魔法は捨てた、物理(アイツ)を信じろ。   作:アホ面オムライス

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第8話

 沈みゆく要塞の内部を、凛とキララは走っていた。

 

 傾斜した通路を海水が滝のように流れ落ち、二人のブーツを膝まで浸す。

 

 背後からは、アーキテクトの規則正しい足音が追従してくる。

 

 速くはない。

 

 だが、決して離れない。

 

 獲物が消耗するのを待つ捕食者の歩調だった。

 

 凛は走りながら、通路の壁面を観察し続けていた。

 

 要塞の傾斜によって亀裂が入った冷却配管。

 

 そこから漏れ出す液体ヘリウムが、白い霧となって通路の低い位置を這っている。

 

 霧は海水の流れに乗って、凛たちと同じ方向――要塞の最深部へ向かって流れ落ちていく。

 

 凛の脳内で、断片的な変数が一つの図面に収束し始めていた。

 

 液体ヘリウム。沸点マイナス二六九度。

 

 海水。凝固点マイナス二度。

 

 そして、アーキテクトの極低温フィールド。

 

 通路の先に、メインサーバー室への巨大な隔壁扉が見えてきた。

 

 扉は要塞の傾斜で歪み、上部に三十センチほどの隙間が空いている。

 

 成人の身体が通れる幅ではない。

 

 凛は隙間の奥を覗き込んだ。

 

 扉の向こうは、広大な空間だった。

 

 天井の高い、体育館ほどの巨大なフロア。

 

 その中央に、無数の光ケーブルが集束する黒い筐体群――メインサーバーのラック群が林立しているのが、非常灯の赤い光に照らされて見える。

 

 神の脳髄。

 

 あれを物理的に破壊すれば、魔法少女のシステムは停止する。

 

 だが、扉が開かない。

 

 歪んだ隔壁の上部の隙間は狭すぎ、下部は流れ込む海水で完全に水没している。

 

「葛城さん、扉が……!」

 

「分かっていますわ」

 

 凛は扉の構造を観察した。

 

 防爆仕様の分厚い鉄製隔壁。

 

 ヒンジは壁面に埋め込まれた四点固定式。

 

 電動の油圧ロック機構が、扉の中央で赤いランプを点滅させている。

 

 電源が生きている限り、ロックは解除されない。

 

 背後から、アーキテクトの足音が近づいてくる。

 

 凛は振り返り、通路の奥から歩いてくる青白い人型の機械を睨みつけた。

 

 距離、約四十メートル。

 

 アーキテクトの周囲数メートルは、マイナス二百度以下の極低温フィールドに支配されている。

 

 キララの炎は到達前に消え、物理的な打撃を試みれば接近した瞬間に凍結する。

 

 だが、凛はアーキテクトの弱点を、既に一つ掴んでいた。

 

 先ほどの遭遇時、アーキテクトは足元の海水を瞬間凍結させて氷の槍を生成した。

 

 接触した液体から瞬時に熱を奪う能力。

 

 それは同時に、アーキテクトの装甲が常に液体ヘリウム温度に近い極低温を維持していることを意味する。

 

 極低温の金属に、常温の液体が触れた場合に何が起きるか。

 

 ライデンフロスト効果。

 

 液体が極低温(または極高温)の表面に触れると、接触面で瞬時に気化した蒸気の層が断熱膜を形成し、液体本体と表面の直接接触を妨げる現象だ。

 

 アーキテクトの足元で海水が凍っているのは、フィールドの範囲内で海水が直接装甲に触れているからだ。

 

 だが、もし大量の液体が一気にアーキテクトの装甲表面を覆ったら。

 

 装甲表面で気化した蒸気の層が断熱膜となり、アーキテクトの冷却効率を劇的に低下させる。

 

 外部からの冷却が阻害されれば、装甲の内部温度は自身の発する熱で徐々に上昇する。

 

 極低温フィールドが弱まる。

 

 しかし、ライデンフロスト効果だけでは致命傷にならない。

 

 蒸気膜はいずれ破れ、冷却は再開される。

 

 アーキテクトを倒すのではなく、フィールドを一時的に弱めるだけだ。

 

 それで十分だった。

 

 凛に必要なのは、アーキテクトの撃破ではない。

 

 メインサーバー室への扉を開けることだ。

 

 凛は隔壁扉の油圧ロック機構を再度確認した。

 

 電動の油圧ポンプが、ロックピンを固定している。

 

 電源を断てば、油圧が抜け、ロックピンはバネの力で退避する。

 

 電源を断つ方法。

 

 扉のロック機構に電力を供給しているケーブルは、壁面の配管ダクトを通っている。

 

 凛の目は、ダクトの位置を追った。

 

 ダクトは天井付近を走り、通路の途中で分岐している。

 

 分岐点は、凛の現在位置とアーキテクトの間。

 

 つまり、アーキテクトの極低温フィールドの範囲内だ。

 

 直接手を伸ばせば凍結する。

 

 だが、フィールドが一時的に弱まれば。

 

 凛は通路の構造を見渡した。

 

 傾斜した通路を流れ落ちる海水。

 

 その流路の途中に、壁面から突き出た破損した冷却配管がある。

 

 配管の破損口は、アーキテクトが通過する動線上に位置していた。

 

 配管の中にはまだ液体ヘリウムが残っている。

 

 漏洩は緩やかだが、配管の破損口を広げれば、残存する液体ヘリウムを一気に放出できる。

 

 マイナス二六九度の液体が床の海水に触れれば、接触面で海水が爆発的に沸騰する。

 

 水蒸気爆発に近い急激な気化。

 

 大量の水蒸気が一瞬にして通路を満たし、アーキテクトの装甲表面を覆う。

 

 極低温の装甲に大量の水蒸気が接触すると、ライデンフロスト効果で蒸気膜が装甲を包み込む。

 

 外部からの冷却効率が低下する。

 

 極低温フィールドが弱まる。

 

 その数秒の隙に、ケーブルを切断する。

 

 だが、凛の手は届かない。

 

 ケーブルの分岐点は天井付近。凛の身長では、跳んでも届かない高さだ。

 

「星野さん」

 

 凛はキララを振り返った。

 

「一つだけ、お願いがありますの」

 

「何よ、改まって」

 

「わたくしの合図で、あの天井の配管ダクトに向けてレーザーを撃ちなさいな。出力は最小で構いませんわ。ケーブルを一本、溶断するだけですの」

 

 凛は天井のダクトの位置を指差した。

 

「でも、あいつの極低温フィールドの中よ。レーザーだって、あの冷気で減衰するんじゃ……」

 

「だから、先にフィールドを弱めますの」

 

 凛はタクティカルポーチからサバイバルナイフを引き抜いた。

 

「わたくしが配管を壊して蒸気を起こしますわ。フィールドが揺らいだ瞬間に、撃ちなさい」

 

「配管を壊すって、あなたがあいつに近づくってこと!?」

 

「配管の位置は、奴の現在地より手前ですわ。フィールドの範囲内ではありますが、縁ですの。数秒なら耐えられますわ」

 

 耐えられる根拠は薄い。

 

 凛自身、それが賭けであることは分かっていた。

 

 だが、他に手がない。

 

 アーキテクトの足音が、三十メートルまで迫っていた。

 

「行きますわよ」

 

 凛は海水の中を走り出した。

 

 パステルピンクのフリルが、泥水を跳ね上げて揺れる。

 

 アーキテクトに向かってではない。

 

 通路の壁面から突き出た破損配管に向かって、斜めに走る。

 

 アーキテクトのスリットが凛の動きを捉えた。

 

 右腕が上がる。

 

 バキィィィンッ!!

 

 足元の海水が爆発的に凍結し、氷の槍が凛の右脇を掠めて飛んだ。

 

 作業服の袖が裂け、上腕の皮膚が氷の破片で切れる。

 

 赤い血が飛び散った。

 

 だが凛は止まらなかった。

 

 破損配管に到達する。

 

 配管の亀裂から、白い冷気がシューと漏れている。

 

 凛はサバイバルナイフの刃を配管の亀裂に差し込み、体重をかけてこじった。

 

 ギャリィッ!

 

 金属が裂ける音。

 

 亀裂が一気に広がり、配管の中から残存していた液体ヘリウムが床へ向けて噴出した。

 

 透明な極低温の液体が、傾斜した通路を流れる海水の表面に着弾した瞬間。

 

 ドゴォッ!!

 

 海水が爆発的に沸騰した。

 

 マイナス二六九度と、プラス十数度。

 

 三百度近い温度差が接触面で激突し、海水の表面が一瞬にして気化する。

 

 莫大な水蒸気が、通路を埋め尽くす白い爆風となって噴き上がった。

 

 凛は配管を壊した直後、身を翻して後方へ跳んでいた。

 

 蒸気の壁が、アーキテクトの全身を包み込む。

 

 極低温の装甲表面で蒸気が接触し、ライデンフロスト効果が発動する。

 

 装甲と蒸気の間に断熱膜が形成され、外部からの冷却効率が急落する。

 

 アーキテクトの青いスリットが、一瞬だけ明滅した。

 

 足元の海水の凍結速度が、目に見えて鈍くなる。

 

 極低温フィールドが揺らいでいる。

 

「今ですわッ!!」

 

 凛が叫んだ。

 

 キララは待っていた。

 

 ステッキの先端に、最小出力のレーザーが収束している。

 

 蒸気の壁の中、天井付近の配管ダクト。

 

 凛が指差した位置。

 

 そこを走る一本の電力ケーブル。

 

「『スターライト・レーザー』ッ!」

 

 極細の光線が、白い蒸気を貫いて天井のダクトに到達した。

 

 弱まったフィールドの中を、減衰しながらもケーブルの被覆を焼く。

 

 パチッ、という小さな音。

 

 銅線が溶断され、火花が散った。

 

 隔壁扉の油圧ロック機構への給電が断たれた。

 

 ガコンッ。

 

 油圧が抜け、ロックピンがバネで退避する鈍い金属音が、蒸気の向こうから響いた。

 

 凛は振り返り、隔壁扉に体当たりした。

 

 ロックが外れた扉が、歪んだヒンジを軋ませながら、内側へと押し開かれる。

 

「入りなさいッ!」

 

 キララが扉の隙間を駆け抜ける。

 

 凛が続いて飛び込んだ直後、背後で蒸気が晴れ始めた。

 

 アーキテクトの装甲に付着した水滴が、再び凍結を始めている。

 

 フィールドの回復。

 

 凛の予測通り、数秒の猶予しかなかった。

 

 扉の内側に入った凛は、即座にサバイバルナイフで扉の内側のヒンジのピンを叩き出した。

 

 一本、二本。

 

 三本目を抜いた時点で、数百キロの鉄の隔壁が自重で傾ぎ、ドシャンッ!と通路側に向かって倒れ込んだ。

 

 扉が通路を塞ぐ形で崩落する。

 

 完全な封鎖ではない。

 

 だが、アーキテクトが突破するには、この鉄の塊をどかすか、凍結させて砕くかの手間が必要になる。

 

 数分の猶予。

 

 凛はメインサーバー室の内部を見渡した。

 

 体育館ほどの巨大なフロア。

 

 天井は高く、非常灯の赤い光が不気味に明滅している。

 

 フロアの中央に、黒い筐体のサーバーラックが整然と林立していた。

 

 数十基のラックが等間隔に並び、その全てを繋ぐ極太の光ケーブルが、床下から蜘蛛の巣のように広がっている。

 

 病院の地下から結衣の魔力を吸い上げていたケーブルは、ここに集束していた。

 

 世界中の魔力飽和病の患者から搾取した魔力を集積し、歪魔を生産し、魔法少女のシステムを運営する頭脳。

 

 凛はサーバーラック群の中央に立ち、その黒い筐体を見上げた。

 

「これが、神の脳髄ですのね」

 

 右腕の裂傷から血が滴り、コンクリートの床に赤い斑点を作る。

 

 ブーツの中は海水で冷え切り、指先の感覚が鈍くなっている。

 

 身体の限界が近い。

 

 だが、目の前にある。

 

 妹を食い物にし、世界中の命を弄んできたシステムの心臓が。

 

 凛はボクシンググローブをはめ直し、サーバーラックの筐体に手をかけた。

 

 背後で、隔壁扉に何かが激突する重い音が響いた。

 

 アーキテクトが追いついてきている。

 

 残された時間は、あとわずかだ。




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