魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
数トンという規格外の大質量を持った漆黒の触手が、四階フロアの空気を暴力的に圧搾しながら、葛城凛の頭上から真っ直ぐに振り下ろされた。
ただの自由落下ではない。
明確な殺意と、捕食対象を確実に粉砕するための筋力による異様な加速。
直撃すれば、生身の人体など血溜まりすら残さずに肉塊へと変わり果てる。
離れた場所でへたり込んでいたSランク魔法少女、星野キララが、直視できずに両手で顔を覆い、絶望の悲鳴を上げる。
だが、葛城凛の防護ゴーグルの奥の瞳は、一切の動揺を見せていなかった。
触手が彼女の頭蓋を粉砕する、ほんのコンマ数秒前。
凛は、自らその腕ごと二十キロの生石灰の紙袋を、スライムの体液の奥深くへと突き入れた。
右手の指先に灯っていた火花が、分厚いクラフト紙の、凛が狙い定めた最も薄い一点をピンポイントで焼き切る。
紙が裂け、白い粉末がスライムの体液に接触した。
それと完全に同時。
凛は右腕をスライムの体内に残したまま、手首のタクティカルスライダーを親指で弾いた。
プシュゥゥゥッ!
スライムの体液に沈んだ凛の右腕のプロテクターから、超高濃度の界面活性剤が全方位に向けて高圧噴射された。
スライムを構成する極めて高い粘性が、化学溶剤によって一瞬にして無力化され、凛の右腕の周囲だけが摩擦抵抗ゼロの液相状態へと変貌する。
凛の右腕がスライムの体液に癒着する前に、化学的に「滑り」を確保する。
事前に想定していた手順だ。
流体の粘度データは、先ほどのバール投擲で取得済みだった。
この粘度のスライムに腕を突っ込んだ場合、界面活性剤なしでは約〇・四秒で体液が腕に密着し、人力では引き抜けなくなる。
界面活性剤の噴射は、その〇・四秒の猶予の中で行わなければならなかった。
凛は〇・二秒で実行した。
物理的な癒着が完全に剥がれたことを、腕にかかる抵抗の消失で確認した直後。
凛は、左手でドレスのフリルの下に隠されたタクティカルベルトのスイッチを弾いた。
ギャリィィィィィンッ!!
火花を散らすような、けたたましい金属の摩擦音が廃ビルのフロアに響き渡る。
凛の腰のハーネスと、後方十メートルのコンクリート柱に打ち込んだアンカー。
その二点を繋ぐ高張力ワイヤーが、小型の工業用ウインチによって、瞬時に巻き取られた。
界面活性剤で摩擦抵抗を失っていた右腕は、関節に負担をかけることなくスライムの中から綺麗に抜け、凛の身体はウインチの牽引力によって、猛烈な勢いで後方へ射出された。
魔法の身体強化などではない。
純粋なモーターの馬力と化学溶剤による摩擦係数ゼロの、計算し尽くされた強制退避。
ドガァァァァァァァンッ!!
凛が直前まで立っていた空間を、黒い大質量が薙ぎ払った。
凄まじい轟音と共に、四階の分厚いコンクリート床がすり鉢状に粉砕され、ひしゃげた鉄筋が四方八方に飛び散る。
触手が通過した際の風圧が凛の身体を煽ったが、ワイヤーの張力を利用して空中で姿勢を制御し、着地の衝撃を右肩で受けながら床に転がった。
右肩に鈍い痛みが走る。
Fランクの生身には、ウインチの牽引ですら骨身に堪える負荷だ。
だが、生きている。
直撃を免れ、スライムの体内の最も深く、最も逃げ場のない中心部には、火花によって開封された二十キログラムの生石灰だけが残された。
そして。
ズゴゴゴゴゴゴォォォォッ!!!
黒いスライムの体内で、凄まじい地鳴りのような異音が鳴り響き始めた。
生石灰と水の接触。
酸化カルシウムが水と反応して水酸化カルシウムを生成する水和反応。
その発熱は瞬時に数百度に達する。
スライムの表面は外部からの熱を吸収する能力を持っていたが、それは表面の分子構造が行う能動的なプロセスだ。
体液の最深部で突如として発生した化学反応は、表面を経由しない。
吸収メカニズムが機能する経路の外側で、直接的に内部組織を灼いている。
ボコボコと、黒い流体が不気味に沸騰を始めた。
体内の水分が一気に水蒸気へと変わり、スライムの表面が巨大な水膨れのようにあちこちで醜悪に膨れ上がる。
「星野さん、走って! あそこの防火扉の陰へ!!」
凛はキララの腕を強引に掴んで走り出した。
先ほど爆破して床に転がっていた分厚い鉄製の防火扉の残骸。
そこまでの約五メートルの距離を駆け抜け、重厚な鉄の板の裏側へと滑り込む。
真の地獄は、熱ではなかった。
生成された水酸化カルシウムによる、急激な体積膨張。
逃げ場のない流体の中心部で発生したその膨張圧は、全方位に向けて内側から押し広げる力として作用する。
流体装甲が外部からの物理打撃を吸収できるのは、力を受け流すスペースがあるからだ。
だが、自らの体積のど真ん中で全方位から押し広げられた場合、逃げ場のない流体は限界まで引き伸ばされ、やがてその張力を維持できなくなる。
そこに、第三の攻撃が追い打ちをかける。
水酸化カルシウムは、極めて強いアルカリ性を示す。
スライムを構成していたタンパク質が、内側から発生した強アルカリによって急速に加水分解され、流体としての粘性と構造を致命的に破壊されていく。
膨張圧で引き伸ばされ、アルカリで分子結合を切断され、熱で沸騰させられる。
三方向からの同時攻撃に、スライムの組織が耐えられる道理はなかった。
「ギ、ギィィィィィィィィィィッ!!!」
スライムから、初めて苦悶の絶叫のような振動が発せられた。
黒かった流体は、内部で生成された石灰によって見る見るうちに白濁し、水和反応によってセメントのようにガチガチに硬化していく。
空中に振り上げられていた巨大な触手が、ピタリと静止し、まるで醜悪な石膏像のように固まった。
パァァァァァァァンッ!!!
巨大な航空爆弾が弾けたような、鼓膜を破る破裂音。
完全に白く硬化したスライムの巨体が、膨張する内圧に耐えきれず、フロア全体を吹き飛ばすほどの凄まじい勢いで木端微塵に砕け散った。
石灰の散弾が嵐のようにフロア中を乱れ飛び、コンクリートの壁に深々と突き刺さる。
強アルカリ性の泥濘が周囲にぶち撒けられ、あらゆるものをジュージューと溶かしていく。
凄まじい衝撃波が、凛たちが隠れた防火扉を激しく打ち据えた。
深夜の廃ビルに、真っ白な石灰の粉雪がもうもうと舞い散る。
激しい暴風と破壊の嵐が通り過ぎた後、四階フロアには完全な静寂が戻っていた。
ひしゃげた防火扉の陰から、パステルピンクのドレスを白い粉で汚した凛がゆっくりと立ち上がる。
右肩が痛む。着地の衝撃で打撲したのだ。
左の掌には、ウインチの牽引で擦りむいた裂傷が、また開いている。
川崎の廃工場で負った傷と同じ場所だ。
凛は静かに息を吐き、防護ゴーグルを額へと押し上げた。
「……なんなの、一体……」
隣でへたり込んでいたキララが、うわ言のように呟いた。
自分の最大火力である三千度の魔法の炎を喰らい、無傷で巨大化した怪物。
それを、目の前のFランクの少女は、たった一袋の白い粉で惨殺してみせたのだ。
美しい光の軌跡も、愛と勇気の奇跡の逆転劇もない。
あるのはただ、冷徹な化学反応による、極めて論理的な虐殺の痕跡だけだった。
キララが凛に向ける視線は、もはや見下すようなものではない。
底知れぬ恐怖と畏敬の入り混じったものへと、完全に変質していた。
『事象データノ解析完了。対象ノ内部ニオケル水和反応、体積膨張、強アルカリニヨルタンパク質変性ヲ確認。対象ハ沈黙。討伐報酬ヲ計算シマス』
粉塵舞う空間にノイズが走り、セラフが姿を現した。
淡々とした電子音声がログを読み上げる。それだけだ。
「特別ボーナスを要求しますわ、鳥。環境適応型のイレギュラーでしたもの。基本報酬の三倍はいただかないと、割に合いませんわ」
『要求ヲ承認。基本報酬二十万ポイントニ加エ、変異体討伐ボーナス四十万ポイントヲ加算。結衣サンノ生命維持装置ハ、アト十四日間稼働シマス』
十四日。
その言葉を聞いて、凛の目に僅かな安堵の色が浮かんだ。
だが、すぐに元の氷のような冷徹さに戻る。
根本的な解決には至っていない。
システムに命を握られ、搾取され続ける限り、双子の妹の命は常に綱渡りのタイムリミットに晒されているのだ。
凛は、粉々に砕け散り、部屋の中央にうず高く積もった白い残骸の山へと歩み寄った。
タクティカルベルトからサバイバルナイフを取り出し、硬化した破片の山を掘り返し始める。
「な、何をしてるの……?」
キララが、怯えた声で尋ねる。
「回収ですわ。この狂ったシステムが一番欲しがっている、怪物の心臓(コア)のね」
やがて、凛の血に汚れた手が、白い粉に塗れた一つの物体を石灰の山から引きずり出した。
人間の心臓に酷似した赤黒い肉塊。
極めて高密度の魔力被膜によって強固にコーティングされているため、数百度の水和熱や強アルカリの浸食すらも完全に弾き返し、生体組織でありながら無傷で原型を保っていた。
だが。
ナイフの先端で表面の石灰の粉を丁寧に払い落とした瞬間、凛の動きがピタリと止まった。
心臓の表面。
右心室の筋肉の壁面に、銀色に光る金属製の人工弁が埋め込まれていた。
それだけではない。
人工弁のすぐ横の生体組織に、極めて無機質な黒いレーザー刻印で、ある数列が刻み込まれていた。
――『YUI-04-A』
「……ああ、やはり」
凛の眼球が、極限まで見開かれる。
予測していた最悪の仮説が、物理的な証拠として突きつけられた。
結衣(YUI)。
都内の大学病院の無菌室で、魔力飽和病によって眠り続けている、凛の妹の名前。
04-A。結衣が入院している第四病棟のA室。
「この変異体の魔力波長は、結衣の病室で計測したデータと完全に一致していた。だから、この現場に来た」
凛の声から、一切の感情が消え失せていた。
偶然の一致であるはずがなかった。
魔法少女というシステム。歪魔という怪物。妹の体を蝕む魔力飽和という病。
これらは決して独立した事象ではない。
この怪物たちは、どこから湧いてきたのか。
システムは、一体誰の命を搾り取り、この怪物を造り出し、この狂ったゲームを運営しているのか。
「……セラフ」
絶対零度の殺気。
Sランクのキララですら息を呑み、本能的に後ずさりするほどの、底知れぬどす黒い怒りと憎悪だった。
「これは、どういうことですの?」
凛は刻印の刻まれた心臓を、セラフの単眼モニターに向けて真っ直ぐに突きつけた。
『該当ノ質問ニ対スル回答ハ、当システムノ情報開示権限ヲ超過シテイマス。回答ヲ拒否シマス』
無機質な電子音声だけが、粉塵の舞う廃ビルに反響した。
奇跡など信じない。魔法など信用しない。
全ては論理と物理法則の延長線上にある。
ならば、このシステムを構築した管理者も、必ずこの世界のどこかに物理的な実体を持ち、物理的な死を迎えることができるはずだ。
「よろしいですわ。……権限がないのなら、サーバーごと物理的にハッキングして、管理者を外に引きずり出して差し上げます」
血と石灰に塗れたボクシンググローブを再び拾い上げ、強く握りしめながら、葛城凛は静かに笑った。
最弱の魔法少女による、世界の超常法則と、命を弄ぶシステムに対する凄惨な反逆が、今、始まったのだ。
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