魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。 作:アホ面オムライス
圧倒的な質量を持つ、暗黒の海。
水深五十メートルの冷たく重い水圧の中を、一隻の鉄の塊が音もなく這い進んでいた。
病院の地下でメインサーバーの座標を特定してから六時間。
その間、凛は一秒も無駄にしなかった。
まず、ワンボックスカーで東京湾岸の廃棄ドック群へ向かった。
三ヶ月前から目をつけていた場所だ。
凛はこの半年間、歪魔の出没座標を地図上にプロットし続けてきた。
出没が異常に集中する東京湾岸エリア。
その湾岸に点在する廃棄ドックには、密漁業者が摘発時に放棄した小型潜水艇が不法投棄されている。
海上保安庁の処分リストに載りながら予算不足で放置されている個体のうち、凛は外殻の腐食度とスクリューの残存状態を肉眼で確認できた三隻を候補としてリストアップしていた。
今回選んだのは、放棄からまだ八ヶ月しか経っていない最も新しい個体だ。
外殻の赤錆は表面だけで、耐圧殻のチタン合金には致命的な腐食は見られなかった。
錆びついたクレーンをハッキングして艇を海へ下ろし、コックピットに入って状態を確認する。
バラストタンクのバルブは固着していたが、CRCを吹いてハンマーで叩けば動いた。
酸素供給系統は、密漁艇の標準装備である圧縮酸素ボンベ二本が残量六十パーセントで残っていた。四時間程度の潜航には十分だ。
スクリュー駆動系のバッテリーは完全に放電していたが、凛はワンボックスカーから持ち込んだ予備の船舶用バッテリーをバイパス接続し、主電源を強制的に復旧させた。
計器類の一部は死んでいる。
だが、凛の携帯端末を潜水艇の古い操縦システムに物理ケーブルで直結すれば、即席のナビゲーションシステムとして機能する。
完璧には程遠い。
だが、動く。それで十分だった。
狭く、古い油と潮の酷い悪臭が立ち込めるコックピット。
むき出しの計器類が放つ薄暗い緑色の燐光だけが、二人の少女の顔を不気味に照らし出している。
「……最悪。本当に最悪だわ」
狭い助手席に膝を抱えるようにして縮こまりながら、星野キララが忌々しげに吐き捨てた。
「空を飛んで移動すれば、数分の距離じゃない……。どうして私が、こんな息の詰まる鉄屑の棺桶に……」
「愚痴なら、無事に浮上してから聞き流して差し上げますわ」
操縦桿を握る葛城凛は、前方の暗闘から一切視線を外すことなく言い放った。
「空を飛ぶなど、自殺志願者のやることですわ」
凛は、モニターに映し出された東京湾のデジタル海図の一点を指先で叩いた。
「あの要塞の上空には、超高感度の対空魔力探知レーダーが敷かれていますの」
ブラックボックスから抽出した防衛システムの構成データに、対空探知網のパラメータが含まれていた。
「魔法少女が空を飛ぶには、莫大な魔力の放出が不可欠ですわ。上空に近づけば即座に捕捉され、迎撃されますの」
「……だからって、海の中が安全なわけじゃないでしょ!」
キララの声と同時に。
ピィィィン……。
潜水艇の船殻を、外側から硬い金属のハンマーで叩いたような、不気味な反響音が鳴り響いた。
「な、何!?」
「アクティブソナーの探知音波ですわ。海上プラットフォームの支柱から超音波を全方位に発信し、接近する物体を捕捉する水中探知網。ブラックボックスの防衛データに記載されていた海中防衛の第一層ですの」
ピィィン……!
再び。先ほどよりも音が大きく、間隔も短い。
「この鉄の塊のまま進めば、音波を反射して位置を割り出されますわ」
「だったら私の魔法で透明化を……!」
「ステッキから手を離しなさいッ!」
凛の絶対的な命令がコックピットに響いた。
「光を曲げる程度の魔法で、音波はごまかせませんわ。光と音は全く別の物理現象ですの。海中で魔力を発動させれば、要塞の魔力波長探知センサーが反応して終わりですわ」
「じゃあどうするのよ!」
ピィン! ピィン! ピィン!
ソナーが連続警告に変わった。
敵の探知網が、目の前まで迫っている。
だが、凛の口角は微かにつり上がっていた。
「海の中は一様ではありませんわ。太陽の熱で温められた表層と、冷たい深層。その境界に、水温が急変する層がある」
凛は操縦桿を握り、バラストタンクに注水を開始した。
ゴボゴボッという鈍い音と共に、船体がさらに深く沈んでいく。
ギギギギギ……ッ!
水深限界に近づき、装甲が水圧に悲鳴を上げる。
「ちょっと! 潰れるわよ!」
「音波は、密度の異なる物質の境界で屈折しますの。水温躍層を超えれば、上方からのソナーの音波は海底方向へ逸れ、その直下に音波の届かない死角が生じますわ」
凛は潜舵を限界まで下げた。
外部センサーの水温計が、表層の十八度から一気に十二度へ低下する。
潜水艇が冷たい暗黒の層へと滑り込んだ瞬間。
船殻を叩き続けていたソナーのピング音が、完全に消失した。
「音が……消えた……?」
「私たちの頭上を素通りしているだけですわ」
凛は計器の出力を限界まで絞り、極低速の静音航行モードへ切り替えた。
数十分の息詰まるような潜航。
やがて、凛が外部サーチライトを点灯させた。
光の先に、巨大なチタン合金の柱群が海底からそびえ立っている。
要塞を支える支柱群だ。
「浮上して上陸しますわよ」
凛はメインタンクの空気を抜き、潜水艇を海面へ向けて浮上させ始めた。
だが。
ガツンッ!!!
水深十メートル付近で、潜水艇の頭頂部が目に見えない硬い壁に激突し、凄まじい衝撃音と共に弾き返された。
「岩礁!?」
「違いますわ」
凛はスラスターで船体を安定させ、サーチライトを真上に向けた。
海面がない。
本来なら空気が広がっているはずの空間が、ガチガチに固められていた。
液体の水でありながら、潜水艇の装甲がぶつかっても揺るがない超高密度の物理的バリア。
「水の分子間力を極限まで高めた巨大な流体ドームですわ。空からの攻撃は対空レーダーで阻み、海中からの上陸はこの水壁で封じる。完璧な二重の防壁」
「浮上できなかったら上陸は不可能じゃない!」
だが、凛の顔に焦りはなかった。
彼女は振り返り、後部座席のスペースに積まれていた無骨なドラム缶を見た。
ワンボックスカーの荷台から持ち込んだ装備の一つ。
凛の闇ルートのサプライヤーから仕入れた、工業用の酸性界面活性溶剤。
建築解体の現場で使われる薬品だ。酸性の界面活性剤を主剤としており、金属表面の酸化被膜を溶解しつつ、強力な浸透力で微細な隙間にまで入り込む。
本来はチタン装甲を腐食させて強行突入するために用意していた。
「予定変更ですわ。装甲を溶かす前に、まずこの水壁を突破しますの」
凛はドラム缶のバルブを確認しながら、水壁の構造を分析した。
「この水壁は、強化ガラスと同じ力学構造をしていますわ。表面張力を極限まで高めた緊張状態で硬度を維持している。ハンマーで叩いても割れない。ですが、その極限の緊張には構造的な弱点がある」
凛はサーチライトの光を、支柱と水壁が接触している境界部分に当てた。
「極限まで張り詰めた張力ネットワークに、たった一箇所でも致命的な亀裂が入れば、蓄積された反発エネルギーが全体に伝播して自壊しますの。プリンス・ルパートの滴と同じ物理現象ですわ」
凛はドラム缶から伸びる耐圧ホースを、潜水艇の魚雷発射管のバイパスバルブへと直結した。
ガコンッ。船体下部から、鋭利なチタン製の水中銛がせり出す。
銛の内部には、耐圧チューブを通して酸性溶剤が充填されている。
「ドラム缶一本分の薬液を海中にばら撒いても、周囲の海水に希釈されて無意味ですわ。支柱と水壁の境界――最も構造的負荷が集中している一点に、注射器のように直接叩き込みますの」
「でも、あの硬い水壁に銛を刺したところで、薬液が浸透する前に弾かれるでしょ!」
「だから、浸透させる推進力が要りますの」
凛はタクティカルポーチからケーブルを引き出した。
石英ガラスの光ファイバーケーブル。先端は銛の内部に接続されている。
「星野さん。ステッキをこのケーブルに接続しなさいな。銛が水壁に刺さった直後、レーザーをファイバー経由で銛の内部に流し込みますの。薬液と海水が超高熱で瞬時に沸騰し、水蒸気爆発の膨張圧が薬液を水壁の深部へねじ込みますわ」
界面活性剤の浸透力が、水壁の境界部分の分子結合に割り込む。
同時に酸が支柱表面のチタンの酸化被膜を腐食し、水壁とチタンの接合部を二重に侵食する。
表面張力のネットワークに、化学的な亀裂を刻み込む。
「……本当に性格悪いわね」
キララはステッキを構え、先端を光ファイバーのソケットにカチャリと連結させた。
「いつでも撃てるわ」
「では、城門をこじ開けますわよ」
凛はスクリューを最大出力で回転させた。
潜水艇が支柱と水壁の境界へと肉薄していく。
「距離、十、五、三……今ですわッ!!」
チタン製の水中銛が射出された。
ズゴォォォンッ!!
銛の先端が水壁の表面に激突し、わずか数ミリだけ突き刺さって停止する。
「撃ちなさいッ!」
「貫けぇぇぇッ!! 『スターライト・レーザー』ッ!!」
キュイィィィィンッ!!
光の奔流がファイバーを駆け抜け、銛の内部の溶剤と海水に直撃した。
ボゴォォォォォォォォッ!!!
水が気化し、約千七百倍に膨張する。
爆発的な蒸気圧が、酸性溶剤を水壁の分子構造の奥へと叩き込んだ。
ピキッ……。
水壁の表面に、白く濁った亀裂が走った。
「ビンゴですわ」
凛はスクリューを逆回転させて即座に後退した。
亀裂がフラクタル図形のように枝分かれし、数百メートルの流体ドーム全体へ一瞬で伝播していく。
パァァァァァァァァァァンッ!!!!
巨大なガラスの城が砕け散るような轟音。
数百万トンの水塊が、ただの海水に戻って崩落した。
ドゴォォォォォォォォォンッ!!!
巨大な水柱。凄まじい乱水流。
「きゃあああああッ!!」
潜水艇が激しく回転する。
「舌を噛みますわよ! 耐えなさいッ!」
凛はバラストタンクの空気を全開放し、強制浮上モードへ移行した。
数十秒の地獄の揺れの末。
ザバァァァァァンッ!!
潜水艇が海面に浮上した。
ハッチを蹴り開け、二人が外の空気を吸い込む。
水壁は完全に消滅していた。
冷たい雨が、剥き出しの顔を打つ。
眼前にそびえ立つ巨大な要塞島。
チタン合金の柱群に支えられたプラットフォーム。
表面にはセラフのドローンと同じメタマテリアルの光学迷彩パネルが貼られていたが、水壁崩壊の衝撃波で一部が剥がれ、鈍い灰色の装甲がむき出しになっている。
衛星画像にも船舶レーダーにも映らない、幽霊のような要塞。
赤い非常灯が狂ったように明滅し、警報が鳴り響いている。
「城壁は落ちましたわ。これで物理的に殴り込めますの」
だが。
ズウン……ズウン……!
ドックの奥から、地響きのような重低音。
現れたのは、病院の地下の執行者ではない。
全長五メートル。甲殻類を思わせる流線型の耐圧装甲。
両腕には、海水を高圧噴射するウォータージェット推進の巨大なノズル。
頭部の赤いスキャンレンズを明滅させながら、三体の水陸両用型・防衛機構が、要塞の縁から海中へ身を躍らせた。
ザバァァァンッ!!
三体が、潜水艇を取り囲むように急速接近してくる。
「三体!? 今度は三体も!?」
「海の中にいる相手にレーザーを撃っても、水に吸収されて減衰しますわ。だが――」
凛は口角をつり上げた。
「奴らがわざわざ海の中に入ってきてくれたこと。それが奴らの設計における致命的な欠陥ですのよ」
「どういうこと……」
「空気は縮みますが、水は非圧縮性流体ですわ。衝撃波を一切減衰させることなく伝達する、極めて優秀な殺傷媒体になりますの」
凛の手が、操縦桿と次なるコマンドへと伸びた。
「さあ、次は流体力学の時間ですわよ」
ハッチを閉め、潜水艇は再び海中へ潜った。
暗黒の東京湾を舞台にした、神殺しの第二幕が始まる。
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