと、視線が動く。

 

 光を追うように。

 

 そして、カプセルの壁の向こうにいる、見知らぬ潜水服の人間の姿を捉えた。

 

 凛のヘルメットの丸い窓。

 

 その奥にある、十六歳の少女の顔。

 

 理沙の唇が動いた。

 

 カプセルの液体と壁と海水とヘルメットに隔てられて、声は届かない。

 

 だが、唇の形は読めた。

 

 それは名前ではなかった。

 

 謝罪でもなかった。

 

 理沙の唇が形作ったのは、たった二文字の日本語だった。

 

 ――「だれ」

 

 凛の胸の奥で、何かが軋んだ。

 

 十二年間眠り続けた母は、目の前にいる娘の顔を、知らない。

 

 凛が四歳の時に、理沙は消えた。

 

 四歳の幼児の顔と、十六歳の少女の顔が同じに見えるはずがない。

 

 凛は、インカムのスイッチを切った。

 

 沙耶にもキララにも聞かれたくなかった。

 

 潜水服のヘルメットの中で、凛の声が震えた。

 

 カプセルの向こうには届かない声。

 

 凛の口が、一つの名前を形作った。

 

「葛城、理沙」

 

 凛はヘルメットの中で、唇だけで言った。

 

 言葉にならない確認作業。

 

 本人確認。

 

 結衣に「おねえちゃんらしい」と笑われた、あの答え。

 

 だが、凛の目の縁は、ヘルメットの中で誰にも見えないところで、赤くなっていた。

 

 理沙の瞳が、凛の唇の動きを追った。

 

 自分の名前が呼ばれたことは、液体の向こうからでも分かったのかもしれない。

 

 理沙の表情が、僅かに変わった。

 

 困惑の中に、何か別のものが混じる。

 

 既視感。

 

 あるいは、記憶の断片が、十二年の泥の底から浮かび上がろうとする兆し。

 

 理沙の唇がもう一度動いた。

 

 今度は「だれ」ではなかった。

 

 もっと長い動き。

 

 凛は、一文字ずつ読み取った。

 

 り。ん。

 

 凛。

 

 母が、娘の名前を思い出した。

 

 凛はヘルメットの中で、声にならない息を吐いた。

 

 指先の感覚は消えている。

 

 右手は海水で凍え、白く変色している。

 

 だが、カプセルの壁越しに、理沙の鼓動が、凛の掌に伝わり続けていた。

 

 その鼓動は、もう暴走の気配を帯びていなかった。

 

 覚醒した意識が、魔力を制御下に戻し始めている。

 

 通信モジュールの負荷が、七十パーセント台にまで低下した。

 

 安定。

 

 凛はインカムのスイッチを入れ直した。

 

「……作業完了。覚醒を確認した。モジュールの負荷は安定している。帰る」

 

 沙耶の声が返ってきた。

 

「了解。帰還準備に入る」

 

 キララの声が続いた。

 

「凛。お母さん、目を開けたの?」

 

「ああ。開けた」

 

「何か、言ってた?」

 

 凛は一秒だけ間を置いた。

 

「私の名前を、呼んだ」

 

 インカムの向こうで、キララが何かを言いかけて、やめた。

 

 代わりに、短く、一言だけ返ってきた。

 

「よかったね」

 

 凛はカプセルから手を離した。

 

 感覚のない右手が、ゆっくりと壁面から剥がれる。

 

 カプセルの向こうで、理沙の目がまだ凛を見ていた。

 

 凛はヘルメット越しに、小さく頷いた。

 

 また来る。

 

 その意味を込めて。

 

 凛はカプセルに背を向け、ハッチへと泳ぎ出した。

 

 紫色の光が、前よりも穏やかに、凛の潜水服を照らしていた。




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