魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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最終話

 理沙がカプセルから分離されたのは、病院に搬送されてから四十八時間後だった。

 

 手術は十四時間に及んだ。

 

 静脈と動脈に融合していたケーブルの切離。脊椎の神経束に接続されていた光ファイバーインターフェースの除去。十二年間カプセルの液体に浸かっていた皮膚と筋肉の状態評価。

 

 執刀したのは、この病院の脳神経外科と心臓血管外科のチームだった。

 

 担当医たちは、カプセルの内部構造を見て絶句した。

 

 既存の医学の範疇に収まらない技術だったが、人体との接続点は全て既知の解剖学的構造に準拠していた。

 

 凛は手術室の外で待った。

 

 理沙の研究ノートから、ケーブルと管の接続仕様を書き起こし、担当医に事前に渡してあった。

 

 どのケーブルがどの血管に接続され、どの管がどの神経束と結合しているか。

 

 接続の規格が分かれば、切離の手順は外科医の領分だ。

 

 凛にできることは、もう何もなかった。

 

 待つだけだ。

 

 手術室の赤いランプを見つめながら、凛は廊下の長椅子に座っていた。

 

 キララが隣にいた。

 

 沙耶は廊下の端で壁にもたれ、腕を組んで目を閉じていた。

 

 結衣は車椅子で凛の横に並んでいた。

 

 四人とも、何も喋らなかった。

 

 十四時間後。

 

 手術室のランプが消えた。

 

 担当医が出てきて、マスクを外した。

 

「全てのケーブルと管の切離に成功しました。神経損傷はありません。血管の修復も完了しています。バイタルは安定しています」

 

 凛は立ち上がった。

 

「意識は」

 

「麻酔が切れれば、覚醒すると思われます。ただ、十二年間の昏睡状態からの回復には、リハビリが必要になります。身体機能の回復には、数ヶ月から一年程度を見込んでください」

 

 凛は頷いた。

 

「面会は」

 

「麻酔が切れてからです。あと三時間ほど」

 

 凛は座り直した。

 

 あと三時間。

 

 結衣が凛の手を握った。

 

 凛は握り返した。

 

 三時間は、三時間のまま過ぎた。

 

 短くも長くもなかった。

 

 ただ、三時間だった。

 

     *

 

 理沙が目を開けたのは、午後の光が病室に差し込んでいる時間だった。

 

 第四病棟の個室。

 

 結衣がいた部屋の隣の部屋だ。

 

 凛と結衣が、ベッドの傍らにいた。

 

 キララと沙耶は、廊下で待っている。

 

 これは家族の時間だ。

 

 理沙の目が、天井からゆっくりと動いて、ベッドの横にいる二人の顔を捉えた。

 

 十六歳の少女が二人。

 

 双子だ。

 

 同じ顔。

 

 だが、纏っている空気が違う。

 

 一人は車椅子に座り、パステルピンクのマフラーを首に巻いている。穏やかな目をしている。

 

 もう一人は椅子に座り、右腕に縫合痕があり、首に薄い痣の跡がある。冷たく、硬い目をしている。

 

 理沙の唇が動いた。

 

 声は掠れていた。十二年間使っていなかった声帯が、振動を思い出そうとしている。

 

「……凛。結衣」

 

 二人の名前を、続けて呼んだ。

 

 結衣が先に口を開いた。

 

「お母さん。おはよう」

 

 簡潔だった。

 

 怒りも、涙も、込み入った感情も、後でいい。

 

 十二年ぶりの母に最初に言うべき言葉として、結衣が選んだのはそれだった。

 

 理沙の目が潤んだ。

 

「おはよう、結衣」

 

 理沙の視線が、凛に移った。

 

 凛は黙っていた。

 

 理沙が口を開いた。

 

「凛。あなたが、私を……海から……」

 

「ええ。引き揚げた」

 

「システムは」

 

「壊した。サーバーは海の底。世界中のコンバーターは書き換えた。魔力飽和病の患者は全員回復した。歪魔の生産は停止している。残存個体も、あと数ヶ月で消滅する」

 

 凛は、事実だけを並べた。

 

 感情は込めなかった。

 

 理沙は天井を見つめた。

 

 長い沈黙。

 

「……私が、止められなかったものを」

 

「ええ。私が壊した」

 

「どうやって」

 

「物理で」

 

 理沙の口角が、僅かに動いた。

 

 笑ったのかもしれない。泣いたのかもしれない。

 

 凛には判別がつかなかった。

 

「聞きたいことがある」

 

 凛は言った。

 

「たくさんある。だが、最初に一つだけ」

 

 理沙が凛を見た。

 

「なぜ、私たちを実験に使った」

 

 病室の空気が、静かに張り詰めた。

 

 結衣は何も言わなかった。

 

 凛の質問を、遮る気はなかった。

 

 これは結衣の質問でもあるのだ。

 

 理沙は目を閉じた。

 

 数秒間、呼吸だけが聞こえた。

 

 目を開けた時、理沙の声は掠れたまま、しかし明確だった。

 

「私の魔力は、年々強くなっていた。二十代の終わりには、自分では制御できなくなり始めていた。暴走が近いことは分かっていた」

 

「暴走すれば、周囲に被害が出る。私一人が死ぬだけでは済まない。だから、魔力を分散させる方法を探した。分配器の理論を構築し、実証するためのデータが必要だった」

 

「自分の身体では実証実験ができなかった。魔力が大きすぎて、計測器が飽和してしまう。微量の魔力を安定して循環させる定常系の観察には、もっと小さなスケールの被験体が必要だった」

 

 理沙の声が、一瞬だけ途切れた。

 

「適切な被験体は、免疫系が未成熟で、かつ私と同じ遺伝的背景を持つ個体。……私の子どもしか、いなかった」

 

 凛は黙って聞いていた。

 

「言い訳にならないことは分かっている。どんな理由があっても、生まれたばかりの子どもを実験に使ったことは、正当化できない」

 

「でも、結果として、あなたたちは生きている。結衣には大量の魔力が定着し、凛にはほとんど定着しなかった。凛に残った微量の魔力が神経系に統合されたのは、私の意図ではなかった。副作用だった」

 

「その副作用が、私のFランクの精度になった」

 

「……ええ。凛、あなたがどうやってシステムを壊したのか、私にはまだ分からない。だが、カプセルの中で、あなたの魔力が私の魔力と干渉したのを感じた。逆位相の、完璧な精度の干渉を」

 

 理沙の目が、凛の右手を見た。

 

 海水で冷やされ、感覚が完全に戻りきっていない右手。

 

「あの精度は、私には出せない。出力が大きすぎて、繊細な制御ができない。あなただからできた」

 

「私にしかできなかったのは、あなたが私にそうさせたからだ」

 

 凛の声は硬かった。

 

「あなたの実験が、私の身体を作った。あなたのシステムが、結衣を食い物にした。あなたが止め損ねたものを、あなたの実験の副産物である私が壊した。全部、あなたが始めたことの因果だ」

 

「ええ。その通りよ」

 

 理沙は否定しなかった。

 

「恨んでいる?」

 

「分からない」

 

 凛は正直に言った。

 

「恨んでいるのか、怒っているのか、安心しているのか、分からない。全部同時に感じている気がする。整理がつかない」

 

「整理がつかなくていいよ、おねえちゃん」

 

 結衣が口を挟んだ。

 

「今すぐ全部分かんなくていい。お母さんはここにいるんだから、時間はあるよ」

 

 凛は結衣を見た。

 

 結衣は車椅子の上で、穏やかな顔をしていた。

 

 怒っていないわけではないだろう。

 

 だが、結衣は凛よりもずっと上手に、感情を感情のまま抱えていられる人間だった。

 

 凛は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

 

「もう一つ聞く」

 

「何」

 

「ARC-00のデータベースの暗号化キー。あなたが知っているはずだ。患者の管理番号と紐づいた情報が記録されている。歪魔のコアに使われた心臓が、誰のものだったのか。名前を知りたい人がいる」

 

 理沙は少し目を閉じて考え、答えた。

 

「覚えている。キーは私の脳内にしかない。書き出せる状態になったら、伝える」

 

「急がなくていい。だが、忘れないでくれ。八年間で三百体の歪魔を殺した人が、その名前を待っている」

 

 理沙は頷いた。

 

 凛は立ち上がった。

 

「今日はここまでにする。身体を休めてくれ」

 

「凛」

 

 凛がドアに手をかけた時、理沙が呼び止めた。

 

「ありがとう」

 

 凛は振り返らなかった。

 

「礼を言われることはしていない。私は、結衣を助けるために動いただけだ。あなたを助けたのは、結果としてそうなっただけだ」

 

「それでも」

 

「……聞こえなかった」

 

 凛はそう言って、病室を出た。

 

 廊下に出ると、キララと沙耶が壁にもたれて待っていた。

 

 キララが凛の顔を見た。

 

「どうだった」

 

「話した。少しだけ」

 

「泣いた?」

 

「泣いてない」

 

「嘘つき」

 

 凛はキララの横を通り過ぎ、廊下の窓の前で立ち止まった。

 

 十二月の午後。

 

 東京の空は、よく晴れていた。

 

 窓の外に、セラフのドローンが一機、小さな銀色の点になって横切っていく。

 

 チタン合金のボディにローターとセンサーを載せた、ただの機械だ。

 

 かつてはフクロウの姿をした魔法の妖精を装っていたそれは、今は魔法の皮を被っていない。

 

 探知データを配信し、魔力を放散し、世界中の魔法少女たちの声を運ぶ、凛が設計したネットワークの一端末。

 

 管理者はいない。

 

 凛が手放した。

 

 それでも、飛んでいる。

 

 凛は窓から目を離し、廊下を歩き出した。

 

 結衣の病室の前を通り過ぎる。

 

 結衣は車椅子をベッドの横に寄せて、窓の外を見ていた。

 

 凛が通り過ぎるのに気づいて、窓越しに小さく手を振った。

 

 凛は手を振り返した。

 

 廊下の突き当たりで、沙耶が待っていた。

 

「暗号化キーの件、伝えてくれたか」

 

「ええ。回復したら書き出すと言っていた」

 

「そうか」

 

 沙耶はそれだけ言って、目を伏せた。

 

 八年間の名前が、いつか届く。

 

 その日まで、沙耶は待つのだろう。

 

 凛は病院のロビーを抜けて、正面玄関から外に出た。

 

 十二月の風が冷たい。

 

 安物のダウンジャケットのファスナーを首元まで上げた。

 

 パステルピンクのフリルドレスは、もう着ていない。

 

 ボクシンググローブも、サバイバルナイフも、爆破ボルトも持っていない。

 

 ポーチの中に通信モジュールはなく、端末には管理者権限の表示もない。

 

 凛の手元にあるのは、ノートPCと、携帯端末と、半分食べかけのチョコレートだけだ。

 

 それで十分だった。

 

 十二月の東京の空を、凛は見上げた。

 

 高く、青い。

 

 セラフが一機、遥か上空を横切った。

 

 小さな銀色の点が、冬の太陽を反射してきらりと光った。

 

 凛はそれを目で追い、見えなくなるまで見送った。

 

 そして、駅に向かって歩き出した。

 

 行く先は決まっていない。

 

 学校に行くのか、家に帰るのか、横須賀で潜水船の整備をするのか。

 

 あるいは、病室に戻って母と話すのか。

 

 まだ決めていなかった。

 

 決まっていないことは、怖くなかった。

 

 分からないことは無限にある。

 

 だから、一生退屈しない。

 

 凛は歩きながら、端末を開いた。

 

 セラフ網のステータス。全機正常稼働。

 

 残存歪魔、世界全体で四十三体。

 

 魔力放散処理、安定。

 

 残留場の増加率、微減傾向。

 

 凛は端末を閉じ、ポケットにしまった。

 

 チョコレートの残りを齧った。

 

 甘い。

 

 十二月の風が、短い黒髪を揺らした。

 

 十六歳の少女が、東京の街を歩いている。

 

 Fランクの魔力。百円ライターの火花。

 

 だが、その指先には、世界を壊し、世界を直し、母の心臓の鼓動を鎮めた精度が宿っている。

 

 次に何をするかは、まだ分からない。

 

 だが、歩き出すことはできる。

 

 凛は歩いた。

 

 冬の空の下を、一人で。

 

 だが、一人ではなかった。




読んでくださり、誠にありがとうございました。最後までお付き合いいただけたこと、心より感謝いたします。
本作を少しでも楽しんでいただけたのであれば、これ以上の喜びはありません。

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