魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第29話

 理沙の救出には、さらに一週間を要した。

 

 覚醒は確認できたが、カプセルから理沙を取り出す方法が、まだなかったのだ。

 

 カプセルの生命維持機構は、理沙の身体と物理的に融合している。

 

 無数のケーブルと管が、理沙の静脈、動脈、脊椎の神経束に直接接続されており、単純に引き抜けば大量出血と神経損傷を引き起こす。

 

 海底での外科手術は不可能だ。

 

 凛は別のアプローチを取った。

 

 カプセルごと引き揚げる。

 

 理沙をカプセルから分離するのではなく、カプセルそのものを海底から地上へ運び、病院の手術室で医師の手によって安全に分離する。

 

 問題は、カプセルの重量と、隠し区画の構造だった。

 

 カプセルは直径約二メートの半球形で、内部の液体と理沙の体重を含めた総重量は推定四百キログラム。

 

 潜水船のマニピュレーターでは持ち上がらない。

 

 そして、カプセルは隠し区画の壁面と光脈で接続されている。

 

 光脈は魔力の循環路であり、同時にカプセルの構造を区画に固定するアンカーでもあった。

 

 光脈を切断しなければ、カプセルは動かせない。

 

 だが、光脈を切断すれば、カプセルの自己修復機能が失われ、外壁の劣化が再び進行する。

 

 通信モジュールによる魔力放散で内圧は安定しているが、自己修復なしでは引き揚げ途中にカプセルが崩壊するリスクがある。

 

 凛は沙耶と協議し、引き揚げの手順を設計した。

 

 第一段階。光脈の切断前に、カプセルの外壁をFRP(繊維強化プラスチック)のシートで補強する。

 

 沙耶が海洋工事の資材業者から、水中硬化型のFRPシートを調達した。海中でカプセルの外壁に直接貼り付け、硬化させることで、自己修復機能に代わる構造強度を確保する。

 

 第二段階。光脈の切断。

 

 サバイバルナイフでは切断できない。光脈は半生体組織であり、金属工具に対して弾力で抵抗する。

 

 キララのレーザーで焼き切る。光ファイバーケーブルで光を誘導し、カプセルの接続点一つ一つを精密に切断していく。

 

 第三段階。カプセルの浮上。

 

 四百キログラムのカプセルを海面まで持ち上げるために、沙耶が調達した産業用の水中リフトバッグを使用する。圧縮空気で膨らませた浮力袋をカプセルに取り付け、浮力で海面まで引き上げる。

 

 第四段階。海上での回収と病院への搬送。

 

 沙耶の伝手で、海上保安庁の退役した巡視艇を一日だけ借り受けた。甲板のクレーンでカプセルを引き揚げ、横須賀港まで運ぶ。そこから陸上の救急車で病院へ。

 

 四段階の全てに、失敗のリスクがあった。

 

 だが、凛は一つずつ潰していくしかなかった。

 

     *

 

 引き揚げ当日。

 

 凛、キララ、沙耶の三人は、四度目の潜航を行った。

 

 水深八十メートル。

 

 紫色の光は、前回よりもさらに穏やかになっていた。

 

 理沙が覚醒し、意識が魔力を制御下に置き始めた効果だ。

 

 通信モジュールの負荷は、六十パーセント台で安定している。

 

 凛と沙耶が船外に出て、カプセルに取りついた。

 

 FRPシートの貼り付けは、沙耶が担当した。

 

 水中硬化型の樹脂を塗布したシートを、カプセルの外壁に一枚ずつ貼り付け、ローラーで気泡を抜いて密着させる。

 

 硬化には約三十分。

 

 その間、凛はカプセルの壁面越しに理沙の状態を確認した。

 

 理沙の目は開いている。

 

 前回の覚醒直後は焦点が合っていなかったが、今は凛の潜水服のヘルメットを、はっきりと見つめていた。

 

 唇が動いた。

 

 凛は読み取った。

 

 「ここは、どこ」

 

 凛はヘルメットの丸窓越しに、唇だけで答えた。

 

 「海の底」

 

 理沙の表情が、困惑から驚きに変わった。

 

 凛は続けた。

 

 「助けに来た。今から引き揚げる」

 

 理沙の目が、僅かに潤んだ。

 

 カプセルの液体の中で、それが涙なのか液体の揺らぎなのか、判別はつかなかった。

 

 FRPの硬化が完了した。

 

 沙耶が外壁を叩いて確認する。硬い。構造強度は確保された。

 

 次に、光脈の切断。

 

 凛は潜水船の中のキララにインカムで指示を出した。

 

「レーザーを最小出力で照射する。光ファイバー経由で、私が指定した座標に一本ずつ当ててくれ」

 

「了解。何本切るの」

 

「十二本。カプセルと区画の壁面を繋いでいる光脈の全て」

 

 凛はカプセルの周囲を泳ぎ、光脈の接続点にマーカーを貼り付けていった。

 

 蛍光塗料を塗った小さなシールだ。暗い海中でも視認できる。

 

 十二箇所のマーカーを全て貼り終え、凛はカプセルから距離を取った。

 

「一本目、照射」

 

 キララのレーザーが、光ファイバーケーブルを通して射出された。

 

 極細の白い光が、最初のマーカーの位置で光脈に触れる。

 

 ジュッ、という短い音。

 

 半生体組織の光脈が、レーザーの熱で焼灼され、切断された。

 

 切断面から、紫色の液体が僅かに漏れ、海水に溶けて消えた。

 

 カプセルの外壁に、微かな震えが走った。

 

 光脈が一本切れるごとに、カプセルと区画の間のエネルギー循環が弱まっていく。

 

 二本目。三本目。四本目。

 

 凛はカプセルの壁面越しに、理沙の表情を監視し続けた。

 

 理沙の心拍に変動はない。生命維持に直接関わる接続は、光脈ではなくカプセル内部の閉鎖系で維持されている。

 

 光脈はカプセルの自己修復機能と、区画へのエネルギー供給を担っていた。

 

 カプセル内部の生命維持には直接影響しない。

 

 凛の事前分析通りだ。

 

 五本目。六本目。七本目。

 

 区画の壁面の光が、目に見えて弱くなっていく。

 

 エネルギーの供給を失った壁面の半生体組織が、活性を失って灰色に変色し始めた。

 

 八本目。九本目。十本目。

 

 十一本目。

 

 最後の一本。

 

「十二本目、照射」

 

 ジュッ。

 

 最後の光脈が切断された。

 

 カプセルが、区画から完全に分離した。

 

 浮力と重力のバランスが変わり、カプセルがゆっくりと海底に向かって沈みかけた。

 

 沙耶が即座にリフトバッグのバルブを開いた。

 

 シューッという空気の充填音。

 

 オレンジ色の浮力袋が膨らみ、カプセルの沈降を食い止めた。

 

 四百キログラムのカプセルが、リフトバッグの浮力で中性浮力を得て、海中に静止する。

 

「浮力確保。浮上開始」

 

 沙耶がリフトバッグの空気量を微調整しながら、カプセルをゆっくりと上昇させ始めた。

 

 急激な浮上は禁物だ。

 

 水圧の変化でカプセルの外壁やFRP補強材にストレスがかかる。

 

 一分間に十メートルの速度制限。

 

 浮上に八分。

 

 凛はカプセルに並走しながら、外壁の状態を監視し続けた。

 

 FRPシートの縁に、僅かなシワが寄っている箇所がある。

 

 水圧の変化でカプセルの外壁が微かに膨張し、FRPとの間にずれが生じているのだ。

 

 だが、構造的な破綻には至っていない。

 

 水深六十メートル。四十メートル。二十メートル。

 

 紫色の光が薄れていく。

 

 海水の色が、黒から紺、紺から青へと変わっていく。

 

 そして。

 

 ザバァン、と白い泡を吹き上げて、カプセルが海面に姿を現した。

 

 十二月の朝の光が、半透明の外壁を通して、カプセルの中に差し込んだ。

 

 理沙の顔に、十二年ぶりの太陽の光が当たった。

 

 理沙の目が、カプセルの壁越しに、眩しそうに細まった。

 

 光だ。

 

 深海の暗闇ではなく、紫色の魔力の光でもなく、本物の太陽の光。

 

 沙耶が無線で巡視艇を呼んだ。

 

 二十分後、巡視艇が到着し、甲板のクレーンがカプセルを海面から引き揚げた。

 

 海水が滴り落ちるカプセルが、甲板の上に静かに降ろされる。

 

 凛は潜水服のヘルメットを外し、甲板に上がった。

 

 冬の海風が、濡れた顔を打つ。

 

 右手はまだ感覚が鈍い。海水に浸かった後遺症だ。

 

 凛はカプセルの横に膝をついた。

 

 半透明の壁越しに、理沙と目が合った。

 

 ヘルメットなしの、凛の素顔。

 

 理沙の唇が動いた。

 

 今度は、読み取るまでもなかった。

 

 「凛」

 

 はっきりと、名前を呼んでいた。

 

 凛は頷いた。

 

「うん。凛だよ」

 

 お嬢様口調ではない。

 

 ただの十六歳の声。

 

「今から病院に運ぶ。結衣も待ってる」

 

 理沙の目が見開かれた。

 

 結衣。

 

 もう一人の娘の名前を聞いた瞬間、理沙の表情が崩れた。

 

 カプセルの液体の中で、理沙の頬を、透明な筋が伝い落ちた。

 

 今度は、液体の揺らぎではなかった。

 

 涙だった。

 

 凛はカプセルの壁面に手を置いた。

 

 感覚の鈍い右手ではなく、左手で。

 

 無傷の掌が、冷たい壁面に触れる。

 

 壁の向こうで、理沙の手が、同じ位置に置かれた。

 

 壁一枚を隔てて、母と娘の手が重なった。

 

 凛は何も言わなかった。

 

 言いたいことは、まだ山ほどある。

 

 だが、ここは東京湾の真ん中の、退役巡視艇の甲板の上だ。

 

 沙耶が操舵室で巡視艇を動かし、キララが甲板でカプセルの固定を確認している。

 

 話は、病院に着いてからでいい。

 

 結衣がいる場所で、三人で話す。

 

 それが正しい。

 

 凛は手を離し、立ち上がった。

 

「横須賀まで、どのくらいかかる」

 

 沙耶が操舵室から答えた。

 

「四十分だ」

 

「急いでくれ」

 

「了解」

 

 巡視艇のエンジンが唸りを上げ、白い航跡を引いて横須賀へ向かった。

 

 凛は甲板に座り、カプセルに背中を預けた。

 

 壁越しに、理沙の心臓の鼓動が、凛の背中に伝わってくる。

 

 六十二拍。穏やかで、安定したリズム。

 

 十二月の冬の太陽が、東京湾の海面を白く照らしていた。




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